第四幕第一場
二〇三一年六月 虎ノ門
「春海さんが隣にいてくれるなら、挑戦したいことがあるんです」
昼下がり、そう言ってピノコはニコニコと笑いながら虎ノ門駅で降りた。虎ノ門ヒルズの横を通り過ぎて、どこに向かうかと思えば、彼女が立ち止まったのは愛宕神社の石段前だった。忍はこの山の存在は地理として頭に入っていたが、参拝したことはなかった。縁日でも開かれているのか、平日だというのに辺りは参拝客で賑わっている。
「……モモさん。これ、ほんまに上りたいん? けっこうな傾斜やで。左いったらエレベーターもあるてよ?」
「エレベーターには一人でも乗れるんです。でもこの階段を一人で上るのは、怖いんです」
ね? お願いです。とパチパチ瞬きをして、ピノコが「逃さない」とでも言うように、忍のポロシャツをぎゅっと摑んだ。
ピノコは左手で手すりを握り、腰と右手を忍に支えてもらいながら、一歩一歩、慎重に時間をかけて階段を上った。石段の上の落ち葉で滑りそうになるのは、本当に怖かった。途中、何人に追い抜かれたかわからない。小さな子どもや、ご老体にさえ、隣を軽快に駆け上がっていかれたのには思わず「元気だなあ」と笑ってしまった。はあはあ、と何度も息が上がり、立ち止まる。後ろを振り返れば、ひゅっと息を呑みたくなるほど身が縮んだ。心臓がバクバクと鳴り続けている。しかし、腰に当てられた彼の手が頼もしくて、「あとちょっとやで」と隣でかけられた声に、ピノコは「うん」と頷いた。
やっとの想いで、最後の一段を、上り終えた。
「わーッ! 達、成、感、です! すごい! 上れたーっ!」
「おめっとうさん」
息も切れ切れになりながら、ピノコが天に両の拳を突き上げる。忍は涼しい顔をしていて汗一つ搔いていなかった。パチパチパチと隣で拍手する忍に「春海さん、ありがとうございます!」とピノコは勢いよくお辞儀した。
「この階段上ったら出世できるらしいで」
「へえ、そうだったんですか? 出世にはまったく興味ないですが、前にここを通りがかったとき尻込みしちゃって、上れなかったんです」
NIIAに採用された頃、虎ノ門で昼食をとったあとに辺りを散策していたときだった。こんなところに神社なんてあったんだ、と思いながら石段に近づいてみると、あまりの傾斜に思わず回れ右をしたのだ。それが、ずっと、心残りになっていた。
「あ、ラムネが売ってるそうですよ!」
石段を上ってすぐ左手にある茶店で、「ラムネ」や「氷」と書かれた、祭りの屋台で吊り下げられているような、夏を感じさせる色と字体の旗がピノコの目に飛び込んできた。
茶店の窓口で忍がラムネを二本買う。店の外に置かれたベンチに二人で座り、ラムネのキャップシュリンクをピリピリと剝がす。すると隣に座る男が、ピンクのキャップを持って固まっているのにピノコは気づいた。
「……えっ、春海さん、もしかしてラムネ飲んだことないんですか?」
「うん。初めてやわ。これ、どやって開けるん?」
興味津々な様子で瓶とキャップを交互に見る忍に「このリングは外して、こっちでビー玉を落とすんですよ」とピノコが教えた。
「わ、わわ」
「あーまだフタ離しちゃダメですよ」
ピノコがバッグからポケットティッシュを取り出し、「ヘタッぴですねえ」と笑いながら、忍の手にこぼれたラムネを拭いてやった。
「……モモさんのお手並み拝見やわ」
「まあ見ててくださいよ」
ピノコが得意げにカコン、と玉押しでビー玉を落とす。しばらく手を離さずにいると、ちゃんとラムネの炭酸が落ち着いてきた。「おー! さすがやね」と忍が目を瞠る。
「昔、祖父母の家に行ったとき、庭でラムネを飲んでる様子を父親がビデオに撮ってくれていて。母が上手に開けてたのよく見てました」
