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第四幕第四場





 二〇三一年七月 永田町


「――先輩。……わたくし、とうとう猫を拾っちゃいました。これで一生独り身かもしれないとの覚悟は決めました」


 午後から出勤したピノコが大荷物を抱えて自分のデスクに着く。ふう、と椅子に座り、デスクに置いたキャリーケースから、彼女は茶トラの仔猫を取り出した。「ビャー、ビャー」と不安そうに鳴いている。今朝、路傍にうずくまって一匹で震えていたのが、ちょうどピノコの視界に入ってしまったのだ。車に轢かれるかもしれない危険もあり、ピノコはすぐさま猫を保護した。猫を病院に連れて行くから午前休をもらうとK主幹には正直に電話し、正午までには猫用グッズをペットショップで大量に揃えていた。


「一生って……。ピノコさん、まだ二十五なのに」

「もうすぐ二十六ですよ」

「来月だよね。去年みたく〈アルテ〉のコーヒー豆とホールケーキ持ってきますね」


〈アルテ〉のレアチーズケーキは頬っぺたが落ちるかと思うほど美味しい。「わーい! ありがとうございます!」とピノコが仔猫を万歳させて喜びを表現した。


「それでですね。まだ仔猫なので二、三時間おきにミルクと排泄の世話をしたいんです。ちょっとの間、一緒に通勤してもいいですかね? って今日はもうしてるんですけど。かの大英帝国もホワイトホールで猫飼ってるじゃないですか。官邸でも外務省でも大蔵省でも。日本もネズミ捕獲長は作るべきです。定員要求しましょう」

「ずいぶん詳しいですね」

「はい。お猫様の公式アカウントはすべてフォローしています。というかさっさと弊社が在宅勤務の環境を整えてくれたらモーマンタイなんですがね。総理があんなに色々整備しているのに弊社だけ時代に逆行してませんか」

「国家機密が庁舎から外に出るのは、情報機関的にはやはり避けたいんでしょうね」

「衛星画像みたいな特定秘を持ち出すバカはいくら何でもいないと思いたいですが、せめて他省庁も在宅勤務で扱っているような機密性2情報くらいは許してほしいものです」


 やれやれ。天下のCIA職員だってテレワークができているご時勢なのに、なぜ弊社はできないのか。もはや宇宙の謎、いや、宇宙猫、だ。


「……それにしても、ほんとに猫だねえ」


 先輩がピノコの抱える猫の額を人差し指でくりくりと触った。猫は気持ちよさそうに目を閉じて、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


「先輩、猫は好きですか?」

「可愛らしいとは思いますよ。でもちょっとトラウマがあって」

「え、何かあったんですか」

「俺、幼少期は壱岐で育ったって言ったよね。そのときさ、畑で産まれた仔猫を何匹か拾っちゃって。でもそれを目敏く見つけた祖父に『元んとこに戻しちこい。トンビにでも食わしちょけ』と一蹴されました」

「し、島の人の考え弱肉強食すぎてきょわすぎませんか。それでどうされたんですか」

「祖父の言うことは絶対だったので、畑に戻しましたよ。次の日には、猫たちもいなくなっていました。すぐトンビに食われたか。はたまた親猫が現れたか。あるいは自力で逃げたか」

「なんということでしょう……」


 島の情操教育、容赦なく過酷で恐ろしすぎる。動物愛護団体が聞けばすっ飛んで来そうな事案ではないか。だが自然界というものは今も昔も変わらず、ずっとそうだったのだろう。人間があれこれ茶々を入れてあーだこーだ言っているだけで。


「庁舎に猫、かあ。……そうですね。とりあえず、警察官僚は頭ごなしに反対しそうなので、トップの総理に判断を仰いでみましょう」

「わあ。すごーい」


 先輩のぶっ飛んだ提案にピノコは思わず棒読みをしてしまった。なんと先輩と総理は古くからの知己であるらしい。確かに二人は同い年である上に、故郷は同じ島だ。幼少期から何かしらの交流があってもおかしくない。それにしても、一国の首脳にワンコールで繋がるの、すごすぎないか。「もしもし。俺」と先輩が言って、ペンホで仔猫のことを早速説明した。


「『いいよ』って」

「マジでございますか!」

「ピノコさんに替わって、と」


 そう言って先輩は開いたペンホをスピーカーモードにし、ピノコの前に画面を差し出した。総理のご尊顔がパッと高解像度で映し出され、「ひぇ……」とピノコが声を漏らす。


『いいじゃない。新庁舎は出入口もしっかりしてるから脱走はしないだろうし。ついでにネコちゃんのNiJetter(ニジェッター)とかNinstagram(ニンスタグラム)とか始めたら? 俺も拡散するよ。ほら、運用ポリシーなんかはエースにちょちょいのちょいのちょいって書かせてくれたらいいから』

