第十話
回 想
私はこのプロジェクトに人生を賭けようと思った。一人の年老いた市民との約束すら果たせない私が、だれを支えて行けると言うのか。例え何年かかってもやり遂げてみせる。この思いだけで私は十年と言う辛く苦しい年月を乗り越えることができた。しかし、私の精神は限界に達していた。そんな私にも奇跡と言うものが巡って来るとは思いも寄らなかった。
跨線橋の建設を敢行した私のことを、市民の方々が支持してくださった。たった一人の戦いだと思っていたが、そうではなかった。市役所の連中は手のひらを返したように、私を持ち上げるようになった。今まで私に見向きもしなかった上司たちが、ことあるごとに私に声を掛けるようになり、食事にも誘ってくれるようになった。私を見下していた部下たちは、気持ちが悪いくらいに私の指示に従うようになり、仕事がやりやすくなっていった。
上司や部下たちの態度に構っている余裕はなかった。私は跨線橋の建設プロジェクトの推進に全身洗礼を傾けた。建設会社の落札を経て、設計図面から施工計画書にまで全ての関係書類に目を通し、打合せには必ず参加した。難しい構造解析の内容はわからないが、市民の方々の生活車両の走行に影響を与える施工計画は全て却下した。市民の方々の理解があってこそ成し得る工事だ。そこに関しては一切の妥協は許さなかった。
やがて私は所長に推薦されることになったが、嬉しいと言う感情が沸いてこなかった。私の心はなぜか晴れることはなかった。市役所に就職して以来、誰一人として私を支援してくれる者はいなかった。たった一人で戦い続けた。誰も見向きもしてくれなかった。しかし、誰も成し遂げたことのない立派な成果を上げれば、私に媚を売ろうとする者さえ現れた。周りの連中から持ち上げられるたびに、私の虚無感は次第に大きくなっていった。そして、私は自ら心を閉ざすようになっていった。
―もう誰も信用できない。
私が所長になる頃には、工事が始まろうとしていた。工事の管理まで所長の私がやることではない。部方たちに一任することにした。朝から晩まで所長室のデスクに座り、外に出る機会もすっかり減ってしまった。それがなぜか虚しかった。私が私でなくってしまったような気がした。部下に頼んで武子さんの現状を調べてもらったら、すでに亡くなっていた。跨線橋の完成を報告したいと密かに思っていたが、それも叶わず私の虚しさはさらに増大していった。武子さんとの約束は、跨線橋を建設することで果たされた訳ではない。市民を幸せにする政策など無限にある。しかし、私のそんな思いを、虚無感が片っ端から虫食んでいった。
私はこの市役所に努めて何を成し遂げてきたのだろうか。確かに市民の生活をよくするために、跨線橋の建設に奔走した。やったことは、ただそれだけだ。理不尽な屈辱に耐え、我慢に我慢を重ねて市民のためにできたことは、跨線橋を一つ建設しただけだ。たったこれだけのことするために、私は一体何十年と言う年月を浪費したのだろうか。虚しい、ただひたすらに虚しい。
誰かが私の礼を言ってくれる訳ではない。そんなことは望んでもいない。私の心に渦巻く虚しさを、だれか取り除いてくれないか・・・。
跨線橋の工事が進み出したのに、私は現場を見に行くことすらしなかった。意味はない。興味が沸かなかったからだ。何か他人事のように思えてならなかった。進捗については部下から報告を受けていたが、自分から足を運ぶことはなかった。
―私は抜け殻みたいだ。
私の身体の中には、もう何も詰まっていない。若い頃に抱いてた希望も、熱意も、諦めない気持ちすべて私の身体から抜け出していた。あと数年、所長として任期を全うすれば、後はリタイアして家族との年金暮らしが待っている。私の市役所での責務はこれまでだ。
何かの魔力に私の心が支配されてしまったのだろうか、私がただ退屈なだけの人間に成り下がってしまっていたのだろうか、おそらく後者なのだろう。所長、所長と市役所の全職員から持ち上げられるうちに、私は自分を見失っていった。
なぜだろうか、走馬灯の回転がここで止まってしまった。まだ現在にまで至っていないのに・・・。所長になってからの記憶が残っていないのだろう。随分と正確な走馬灯だ。
―どうやら私が死ぬ時がやってきたようだ。
この跨線橋が完成し渋滞が解消されて、市民の方々が笑顔でマイカーを運転している様子を見てみたい、私の心にふとそんな気持ちが沸き上がった。しかし、こんな状況では叶えられそうにもない。私は命が失われようとして、やっと大切なことを思した。なんと情けないことなのだろうか。動けなくなった体では、私は溢れ出る涙を拭うこともできなかった。