このビー玉が欲しいってゴネたりしていましたよ。とピノコは過去の映像を思い出しながらラムネの瓶を掲げて笑った。GWにはBBQ。夏休みには花火。冬は餅をついて、おせち料理とお雑煮を食べ、初詣に行く。入学式や卒業式、運動会に文化祭、成人式。時には旅行に行って、温泉に浸かる。節目や季節ごとのかけがえのない思い出が、実体のないクラウド上のアルバムには詰まっていた。
「そういえば、今日は何かイベントをやってるんですかね? 〈千日詣り〉ってのぼりにも書いてますね」
「みんなホオズキの鉢抱えてはるな」
「ホオズキで一句、といえば〈鬼灯は 実も葉も殻も 紅葉哉〉でしょうか。……にしても芭蕉ってやっぱり忍者だったんですかねえ。素人にしては歩くスピードが速すぎませんか?」
「せやねえ」
「あ、でも、季語的には青鬼灯かな。〈妹か顔 青鬼灯の 青さかな〉とか」
「子規もまさか、未来で二十五歳女性から自分の句を詠まれるとは更々思わんかったろな」
あはは、と二人で笑う。
三人の男と月に一、二回ほどそれぞれデートするとなると、休日が一気に消えていく。ピノコが忍と会うのは今日で三回目だった。一度、土日に出張が入ってしまい、慌ててリスケをお願いした。今日はその振替休日だ。忍からもちょうど担当のプロジェクトが終わって空いているとの返事をもらい、会うことになった。
「〈日枝を出て 愛宕に夏至の 入日哉〉もいいですね」
「それ京都のほうやで。三宅嘯山やろ?」
「えーっ。すぐそこの日枝神社かと思ってました……。見附とか赤坂とかで同僚とよく飲むんですけど、官邸横の坂を下りて山王パークタワー横切って、鳥居を見ながらよくあそこらへんを徘徊してます。今年の夏至は二十一日でしたっけ? シェイクスピア劇のエピローグでは、『夏の夜の夢』が一番好きなんですよね」
「パックの?」
「はい」
A Midsummer-Night's Dreamは、真夏の出来事では決してない。直訳すれば『夏至前夜の夢』となる。つまり、劇の設定は六月の下旬だ。シェイクスピア劇の中で、最も短い喜劇。それはまるで、夏至の夜のように。
「If we shadows have offended, Think but this, and all is mended, That you have but slumb'red here
While these visions did appear.《もし私たち影法師の芝居がお気に召さないようでしたら、こう考えてください、そうすればお気に障ることもないでしょう――うっかり眠ってしまい、今まで見たのは全部夢だったのだ、と。》[1]」
ピノコが諳んじたのは、劇中で森の中を駆け回る妖精、パックが、舞台の幕が下りる前に、観客席に向かって述べるエピローグだった。
「僕は『テンペスト』のエピローグも好きやな」
「あー、めちゃくちゃわかります」
うんうん、とピノコが首肯する。『十二夜』『お気に召すまま』『テンペスト』といった喜劇のエピローグはどれも好きで捨てがたい。劇の舞台を見て、台詞を聴いているとわかるのだが、思わずスタンディングオベーションしたくなるし、観客はまるで操られるように拍手してしまうのだ。
ラムネを飲み終わったあとは、本殿に向かって参拝した。ピノコが五円玉をひょいと賽銭箱に投げたとき、忍は五百円玉を隣から投げていておったまげた。「ふ、奮発しますね」とピノコが言うと「小銭あれしかなかったわ」と忍は苦笑した。
手を合わせるポーズを取ってはみたものの、願い事は、特に思いつかなかった。瞼を開けて、隣をちらりと見ると、忍と目が合った。
「春海さん、何か、お祈り、というか、願い事? されましたか?」
「え、ここって願い事するとこなん」
「なんだと思ってたんです?」
