第三幕第三場
二〇二九年六月 パリ
二十二時を過ぎてようやく日が暮れ、妖しいネオンが煌々と存在を主張し始めた夜の街で、〝フェステ〟はふと、見知った人影が視界に入ったような気がした。足を止めて、振り返る。雑踏の中に、一組の男女の姿を捉えた。
(……ほう?)
親しげに腕を組み、女が男のほうにしなだれかかっている。どこから見ても仲のよさげな恋人どうしだ。だんだん自身と距離が開いていく彼らの後ろ姿を、愉悦の光を交えた目でフェステは追った。不意に男が立ち止まり、女が首を傾げながら彼を見上げる。男は腕時計を気にするそぶりを見せて、肩を竦めた。彼の言葉に女が気を落としたのか、視線を下げて仕方なさそうに微笑む。その後、男と向き合い、女が背伸びをして、男の耳元で何か囁いた。酒も入っているのか、男が顔をいっそう赤らめて破顔する。歳は三十手前、といったところか。普段は事務仕事をしているとその背が語っている。気のよさそうな男だ。
そのまま男と女は手を振って別れ、各々逆の方向へ歩き出した。それを見て、フェステも歩を進める。夏の装いをした女はハンドバッグを手に持ち、足早に人混みの中をすり抜けていた。
白襟のついた紺色のワンピース。布地には季節の花の刺繍がところどころに施されている。ウエストを強調するように締められた革のベルト。既製品でないと一目でわかるエナメルの赤い靴。すれ違う寸前、フェステは女の腰をぐいと自身に引き寄せた。
はあ、という、あからさまな溜め息が耳に届く。
(気づいていたか)
柳眉を逆立てたアリスと、目が合った。
「ずいぶんと粧し込んでいるじゃないか。化けるもんだな」
男を誘うようにつけられた香水の香りが、アリスの白いうなじから立ち上がる。眉根を寄せ、「離して、ください」とアリスがフェステの腕の中で身じろぎした。
「誰だ? あの男は」
「あなたに関係あります?」
「ないな」
くっくっと楽しそうにフェステが笑う。己を引き離そうとする腕の力で、彼女が本当に自分の気を引こうとしていないのがわかった。心底、煩わしいとさえ思っているのが伝わってくる。
「ま、一軒付き合えよ」
「そういう気分なのさ」腕の位置を腰から肩に上げ、アリスの躰を翻す。彼女は肩に置かれたフェステの腕を見て、はあ、と再び深い溜め息をついた。
「……バカルディって、昔は白だったんですよね」
「そういえば、バカルディのレシピを争った裁判もあったな」
「今はダイキリが白ですものね?」
「何が言いたい?」
「面白いなぁ、と思って」
「その時代特有の混乱ですね」くすくすとアリスがフェステに笑いかける。何を考えているのかわからない女ほど、相手にするのが面倒で、愉しいものはない。紅を差したアリスの唇が、カクテルグラスに触れた。
「赤と白。果たして正解はどちらなのか……」
アリスが口角を上げたままカフェバーの店員に視線を送り、新しいカクテルを注文する。カウンターに立つ老主人がアリスに向かってニコリと微笑み、ウインクを送ってきた。テラス席からその様子を見たフェステは二人が初見でないことを悟った。店を選んだのはフェステだったが、アリスもここに足を運んだことがあるらしい。そしてそれは、一人のときでないことは確かだろう。
男を誘う化粧を施したアリスに、フェステが煙草の煙を吹かせながら笑う。
「似合わないぜ? その化粧。ラ・ピュータにでもなるつもりか?」
「……誰からも指図は受けていません」
顔に吹きつけられた白煙を片手で無愛想に払い、アリスが眉を顰める。
指図は受けていない。それは本当のことだろう。だが、享楽を求めてわざわざ街に出ているわけではないのも、事実だ。フェステは赤いバカルディを口に含みながら右隣に座る女を観察した。どこか幼さは残すものの、その意志ある眉と黒い瞳は、どう見つめれば男が表情を変化させるか、既に知っているらしい。
(……安い女になるか)
La Puta――スペイン語で売春婦を意味する。『ガリバー旅行記』の作者スウィフトが、アイルランドを弾圧するイングランドに見立てた、空に浮かぶ権力者たちの島。当時、地位を確立してきた王立協会の謳う〝科学〟を真っ向から批判した諷刺小説。
「スウィフトの怨讐さえ感じるね」
「……彼が、デフォーを嫌ったわけですね」