「地味に仕事が増えましたね」

「す、すみません!」


 新庁舎のセキュリティはまるで官邸地下の危機管理センターに入るときのように、一人ごとにカプセルのようなものに入って入室する厳重な態勢になった。以前のセキュリティがガバガバだっただけらしいが。前の本府庁舎では他省庁の職員が六階に入ってきてしまうことも年に数回はあったそうで、「テロリストが来たら二十秒くらいでフロア制圧できそうだよね」と先輩が冷静に分析していたのを思い出す。


『名前は何にするの?』

「レオ、にしようかと。ありきたりですが」

『あ、雄なんだ。いいじゃない。由来は?』

「『ジャングル大帝』です! 強く、賢く、逞しく!」

「どっかの小学校の標語みたいなマニフェストに似てるね」

『ちょ、遠回しに俺の演説ディスってない?』


 あはは、と笑いながら、総理との通話を和やかに終えたあと、なんとその日のうちに二枚の辞令が届いた。やはり仕事のできる男は違う。いったいあのJになんと言って納得させたのだろう。一枚目の辞令には「(氏名)レオ(異動内容)国家情報事務官(ネズミ捕り係長)に採用する」と記されていた。


「さ、3(グレ)!? いきなり主査ですと! 猫のほうが上司……」

「人間は猫のしもべですからねえ」


「行政職(一)3級9号俸を給する」と印字された二枚目の給与の辞令を、まだ2級で係員のピノコが手をぷるぷると震わせながら持った。「ねえ君、国家情報庁のネズミ捕り係長を拝命したんだよ? わかってる?」と、膝の上で仰向けになり、電池が切れたようにスピスピ寝ている猫をピノコが撫でる。

 とりあえず、猫のキャリーケースは主幹室に置くことにした。K主幹は只今外出中だが、「ええー?」とは言いつつ許してくれるだろう。面談用に置かれたソファーでピノコがミルクをシリンジで猫に飲ませているとき、彼女の向かいに座ってその様子を観察していた先輩が「あれ?」と何かを思い出すように首を傾げた。


「そもそもピノコさん、なんでマッチングアプリをインストールしたんだっけ?」

「いやあ。そろそろ先輩から卒業しようと思いまして」


 えへへ。とピノコがきっかけを思い出して笑う。同僚の中で、ふざけ半分でも先輩の愛人説が流布しているのは奥様にも申し訳ないので。とピノコが言うと、先輩は「なんだ。そんなこと気にされたんですか」と息をついて笑った。


「我々は性差なんて超えた()()なんですから、無理に卒業なんて思わなくて結構ですよ」

「え、嬉しいです! ご迷惑じゃないですか?」

「まったく。結婚してもね、人間ってのは結局最後まで孤独でひとりなんだよ。〈一匹会〉とでも名づけましょうか」

「会費はいくらですか!」

「ピノコさんは既に永年会員ですので無料です」

「やったー! 〈一匹会〉、いいですねえ。婚期が全力で遠のいていく音が聞こえるようです」


「婚期、ね」と、先輩は何やらおかしそうにフフッと笑った。


「マッチングアプリはそもそも非モテには向いていないツールなんですよ。出逢いに〈物語〉を求める面倒くさい生き物ですから。それで非モテのピノコさんはどうすればいいのかと言うと、ピノコさんの身の丈に合う男が現れるのを待ち、そういう機会が来た時にその機会を逃さないようにするのがいいでしょう。色んな男と遊んでみればわかると誰かに言われるかもしれませんが、想像力を働かせれば単純な男が考えていることなど容易にわかるはずですから、無理に恋愛経験を重ねる必要などありません」

「ふぁい」

「また、色んな人間と遊んできた経験があるということは、基本的にはその分だけ色んな人間から愛想を尽かされたわけですから。経験の豊富さを誇ることほど、不潔なことはありません」

「ぴぇん」


 先輩ほど自己肯定感を爆上げしてくれる人もいない。そのままでいいんだよ、と言ってくれる存在は大変貴重だった。


「でも、引きこもってばかりじゃなく、自分から出逢いを求める姿勢は必要ですよね?」

「そうです。ただ待つのではありません。いわば、積極的待機、です」

「戦略的撤退ではなく?」

「一見矛盾するかのような態度を絶妙に演じなければいけない、それが積極的待機です。人間は演劇的動物ですから」

「あたかもハムレットのように?」

「ええ」


 笑いが腹の底から込み上げてくる。ミルクを飲んでお腹いっぱいになった猫が、カフッと可愛いゲップをした。

 Theatrum(テアトルム) Mundi(ムンディ)——産まれ落ちてしまった以上、死ぬまで降りようのない舞台。既に関節は外れてしまった世界だ。退場まで、みな狂ったまま踊り狂う。こんなに長々と演じながら人と会い、語り合って、答えを探し、辿り着いた結論が、まさかの〈積極的待機〉だったとは。赤の女王様もびっくりではないか。


「弱きものよ! 汝の名は!」

「男なりしか」


 あっはっは、と主幹室に笑い声が響いた。









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