「神さんに挨拶すんのかと思てたわ」
「あはは。じゃあなんて挨拶したんですか?」
「『コンニチワ。今日もええ天気ですねえ。えらい繁盛してはるようで。儲かりまっか? ほなまた、おおきに』」
そんな浪速の商人じゃないんだから。ピノコは笑いが止まらなかった。
参拝のあとは境内を回ってホオズキ市を見たり、お守りを見たり、池の鯉を見たり、誰も存在に気づいていなさそうな三角点を写真に収めたりした。
「……なあ。これ、ほんまに、下りるん? 今度はエレベーター使おうや」
死ぬ気で上って来た階段を二人で見下ろす。何なんだろう。この、思わず笑いが込み上げてくるような角度は。なぜみんなが普通にこの階段を下りられるのかがピノコはさっぱりわからなかった。小さな女の子が父親と手を繋いで一段ごと、ではなく交互に足を使って器用に下りていくのが視界に入り、ピノコは思わず二度見した。
「――さすがに、迂回しましょう。本能が『やめとけ』と言ってます。……って、あれ? 春海さん、あっちにも階段あるみたいですよ」
石段に向かって忍が右、ピノコが左を指して、互いに境内を反対方向に進んでいく。忍は、「いや、その、」と立ち止まり、はあ、と息をついてピノコの後を追った。
「わあ、さっきの石段よりも断然なだらかですね! これなら下りられそうです!」
「なだらかいうてもけっこうエグいで。危ないわ。無理せんがええんちゃう?」
「でも、エレベーターは、一人でも乗れるんですもん」
「どうせならこっちから帰りましょう?」ピノコが忍のシャツの裾をぐいと摑んで小首を傾げると、忍は何かを諦めたように、「……せやな」と頷いた。
下りるのは、上るときよりもずっと神経を使う。行きと同じように、一段一段、丁寧に下りていく。ピノコは右手で手すりを握り、少し下から躰を半身にした忍が、彼女の左手を自身の左手で握って、右手で彼女の脇腹付近を支えていた。ふらつきそうになるたび、ぐ、と彼に支えられる。ピノコは人より倍以上の時間をかけて石段を下りていった。大汗を搔きながら、最後の一段に到達する。ふふ、と思わず笑みがこぼれた瞬間。
葉の重なりを踏んだスニーカーが、石段の上を滑った。
「モモさんっ」
さっと彼が抱きとめてくれたおかげでピノコは尻餅を免れた。躰はどこも打たなかったはずだ。それなのに。
突然、ズキン、ズキンッと脚の断端に痺れるような疼痛が走った。
こんな、ときに。冷や汗が止まらない。しだいに目の前が真っ暗になってきた。
まずい、貧血も重なっている。立て、ない。
立てない立てない立てない立てない立てない立てない
「モモさん、脚、痛むんか?」
目をぎゅっとつぶったまま、こくり、とピノコが頷く。口を閉じていないと、吐いてしまいそうだった。ピノコの額に玉のような汗が浮かぶ。
「あ、あの、わたし、あし、が」
「うん。……これ、ライナー式やんな? 痛むんやったらいったん外すで」
忍がピノコの腿の裏に手をかけ、いったん躰を抱えたあと、地面に彼女を座らせた。
――気づかれて、いたのか。
ピノコは込み上げてくる胃液を抑えるため、唾を呑み込んだ。
いつからだろう。最初から、だろうか。
脚をさばくのに邪魔にならないよう、少しだけフレアに広がる紺色のスカートをピノコは穿いていた。忍によって取り外された義足が目に入ったのか、「ひゃッ」と通りすがりの女性が声を漏らしたのがどこか遠いところから聞こえた。薄目を開くと、ぼやけた視界の中で、少しだけ、周囲に人だかりができているのがわかった。おずおずと遠巻きに様子を窺われている。