「『ロビンソン・クルーソー』か」
「はい。……大学で、友だちと、言ってたんです。一家に一フライデイほしいねって」
「ははっ」
アリスが宙に視線を留めながらこぼした感想が、あまりにもテクストとかけ離れて世俗的だったことに、フェステは思わず声を上げて笑ってしまった。
「はい、ご主人様」と二つ返事で素直に言うことを聞く下僕――フライデイ。哀れな人間を救わねばならない、という正義心を以て少年を助けたのならば、なぜロビンソンは彼を友と呼ばなかったのか。なぜ自身をわざわざ主人と呼ばせたのか。第三世界の住民、野蛮人である少年に、ロビンソンは英語を教え、マナーを身につけさせ、教化しようと努めた。しかし元々その無人島は、彼らが先に利用していた土地だった。所詮、帝国側の価値観で塗り潰されたリアリズム小説に過ぎない。
「古典という古典は、山ほどWriting backされていますよね」
アリスがグラスの中で漂うカクテルの色を見て、隣に座る男にしか聞き取れないような声で呟いた。いつから、こんな話し方までするようになったというのか。躾けの賜物だな、とフェステは声に出さず、肺に煙を取り込みながら思った。
「例えば『ロビンソン・クルーソー』は、Foeという題名で――作家は、題材の敵ではないか。という問いを込めて」
「J・M・クッツェーか。……デフォーの名前の秘密さね」
「ええ」
頬杖をつき、小首を傾げてアリスが微笑む。その笑みは、まるで心の中さえも見透かしてくるかのように、確信的で、自信に満ちたものだった。フェステは、ふうと煙を吐き出して肩を竦めた。
「私、初めて『ロビンソン・クルーソー』を読んだときは、なんて、ダラダラと長ったらしく、いつまでも終わらない……詰まらない小説なんだろうって思いました」
「はっ。正直だな」
アリスが溜め息をついて両腕で頬杖をつく。
小説の元祖、といわれる先駆的な作品として『ロビンソン・クルーソー』は真っ先に挙げられ、後世に与えたその影響は絶大なものだった。私は何年にどこで生まれた、という自己紹介から始まる典型的なフィクション。ロビンソンはマルクス曰く、「最初の資本主義的人間」であり、進歩を信じる近代人の原型として捉えられた。「現在」と「日常」への関心が生み出したリアリズム小説の発端ではあるが、それを面白いと思うか否かは読者の生きる時代によっても左右されるだろう。面白い話は出尽くした。そういわれる現代では特に。
フェステは、隣で淡々と変わらぬペースでカクテルを飲み続けている女に視線を移した。大抵の女が好む、甘い酒ばかりだ。だが、中には度が強いものも含まれていて、今までアリスがフェステの前で猫を被っていたことに気づく。
「なぜウイスキーは頑なに飲まないんだ?」
「……飲みにくい、から」
嫌なところを突かれた、とでも言うように、アリスがぼそりと呟く。予想とは違った彼女の回答に、フェステが片眉を上げた。アリスの眦は少し潤んでいた。思わず飲んでいた酒を噴き出しそうになる。酔っている、とあからさまに顔には出ないが、度を越して強いわけでもないのだろう。「可愛いねえ」と肩を震わせながら、フェステが笑った。
「……息をするように嘘をつく人ですね」
「失礼だな。腹蔵はないぜ?」
「へえ?」
互いに駆け引きを始めるがごとく、視線を交差させる。目を逸らさないまま、アリスがカウンターの上に置かれてあったケースから一本新しい煙草を取り出し、すっとフェステに顔を近づけた。フェステの銜えていた煙草の先で、アリスが目を伏せながら自身も煙草を口に含み、慣れた様子で息を吸い込む。赤い火が移ったとき、ふっ、とフェステの顔に白煙を吹きつけてアリスが笑った。
「Tell me where is Fancy bred, Or in the heart, or in the head?」
呼吸する音が聞こえるような距離で、彼女の唇が弧を描いた。
「教えてください。――浮気心は、どこに宿るんですか? 心? それとも、頭の中?」
フェステの薬指に嵌められた金の指輪を指で軽くはじき、アリスが目を細めて笑う。彼は、自分が少しでも気をとられた事実に舌を打ちつつ、彼女の望む答えを煙混じりに返してやった。
