第五幕第一場
二〇三一年七月 虎ノ門
「フラれました」
「は?」
「ブロックされました。まったく音沙汰なしですね」
朝になって彼女が部屋を出た音には当然気づいていた。しかしその後、Numberでブロックまでされるとは思わなかったというのが忍の本音だった。桐には、ヒャッヒャッヒャッと腹を抱えて笑われるかとも思ったが、彼はポカンと口を開けたまま、「……勘づかれたのか?」と忍の顔を窺った。
「さあ。怪しまれるようなことはしていませんが」
「そうか……まあいい。ご縁がなかったんだろ。次の任務だが……」
「本日はもう一つお話がありまして」
背広の内ポケットから白封筒を取り出し、ダンッと忍が執務机にそれを叩きつける。用意するのは癪だったが、「退職願」と表に達筆で書かれた封筒と忍の顔を交互に見た桐が、「何だこれは」と眉を顰めた。仮面を貼りつけるように、あるいは外すように、忍がニコリと笑う。
「おいコラ。この狸ジジイ」
「誰が、いつ、荼毘に付されたって?」忍は実の父親――桐に向かって、頬をひくつかせながら笑みを向けた。
そもそも、〝桜〟は、死んでなどいなかったのだ。〝ピノキオ〟こそが、〝桜〟だった。そして〝ピノキオ〟は、OSSのエージェント――〝アリス〟でもあった。桐に渡された〝ピノキオ〟のプロファイルからは、彼女の〝アリス〟としての経歴がすっぽり消されていた。
あの日、忍はOSS所有のレジデンスで彼女を介抱した。建物の下層階にはショッピングモールやスーパー、病院、美容院、ジム、書店等々ひと通りの施設が入っており、上層階に住む人間はそのビルから出ずに生活することが可能だが、構成員の中でもこのビルがOSSの手の内にあることを知っている者は限られていた。
しかし、廊下に設置されていた監視カメラの録画から、エレベーター前でエージェントの〝菊〟と彼女が仲睦まじげに接触していた様子を見たとき、忍は唖然とした。
「アリスのことぉ? あの街の生き残りよぉ」
「知ってて手ぇ出したんじゃないのぉ?」菊に詰め寄った忍が「出してねえ」と即座に否定する。しかしアリスのプロファイルを閲覧するアクセス権限が、幹部の〝藤〟にさえ与えられていなかった。「あらぁ、なんで見れないのかしらん」と後ろから覆い被さって忍のペンホを菊が覗く。「知るかっ」と忍は彼女の脇腹に猿臂を容赦なく食らわせた。しかしその腹筋は案の定、石のように硬かった。「ひどぉーい! 暴力はんたぁーい!」と菊が視界の端でくねくね動くのを忍は完全に無視した。
灯台下暗しにも程がある。とんだ、茶番劇だった。
桐が悪びれる様子もなく、「ほう。気づいたのか」と口の端を上げて笑う。
「なぜ俺に言わなかった」
「どこぞの国の息がかかったスパイかもわからんしなあ。王一族の耳にでも入ったらてーへんだ」
「貴様が言うな!」
「なぜ気づいた? 顔も声も耳の形も変えていたはずだが」
「誰が言うかよ」
「なんだ。もう寝たのか。手が早いな」
桐の無粋な憶測を否定するのも馬鹿らしく、「チッ」と忍が悪態をつく。
――あの日、気を失って吐瀉物にまみれた彼女を着替えさせたとき。
なんの悪夢かと、思った。
背が桜よりもずっと高かったのは、義足で調整していたからか。指、腕の長さ。手相。胸、背中、腹、太腿のほくろ。おそらく、それらは本人よりも位置を正確に忍は記憶していた。特に背中に並んだ三つ星のほくろは、忍が指摘するまで桜は存在すら知らなかった。
おかしいと思った。米市民権を持ったエージェントなどOSSには掃いて捨てるほど在籍している。今更、リクルートする必要はまったくない。
何が、「どうも紛れ込めているらしい」だ。紛れ込ませた、んだろうが。
「なぜわざわざ他人に成り代わらせたりしたんだ」
「それが桜の最期の望みだったからな」
「……は?」
「『王依梦として生きたくない』、と」
フッ、と鼻で笑い、桐が試すように忍を見る。二〇二七年八月九日、あの街ではOSSの構成員も何人か犠牲になった。他国籍を持った貴重な駒も中にはいた。その一人が王依梦と年齢も同じでちょうどいいと桐は判断した。
忍はぐっと拳を握りしめ、机を力の限りぶっ叩いた。
「今になってこんな試すマネしやがって……っ」
「そろそろ腑抜けた面を見るのも飽きてきたんでな」
「ほざけよ。いつから貴様は節介焼きに転じた」
「いつまで経ってもウダウダしていたのはどこのどいつだ。女々しいったらありゃしない。……ったく誰に育てられたんだか」
「少なくとも貴様に育てられた覚えはねえよ! ……このっ、」
身を翻し、歩を進めた忍がドア横の静紋認証装置にバンッと手をかざす。カチッと解除音が鳴った。
「To hell!《地獄に堕ちろ!》」
『ハムレット』の台詞を吐いて、ダンッと盛大に音を立ててドアが閉められる。閉ざされたドアにも盛大に蹴りをお見舞いしたのか、ドンッとドアの向こうで大きな音が鳴った。
部屋の中では、仮面が外れたように、肩を震わせて笑う者がいた。