シリコンライナーを外し、「ごめん、みさせてもらうな」と断ってから、彼女の脚の断端を忍は確認した。汗で湿ってはいたが、皮膚の破れも、出血や鬱血箇所もなく、きれいだった。しかしピノコにとって断端を見られるのは、もしかすれば裸を見られるよりも精神的ダメージが大きいことかもしれなかった。だが、痛みで何も考えられなかった。両足が、ひどく痛むのだ。爪先が、足首が、ふくらはぎが。圧迫され、何かに引き千切られているような。ねじ切られているような、感覚。もう、そんな部位、どこにもないのに。
上体を起こしているのもつらくなり、膝を抱えるように横たわって、その場でピノコがうずくまる。下腹部にも痛みが伝播してきて、最悪だった。手で腹を押さえる。忍がペンホで何か操作しているのもピノコはわからなかった。でも、脚の断端を大きな温かい手で包まれるようにさすられていると、不思議に痛みが和らいでいく心地がした。しかし痛みは波状攻撃になっていて、落ち着いてきたかと思えばまた襲ってくるの繰り返しだった。
「――モモさん。車来たから移動するわ。せー、の」
声をかけられたかと思えば、忍がピノコの躰をヒョイと横抱きに抱え上げる。ピノコは思わず、ひっ、と息を呑んだ。
「やっ、……下ろ、して、ください……っ、……重い、ので……っ」
「全然重たないから。それより、かかりつけの病院とかある?」
小さく首を横に振る。「いつもの、こと、なので、」とピノコが途切れ途切れにこぼした。
「そっか。……とりあえず休めるとこ、移動するな」
車から降りてきた運転手なのか、背広姿の老紳士が「斎藤様、お待たせいたしました」と目の前に現れた。忍が義足とピノコのバッグを持つよう彼に頼んでいたのが聞こえ、朦朧とする意識の中で「ごめ、なさ、」とピノコは呟いた。
車に乗せられて、これはタクシーではない、とピノコが気づいたのは、どうしても吐き気を我慢できず、車内で吐いてしまったときだ。車の内装が明らかにタクシーのそれとは違っていた。忍と運転手が何やら会話をして、ビニール袋にタオル、除菌シートを運転手から忍が受け取っている。知り合い、なのだろうか。そう思っていたときにまたピノコは吐いた。もう、アラサーなのに、人に吐瀉物の処理をさせてしまうなんて。本当に消えてしまいたかった。
胃液の苦い味で、目が覚めた。
だんだん視界が鮮明になっていき、ベッドの上でピノコが上体を起こす。ベッド脇には、義足が揃えて置かれていた。サイドテーブルの上にはピノコのバッグがあった。ぼうっと部屋を見渡すと、壁が背の高い本棚で一面覆われているのがわかった。
ピノコは白のTシャツと黒いジャージの半ズボンを身に着けていた。男物なのだろう。半ズボンは、ちょうど彼女の脛の断端が見え隠れするほどの長さだった。
「――あ、モモさん起きた? 気分はどうかいな」
アクエリ飲める? と、開け放されていたドアから部屋に入ってきたのは忍だった。先ほど、ピノコが服を汚してしまったのか彼も着替えている。ピノコは「……あー」だの「うー……」だの言葉にならない声を出して、俯いてしまった。穴があったら入りたい。気まずい空気が、室を流れた。
「――あっ、ごめんな勝手に着替えさせて! その、モモさんの服は今洗てるから」
「いえ……ゲロまみれで気を失ったのは私なので……。春海さんの服も汚してしまい本当に申し訳ないです……ありがとう、ございます」
自分の醜態を思い出し、ピノコはまた消えたくなった。一応、タンクトップとスパッツは身に着けたままだったが、今日の下着、ちゃんと上下揃ってたかな。とピノコは一瞬思った。
忍からアクエリアスを受け取り、ピノコがありがたくそれを口に含む。脱水症状気味だったのか、五臓六腑にクエン酸が染み渡っていく気がした。寝転がった状態でも飲みやすいようにか、わざわざフタがペットボトル用のストローキャップに付け替えられている。
「……毎年、こんなふうに、ひどい貧血が、何度かあって」