「——It is engend'red in the eyes,
With gazing fed, and Fancy dies
In the cradle where it lies
《浮気心は眼にやどる、
見るまに育つ、ゆりかごの……
瞳の床が死の床に。》[1]」
シェイクスピアを原文で諳んじる女など、酔狂で、可愛げの欠片もない。というのが〝フェステ〟としての本音だった。
「今夜はやけに饒舌だな。酔うと語り出す口か?」
「私は元来お喋りですよ?」
煙草を人差し指と中指で挟み、アリスが皮肉に笑ったとき、一瞬その横顔が、記憶の中の誰かと重なって見えた。
店内ではジャズが流れている。ちらりと周囲を見回せば、客は数年前に比べても少ないと感じた。もうそろそろ、引退の時期ですな。店の主人も眉を下げて笑ったが、理由は何も年齢だけじゃないのだろう。今もなお戦禍にある街が東欧にある以上、フランスも傍観者ではいられなかった。
何とも生きづらい世の中だ。だが、そういう時代に生まれついたのは自分だ。それを今更、どうこうしようなどとは思わない。同情を受けるべきは、この、隣に腰かける女のほうだろう。
「……共通科目だった、生命科学の時間でした」
ぽつり、とアリスが自身の唇の動きを隠すように、煙草を持った手で口を覆いながら呟いた。
「高校を卒業したてだった私は、教授に、頓珍漢なことを訊いた覚えがあります」
店の主人はカウンターの端に居座る客と話している。普段の声の調子で会話していたとしても、こちらの声が彼らに聞こえることはないだろう。
「母親は、自分のクローンを妊娠することは可能か、と」
「……体細胞クローンか」
「はい」
「核を取り除いた未受精卵に、成体細胞の核を注入するんです」と言って、アリスが煙草の灰を灰皿にトンと捨てた。
「先生は『可能でしょうねえ』と答えました。……当然、表側の世界では倫理的に禁じられていますが」
アリスが肩を竦めて笑う。フェステは、なぜ今この話を自分にしているのか、という問いに対する答えを、彼女の表情や僅かな身動きの中に探していた。
「子孫を残していくのに、精子も、いずれは卵子さえ、必要なくなるんですよ」
ましてや、セックスすら。
明け透けに放たれたその単語に、生物学的用語以外の意味合いは不思議と感じられなかった。
「——Annunciation《受胎告知》、だな」
とうとう、人類は神の領域に手を出せるところにまで、達した。何人もの画家がその題を掲げて描いた宗教画を思い出していると、アリスが自分の吐いた煙の行方を目で追って「今では無痛分娩が主流ですし」と静かに微笑んだ。
罪を犯したがために、神より与えられし産みの苦しみから女は解放された。子どもを授かる、から、子どもをつくる時代への移行。科学の進歩により、神は本当に死んだ、というわけだ。
「自分が自分を産むって、どんな感覚なんでしょう」
アリスがカウンターの上に置いた自分の手に視線を落としながら呟く。爪の形はきれいに整えられていて、穢れを知らない白い指は、黒に染まり始めるのを恐れ、震えているようにも見えた。
「鏡を見ているみたいに、姿形は相違ないのに。……中身は、まったくの、別人で」
煙草を口に銜え、アリスが両の手のひらを合わせてみせる。その対称性を確かめたあと、「結局、自分を最後、形作るモノは何か、と問われたら」と煙草を指で挟み持ち、深く、息をついた。
「記憶、なんです」
煙草の灰が芯を侵食していく様子を瞬きもせず見つめて、アリスが左手で自身の目を覆った。
「忘れたら、それはもう、私じゃないんです」
彼女の、小さな、消え入るような叫びは、祈るようにも、懇願するようにも、フェステの耳には聞こえた。
「……記憶は、真実だけを蓄積するとは限らないからな」
どうやら、アリスは悪い夢を、みたらしい。あるいは、みているところなのか。
フェステが短くなった煙草を灰皿にこすりつける。アリスはそのまま顔を覆っていた手を下ろし、煙草を持っているほうの手で頬杖をついて、くすりと笑った。
「……フェステって、何だか少しだけ、ヘルムホルツに似ていますね」
「じゃあ、お前はレーニナか? 尻軽娘が」
新しい煙草に火を点けながらフェステが不快そうに顔を歪めると、アリスが「冗談ですよ」と軽い溜め息をついた。
