第七話
回 想
アスファルトの中に取り込まれた私は、どうやっても脱出できないことを悟った。私は絶望の中で身体を焼かれ、朽ちていく運命を受け入れるしかなかった。なぜこんなことになってしまったのか、なぜ私なのか、止めどなく溢れる疑問の渦は何の解決にもつながらない。なぜ私がこんな惨めな死に方をしなければならないのだろうか。
私は何不自由ない家庭に育った。さすがに生まれた頃の記憶はないが、物心が付いた頃から、父と母が私に多くの愛情を注いでくれたことは覚えている。明日の食べる食事の心配などしたことはないし、お金のない苦しみを味わったこともない。好きなおもちゃは買ってもらったし、自転車は何台乗り換えてきたことか。正月には親戚中の家からお年玉をもらって、子供が所持するには相応しくない金額を手にすることもあった。小学校の頃には、すでに我が家には自動車があった。その当時は、マイカーを所有している家庭の方が少なかったが、父は何台も自動車を乗り換えていたことを覚えている。
小学四年生になると、少年野球チームに入部させてもらった。私はめきめきと頭角を現し、五年生の頃には投手としてレギュラーに定着した。試合には何度も勝ち、何度も負けたが、充実した日々を送ることができた。学校での成績は常に良かった。通知簿の評価欄には、A以外の文字を見たことがない。
中学生になっても相変わらず野球に明け暮れた。私の身長は学年で最も高くなり、チーム内では不動のエースの座を確固たるものにしていた。あの頃は、だれにも打たれる気がしなかった。学校での成績も常に上記をキープしていた。学業もスポーツも私の右に出る者はいなかった。
高校へは進学校へ行くか、野球の強豪校へ行くか、迷いに迷った。今から思えば贅沢な話しだった。父からの助言もあり、私は進学校の入試を受け、無事にパスすることができた。当然だが野球部に入部したが、強豪校に比べれば見劣りするチームだった。ありとあらゆる試合で連戦連敗した。そんなチームでも私は誰にも負けたくなかった。こんな弱いチームだから、適当に練習をやっておくような選択肢は私にはなかった。私は一年生の時からチームメイトを叱咤激励し、私は遮二無二頑張った。三年生の時には、夏の甲子園への地区予選でチーム発足以来の三回戦突破を果たした。準々決勝で敗退した時は、私だけではない、チームメイト全員が悔し涙を流していた。生涯忘れ得ぬ思い出だ。
私は幸いにも国立大学に入学することができた。大学では社会福祉学を専攻した。その頃、父が公務員として福祉関係の職務に就いていた影響がやはり大きかった。大学では福祉について一通りのことを学んだ。いくつかの福祉施設で実習をしたこともあったが、それほど興味を惹くものではなかった。私は野球に対する情熱が失せてしまったのか、クラブ活動に参加することはなかった。その分、福祉に対する勉強に精を出した。
私がこの街の市役所に就職したのは、ただ定年まで安定した職場を選んだ、ただそれだけのことだった。就職してすぐに、大学での実績を買われて福祉課に配属された。そこで私が目にしたものは、生活困窮者がこの街に溢れている惨状だった。大学で学んだことは、通り一遍のきれいごとばかり。世の中には日々の生活すらままならず苦しんでいる人たちが、あまりにもたくさんいることなど教えてはくれなかった。身寄りがなくただ死を待つような孤独な年寄り、給食費が払えず満足に食事を摂れない小学生、生活苦に耐えられず自殺するサラリーマン・・・、数え上げれば切りがない。私が育ってきた生活環境から見れば、まるで別世界のようだった。
私はこの街を変えたいと思った。市民の方々が苦しまずに生きていける社会を作りたいと心から思った。忙しい仕事の合間を縫って、老人ホームや病院を一件一件訪ねて歩き、ご老人や病気を患っている方々にとって何が足りないのか、何を求めておられるのか、自分の目で確かめようとした。一人暮らしやご夫婦だけで住まわれている老人の自宅も訪ねれて行ったこともあった。どこからどう見ても介護する人の数が足りない。私はそのことを何度も市役所の上司に訴え、予算を増額してもらえるように掛け合った。しかし、状況を何も変えることができなかった。
「何とかなりませんか、このままでは孤独死するご老人が溢れてしまいます」
「市役所の運営すら困窮しているんだ。福祉に回す予算がない限り、介護者の人を増やせない」
私の訴えに上司はその一点張りだった。
「自分の親が寝たきりになっても、同じことが言えるんですか」
私は歯がゆさのあまりに、心に封印していた言葉を吐き出してしまった。その時、上司は何も言わなかったが、そのことがきっかけで私を福祉課から移動させられてしまった。私は間違ったことは言っていない。しかし、市民のために何の役にも立てなかった。私は自分の無力さを思い知らされた。