「たぶん迷走神経反射やんな。今日は幻肢痛もあってよりしんどかったろ」
去年の今頃にも、バス停で待っていたときに同じような痛みのフルコンボに突然襲われてぶっ倒れてしまい、救急車を呼ばれてしまったことがある。季節はやはり梅雨から夏にかけてが多かった。迷走神経反射、という聞き覚えのない用語にピノコが首を傾げる。
「お詳しいんですね」
「……一応、資格は色々持ってんねん。日本のやないけど」
「そうなんですか。すごいです」
「まあ、あんま資格ばっか持っとってもしゃーないんやけどな」
「職場にも、医師免許を持った外交官がいらっしゃったこと、思い出しました」
「へえ。変わった人やねえ」
自分のことは棚に上げているのか、素直な驚きを彼が見せる。ピノコは、NIIA職員ではなく内閣官房で総務系の事務仕事をしているとだけ忍に伝えていた。
「――今日は、本当にすみませんでした。とんだご迷惑を、おかけして」
「迷惑やなんて思っとらんから」
ピノコがベッドの端にモソモソと移動して、サイドテーブルにペットボトルを置き、膝頭に両手を添えて忍に頭を下げる。彼は首を横に振りながら肩を竦め、その隣に腰を下ろした。
――気が、大きくなっていたのだろう。調子に乗るとすぐこれだ。世の中うまく回っている。ピノコは彼に迷惑をかけ、巻き込んでしまったことを大いに反省した。
「……訊かないんですか」
こうなった、理由とか。
ピノコがジャージの裾を、ぎゅっと握りしめる。忍は彼女の手の動きに視線を留めて、「……知りたない言うたら、嘘やけど、」と呟いた。
「話したないなら、無理せんでええから」
ピノコが顔を上げると、彼は眉を下げて優しく笑っていた。
その表情を見て、なぜか、胸が、締めつけられたような気持ちに、彼女はなった。
「――知る、と、信じる、の違いって、何なんでしょう」
ぼそり、とピノコが視線を空に留めて、声に言葉を乗せる。忍は彼女の横顔を、黙ったまま見つめていた。
「春海さんは、春海さんのお父様が、自分の父親だと、いつ知りましたか。あるいは、信じましたか。お母様に言われてからですか」
忍は初め、彼女の質問の意図がわからなかった。しかし、彼女の言葉を分解して、自身の中で再構築したとき、思わず目を、見開いた。
「――あの夏、あの街で、家族も、親戚も、友人も、みな死にました。……わたしが、わたしだって、こと、わたし、以外に、誰がこの世界で証明できるんでしょう」
空っぽだった。何も、残っていなかった。本に、言葉に、文字に、出逢うまでは。
永遠を、確かにみた。変化のない感情の中に。文字と文字の間に。行と行の間に。ページを捲ることをやめない手に。
「記憶も、言葉も、失って。火が熱いことも、水が冷たいことすら、忘れていた。空がなぜ青いかも、笑い方も、泣き方も、忘れ、て……。……あの空は、空が青いと言う生き物がいなくなっても、青で在り続けるんでしょうか。この世界に、わたしのことを知っている人間がいなくなっても、わたしの笑顔は、以前の笑顔と何も変わらないのでしょうか」
ピノコは、唐突に。
石段に座り込んだとき、周囲から向けられた、弱者に対する、素直な、同情の目を、思い出した。
「……わたし、は、惨めじゃ、ないっ。これは、悲劇なんかじゃない……っ」
両方の膝頭を、パシン、と彼女が手で叩く。
義足と車椅子がなければ、蛆虫のように這ってしか動けない躰だとしても。自分を襲った悲劇が、悲劇だとは、思いたくなかった。認めたくなかった。そんな、わかりやすい言葉で括って、片づけたくは、なかった。
「誰を恨めばいいんですかっ。何を恨めばいいんですか!? 自分の運命ですか? わたしが生まれたアメリカという国ですか? そこと争った中国ですか? それともわたしが育った日本ですか? ……わたしは、……わたし、は、っ」