「Brave New World――なかなかいい世の中だと思うがな」
一九三二年に発表されたオルダス・ハクスリーによるディストピア小説。一時期、英や豪では禁書指定を受けるほど問題視され、文壇からも批判の対象となった。シェイクスピアの『テンペスト』、ミランダの台詞に依拠したタイトル。父親とともに島流しに遭い、十二年の歳月を経て、島に上陸した様々な人間を初めて見たときに発される感動の台詞。だがその人間たちは、かつて自分たちを陥れた者だった。
果たして、それは本当に、〝すばらしい新世界〟なのか?
「ハクスリー曰く、五百年後の未来は、家族や恋人といった柵すらなく、嫉妬も何もない世界だそうじゃないか。副作用のまったくない薬、ソーマによって、人々は激情に駆られることもなく、安定した世の中で幸せに暮らしている。何ものにもとらわれず、何ものからもとらわれず。……まったく、羨ましい限りだね」
「――本当に、そう、思っているんですか?」
先ほど注文したウイスキーをぐいと呷ったフェステに対し、きょとんとした視線を送ったあと、アリスがにこりと微笑んだ。
「あなたは、人を好きになるなんて馬鹿げている、と考えている自分が馬鹿げている、とでも思っていそうですよね」
「〝フェステ〟を演じるのも大変ですね」アリスが思ったことを正直に述べたかのごとく、飄々と呟いて、残りのカクテルを口にした。
フェステは、咄嗟に隣に座る女から視線を動かすことができなかった。
……like one
Who having into truth, by telling of it,
Made such a sinner of his memory,
To credit his own lie——
《ちょうど本物の役を演じる者が、
嘘をつき通しているうちに
おのれの記憶を罪人にし
嘘を真と思い込むように》[2]
鼻歌を歌うように、機嫌のよさを隠そうともせず、アリスが『テンペスト』の台詞を声に乗せて笑う。その笑みは、隣に座る男が自分を害する者ではない、と思っているのがわかる、無邪気なものだった。フェステが肩を竦めて、大げさに溜め息をつく。
「What is between you? Give me up the truth.《一体、二人のなかはどうなのだ? 包まず言ってみなさい。》[3]」
「——I do not know, my lord, what I should think.《どう考えていいのか。》」
「おい、台詞を飛ばすなよ」
「戯れに付き合う義理も、ありません」
はぐらかされたのがわかったのか、アリスがムッと表情を硬くさせ、ふいと顔を逸らす。
空になったグラスの縁を、つっとアリスの指がなぞる。紅の痕を親指で拭ったあと、そばに置いてあった白いハンカチで、指に付着したその赤を彼女は躊躇いなく拭き取った。
「Pooh, you speak like a green girl, Unsifted in such perilous circumstance. Do you believe his tenders, as you call them?《けがをしたことのないおぼこ娘のおっしゃりよう。そのやさしいお言葉とやらを、心から信じてござるのかな?》」
「いい加減、私をオフィーリアで譬えるのは、やめていただけますか」
「へえ? 苛立った顔も、なかなかそそるじゃないか」
「シェイクスピア劇の中で、彼女ほど、影が薄くて魅力的でないヒロインもいないと思います」
「言うねえ。そういうところが、愉しいんだよな」
アリスがフェステの言葉を理解できなかったのか、訝しげに眉根を寄せて、背けていた顔を再びゆっくりと合わせた。
「このままVirgin Queenになるか? それともBloody Maryになるか」
額と額をくっつけるほど顔を近づけて、フェステが笑う。互いの瞳の中に映るのは、相手の瞳しかなかった。アリスがフェステの肩に手を置き、彼の重心を傾けて、頬をすり合わせるようにしてその耳元で囁く。
「私、自分が処女、だなんて、いつ言いました?」
ふふっと笑う彼女の吐息が耳朶にかかる。
つまり、先ほどの男は、そういう遊び相手ということだろう。
(――だが、若いな)
必死で、己の弱さを曝け出すまいとしているこの危うさが何に起因するのか、わかった。
アリスがフェステの肩にこつんと額を置き、もう帰りましょう、と小さくこぼす。
彼女は、恐れている。
自分を、自分たらしめる〝記憶〟が、真実だけを蓄積したものではないと知ることを。
*
「By mine honour, half drunk. What is he at the gate, cousin?《あらあら、もう酔っぱらって。どなたがお見えなの、叔父様?》[4]」
「——A gentleman.《紳士だよ。》」
「A gentleman? What gentleman?《ですから、どんな紳士?》」
「'Tis a gentleman here——《正真正銘の紳士さ。》」
少し酔いを醒ましてから帰りたい、というアリスの要望を聞き入れ、川のほとりを二人で歩く。フェステの前を跳ねるようにして歩くアリスは、足元もおぼつかない、というほどではないが、酔っていることが誰にでもわかるほど上機嫌で、八〇年代の名曲Time After Timeを陽気に口ずさんでいた。
「What's a drunken man like, fool?《ねえ、おまえ、酔っぱらいってなんに似てる?》」
「Like a drowned man, a fool, and a madman――水死体か、道化か、気違いってところさ」
アリスが橋の欄干から川面を覗き、フェステを振り返って、何が楽しいのか喉を鳴らして笑っている。はあ、と溜め息をつき、「あまり身を乗り出すなよ」とフェステが肩を竦めた。
「Are you a comedian?《あなた、役者なの?》」
「……No, my profound heart: and yet, by the very fangs of malice I swear, I am not that I play.《ご賢察おそれいりますが、これ以上意地悪な誤解をされないようにはっきり申しましょう、ほんとうの私はいま演じている役の私とはちがいます。》」
戯れに付き合う義理もないというのに。なぜ自分は今、酔っ払いの介抱をしているのやら。
「What is your parentage?《あなたのお家柄は?》」
「——Above my fortunes, yet my state is well: I am a gentleman.《いまの運命よりは上ですが、いまでも紳士の身分です》」
だが、台詞を振られると、半自動的にその続きを答えてしまう自分もいる。シェイクスピアともなれば、いわば世界共通語といっても差し支えないほど、知識人の間で知らない者はないだろう。そのため、持ち歩いても怪しまれないありふれた図書として、手紙に添えても何ら障りない文章として重宝され、検閲の目を容易にくぐり抜ける。あるいは、その劇全体の台詞が暗号の宝庫となる。今の時代、そんな古典的な手法は廃れたが、OSSでは「頭の体操」と称して、あらゆる書物をエージェントは暗記させられていた。何幕何場、何行目にどの単語があるか、脚韻は何か。アルファベットを数字に置き換えれば、どのような数の並びになるか。それを再び脳内で、ただの数字の羅列から意味をもつ暗号へと変換していく。何度も。何度も。何度も。――すべて、叩き込まされた。
尤も、最初から既に憶えていたような変人どもが、最後まで残っていったわけだが。
「……I will on with my speech in your praise, and then show you the heart of my message.《台詞を続けます。まずあなたをほめたたえ、それから肝心の用件を申し上げましょう。》」
案の定、バランスを崩し、ふらっと前のめりになったアリスの腰を、腕で咄嗟に自身のほうへ引き寄せる。呆れたように息をつきながら台詞をこぼせば、くすくすと逆さまに見上げてくる彼女と目が合った。
「Come to what is important in't: I forgive you the praise.《肝心な点だけおっしゃい、ほめたたえるところはかんべんしてあげるわ。》」