堰を切ったように、躰の奥底から溢れ出すこの感情が何なのか、彼女は、わからなかった。
「なん、で、いきのこった、んですか」
手の甲に、音もなく、消え入るように、雫が落ちる。
それが視界に入ったとき、初めて、ピノコは、自身が泣いていることに気づいた。
「ごめ、なさ、……ちが、」
「――よう、がんばったな」
忍の手が、ピノコの頭に触れ、彼女の髪を優しく撫でる。
がんばったな、という彼の言葉が、ピノコには不思議な響きを帯びて聞こえた。
「……僕がもう、先に泣いてしもたから、何言うてんねんて思うやろけど」
あのときのことを思い返しているのか、恥ずかしそうに目を伏せて彼が笑った。
「好きなだけ、泣いて、ええよ」
躊躇うように、ピノコの両頬に、忍の手が触れる。
どうしてだろう。彼のほうが、手を、震わせていた。
逸らされていた目を、まっすぐ向けられる。
互いに、目と目が合ったとき。
彼の瞳から、ひとすじの、透明な雫が、こぼれ落ちた。
なんて、きれいな、涙なんだろう。
「――っ」
世界が、こうなってから、ピノコは、初めて、声に出して、泣いた。
彼の背に腕を回し、息が苦しくなるほどの力で、縋りつく。
彼は、ただ、ただ、抱きしめて、くれた。
*
「あらぁ、アリスじゃなぁい。こぉんなところで何してるのぉ? ご機嫌いかが?」
「……Fine」
「ご機嫌斜めってわけねえ」
明け方、ピノコが部屋を出てエレベーターを待っていると、OSSのエージェント、ロザリンドが現れた。胸の谷間を殊更強調した、峰不二子のようなピッチピチの黒スーツを着ている。彼女がなぜここにいるのかという問いに対する答えを、自分の中でずっと巣くっていたある疑問と、ピノコは自然に結びつけていた。
ピノコが寝室のベッドを占領していたため、彼はリビングのソファーで眠っていた。服は乾燥までかけてくれていたようだ。借りていたTシャツとジャージを脱ぎ、洗濯機の上に畳んで置く。色々迷った末に、メッセージも、金銭も、あえてピノコは残さなかった。
「――ロザリンド」
「なあに?」
「……あの〝藤〟って、今、日本にいたりする?」
「さあ? 〝花札組〟のことは知らないわぁ」
答えたあと、ロザリンドが軽快に口笛を吹く。
花札組はすべてが別格だった。幼少期から英才教育を受け、天賦の才にも恵まれたギフテッドの集まり。スパイになることを苦にも思わなかった狂った連中。欠員が出たときには都度補充されるが、後継を選ぶのは多くの場合その前任と聞く。しかし花札組は内輪でしかその暗号名を呼び合わない。誰が花札組かは自分がその暗号名を与えられるまでわからないのだ。
「あら。あんたやっと泣けたのぉ? スッキリした良い顔してるじゃなぁい」
ロザリンドがピノコの目の下を親指で拭い、その両頬をぶにゅっと片手で挟む。最初は男に産まれた、という彼女の手は大きく、やけに力も強いが、とても心地よく、温かかった。看護師に加え、理学療法士でも義肢装具士でもある彼女は、リハビリ中、何度も、何度もピノコを励まし、支えになってくれていた。
心理カウンセリングは、それこそOSSで何度も受けていた。過去を整理し、時には泣いて発散することも勧められた。でも、どうしても、カウンセラーやエージェントの前では泣けなかったのだ。自分でも、それがなぜか、ずっとわからなかった。
もし、あの人が、たとえ偽りだったとしても、先に涙を見せてくれていなかったら。
果たして自分は、あんなに泣き喚けたのだろうか。とピノコは思った。
[1] 戸所宏之(二〇〇三年)『はじめてのシェイクスピア』、PHPエディターズ・グループ、1〈喜劇〉、「夏の夜の夢」エピローグ