「Alas, I took great pains to study it, and 'tis poetical.《残念だなあ、覚えるのに苦労したんですよ、詩的な名文句なんです。》」
「It is the more like to be feigned; I pray you keep it in.《とすればきっとすてきな嘘でしょう、しまっておいてちょうだい。》」
アリスの腕がフェステの頬に伸びる。その指が肌を掠めたとき、彼女は、まるで涙を堪えるかのように、くしゃりと笑った。思わず、フェステの口から台詞がこぼれる。
「Poor lady, she were better love a dream.《かわいそうなお嬢様、夢を恋したほうがましだったのに。》[5]」
自身の頬を撫でる彼女の手を取り、フェステが腕の下でアリスの身を翻す。いつ覚えたのか、彼女はアレマーナのステップを踏んでターンをしたあと、彼の手の甲に触れないキスを落とし、先ほどの涙など微塵も感じさせない調子でクスリと挑発的に笑った。
「Disguise, I see thou art a wickedness, Wherein the pregnant enemy does much.《うわべをごまかす変装とはなんという罪作り、悪魔のような悪人もこうして悪事を働くのね。》」
「褒め言葉か?」
「まさか。台詞の続きを述べたまでです」
アリスがフェステの手をぞんざいに払い、くるりと背を向けて歩き出す。しかし二歩ほど足を踏み出したところで道の段差に蹴躓き、彼女の膝がカクッと崩れた。地面に両の手をつける寸前で、フェステが足を踏み出し、アリスの腰を攫って抱えてやる。躰が宙に浮く感覚を少し気に入ったのか「ふふ。お父さんみたーい」とアリスが脚をばたつかせて小刻みに笑った。
「……勘弁してくれよ」
酔っ払いの介抱が、子守りにまで発展するとは。フェステが大げさに溜め息をつくと、アリスがふと我に返ったのか「あ、下ろして、ください」と身を捩り、フェステの腕から逃れようとした。
「ったく満足に礼も言えんのか。誰に躾けられた?」
「誰が手を貸せと頼みました?」
ぱっとフェステが予告なく手を離すと、アリスが「わっ」と結局は地面に膝と両手をついて、わなわなと震えながら「……最低」と低くこぼした。
「褒め言葉だ」
「……フェステのそういうところ、嫌いじゃないですよ」
一連の動作の続きであるかのように、自然と目の前に差し出されたフェステの手を取り、立ち上がったアリスが「ありがとうございます」と素直に笑ってみせる。フェステはその笑みに含まれた透明な感情が自身に流れ込んでくるのを微かに感じた。
月明かりだけが照らす道を、ふたり歩く。
フェステは、ふと後ろから聞こえてくるアリスの足音に違和感を覚えた。振り返り、宙を仰いで星を眺めながら歩いていた彼女の歩みを注視する。
「……足が、悪いのか?」
「あら、気づかれました?」
「さっきから庇ってるだろうが」
器用に歩いていると見せかけてはいたものの、足音にまでは気を回せなかったらしい。アリスが肩を竦めて、「さっき躓いたときに、ネジが、ちょっと緩んじゃったみたいで」と視線を落としながら呟いた。
「……ネジ?」
「言ってませんでしたっけ? 私、脛から下が両脚義足なんです」
まるで自身にそのパーツのないことが当然の事実であるかのように、アリスが淡々と語った。
フェステは一瞬、呼吸を止めた。
驚かなかったと言えば嘘になる。フェステはアリスがあの街の生存者で、一時は記憶障害に陥ったとは聞いたが、両脚まで失っていたとは知らなかった。先ほど地面に容赦なく落としたことを気まずく思ったのか、「……危なっかしい格好しやがって」と、ワンピースにハイヒール姿のアリスを非難するようにフェステが眉を顰めた。
「自分の足がなければ好きな靴も履いてはいけないんですか?」
「意外と、歩けるものなんですよ」訓練で断続的に受けた痛みを耐え抜いた結果、獲得した産物だということを、彼女は語らなかった。
Come away, come away death,
And in sad cypress let me be laid.
Fly away, fly away breath,
I am slain by a fair cruel maid:
Not a flower, not a flower sweet,
On my black coffin let there be strewn:
Not a friend, not a friend greet
My poor corpse, where my bones shall be thrown:
A thousand thousand sighs to save,
Lay me, O where
Sad true lover never find my grave,
To weep there.
《くるがいい、くるがいい、死よ、
この身を杉の柩に横たえよ。
去るがいい、去るがいい、息よ、
美しいむごい娘に殺されて。
花一つ、花一つさえ、
この身をおさめた柩にそなえるな。
友一人、友一人さえ、
悲しみの野辺の送りに従うな。
人知れぬ山奥の地に、この身を
埋めておくれ、
墓を見てまことの愛に泣くものを
避けるために。》[6]
道化の歌を、アリスが心地よい声音で歌う。
「不完全で、歪で、継ぎ接ぎだらけの私に、恋心なんて勿体ないと思いませんか?」
アリスが欠けた月に向かって自身の手をかざしながら、満面の笑みを浮かべる。
――とんだ笑い上戸だ。
そんなアリスの姿を見て、フェステが皮肉に目を眇めた。
「お前は、アダムを求めない、化け物とでも?」
「ホレイショーが、言っていました。孤独に負けて、イヴを求めた怪物は愚かだ、って」
「はっ。奴の言いそうなこった」
「〝フェステ〟も、そう思っていらっしゃるんでしょう? 同類じゃないですか」
何を今更、とでも言うように、アリスが肩を震わせて笑う。彼女から間断なくもたらされるこれらの笑いが、彼女の作った新しい仮面である、と気づくには足る期間を、フェステは既に彼女と共有していた。
笑うなよ。
そう、口を滑らそうとしたときだった。さっと振り返ったアリスがフェステのネクタイをぐいと引っ張り、挑発的に顔を近づけて、優雅に微笑んだ。
「Stay:
I prithee tell me what thou think'st of me.
《待って。
ね、おっしゃって、私のことどうお思い?》[7]」
「……That you do think you are not what you are.《いまのご自分を思い違いされていると。》」
この女は、加減を、知らないのか。
急に絞まった首元に息苦しさを覚えつつも、フェステがアリスの煽りに応酬する。
「If I think so, I think the same of you.《そうだとしたら、あなただってそうよ。》」
「Then think you right; I am not what I am.《そうです、ほんとうの私はいまの私とちがいます。》」
「I would you were as I would have you be.《ほんとうのあなたが私の望みどおりであれば。》」
「Would it be better, madam, than I am?《そのほうがいまの私よりいいでしょうか?》
I wish it might, for now I am your fool.《かもしれませんね、いまの私はあなた様の道化ですから。》」
フェステが台詞を吐き出した瞬間。アリスの瞳が、助けを求めるように、一瞬だけ揺れ動いた。ネクタイを摑む手が不意に緩む。距離を取ろうとする彼女のうなじを強引に引き寄せ、フェステは音もなく唇を合わせた。胸を押し返そうとするアリスに逃げ場を与えず、もう一度、今起こったことを確かめるように唇を塞ぐ。
甘い、酒の味がした。
舌を噛まれる寸前で拘束を解けば、予想通り、左方向から平手打ちが飛んでくる。
「——Is't possible?《夢ではあるまいな、いまのは?》[8]」
頬に当たる寸前でアリスの腕を摑み上げ、フェステが自身の上唇を舐めながら笑う。
それを受けてフッと鼻で笑ったアリスが、思いきりフェステの革靴の上にパンプスの踵を踏み下ろした。「ってえ!」と短い叫びがフェステから漏れる。
「If this were play'd upon a stage now, I could condemn it as an improbable fiction.《こんなのが舞台で上演されたら、あんまりばかばかしい作り話だって文句をつけるところですよ。》」
台詞通りのメタ的なアリスの返しに、思わず苦笑する。
そう。こんなばかばかしい演戯をするのは舞台裏だけで十分だった。
フェステに背を向けて歩き出していたアリスの肩に腕をかけ、彼女の顔を横から覗き込む。
「どうせ遊ぶなら、俺にしておけよ」
な? 楽しませてやる。
フェステと目を合わせたアリスが、パチリ、と大きな瞬きを一つする。
その後、言葉の意味を解したのか、ふふっと堪えきれなかったように噴き出し、肩にかけられたフェステの腕を持ち上げて、静かにその身を離した。二、三歩ほど距離を置いたところで、くるんと振り返り、ワンピースの裾を翻して、アリスが朗らかに笑う。
「あなたたちが、あなたたちである間に、人を好きになる、なんて、あるんですか?」
一瞬、世界中の、すべての音が、消えてしまったような心地がした。
目の前で笑う女が、この世のものと思えぬほど、人智を凌駕した存在のように思えてくる。
夜風が背すじを撫で上げ、ぞくりと肌が粟立つのを感じた。
「あ、」
アリスがふと足を止めて、宙を仰ぐ。
「ねえ、フェステ」
天に向かって人差し指をピンと指し向け、アリスが小首を傾げて柔和に微笑んだ。
「人類は、本当に、あの月へ行けたって思います?」
And we fairies, that do run
By the triple Hecate's team
From the presence of the sun,
Following darkness
《われら妖精空を駆け、
おてんと様の顔を避け、月の女神のお供して、
闇を追い行く、》
「……like a dream《夢に似て。》[9]」
地球のたった一つの衛星を見つめる、その瞳に込められるのは。
月への思慕か。地上への悔恨か。
「真実って、何なんでしょうね」
くすくす、とアリスがフェステに躰を向けて笑う。
「Farewell, fair cruelty.《さようなら、美しい残酷なかた。》[10]」
裾を両手で軽く持ち上げて、淑女の礼をしたあと、アリスは軽い足取りでフェステの前を離れた。自らの中で生じた何かを搔き消すように、取り出した煙草に火を点けて、煙を吐き出す。
白煙が昇っていく。その向こうで、不完全な形をした月が燦然と輝いていた。
[1] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『ヴェニスの商人』、新潮文庫、第三幕第二場
[2] シェイクスピア、松岡和子訳(二〇〇〇年)『テンペスト』、ちくま文庫、第一幕第二場
[3] シェイクスピア、福田恆存訳(一九六七年)『ハムレット』、新潮文庫、第一幕第三場
[4] シェイクスピア、小田島雄志訳(一九八三年)『十二夜』、白水社、第一幕第五場
[5] 同上、第二幕第二場
[6] 同上、第二幕第四場
[7] 同上、第三幕第一場
[8] 同上、第三幕第四場
[9] シェイクスピア、小田島雄志訳(一九八三年)『夏の夜の夢』、白水社、第五幕第一場
[10] シェイクスピア、小田島雄志訳(一九八三年)『十二夜』、白水社、第一幕第五場




