銀髪の魔族(前職:?)
待合室の空気が変わった。
フェアリーのピピルが、求人票を盛らずに読み上げた直後だった。受付机には花粉を落とすための皿があり、リィナの手元には『そこまで』と書かれた表示カードが残っている。掲示板の前には、まだ求人を見に来た魔物たちの小さな列があった。
その列が、音もなく割れた。
ゴブリンが炭袋を抱えて道を空ける。インプが受付机の下へ戻る。ミノタウロスのバルドは手持ち看板を胸の前で止め、保管庫前のミミック、ミクが低く鳴った。ピピルは喋りかけた口を、自分の両手で押さえた。
黒い外套の裾が、受付の床を静かに擦る。銀の髪。小柄な体。整いすぎた顔。
見た目だけなら、貴族の娘に見えたかもしれない。けれど待合室にいた魔物たちは、誰もその小ささを笑わなかった。
リィナの指先から、羽ペンが滑りかけた。
銀糸将軍リゼリア。
旧魔王軍中央人事局にいた者なら、その名は知っている。人事異動の書類に載るような相手ではない。上層名簿の、赤い封印がついた区分に置かれていた名前だ。リィナが知っているのは、そこまでだった。
そのリゼリアが、今、受付机の前に立っている。
アーベルは羽ペンを置いた。
「来たか」
リゼリアは、最初にアーベルを見なかった。
受付横の掲示板を見た。
炭焼き区画、夜番見習い募集。
下層排水路保守班、酸性体質歓迎。
大型荷物搬入補助、力のある者歓迎。
求人掲示板管理補助、掲示物を盛らない方。
重要物品保管箱、開封申請は受付へ。
リゼリアは掲示板の一枚一枚を読んだ。最後の『噛まない宝箱も、宝箱』という小さな注意書きで、銀の睫毛がわずかに下がる。
「求人票、ですか」
静かな声だった。怒鳴っていないのに、待合室の端にいたスケルトンの骨が、かたりと鳴った。
「ここは、退避拠点だったはずです。兵を逃がし、集め直し、もう一度立つための場所。魔王様が、そのために残した場所です」
退避拠点。魔王様。兵を集め直す場所。
最近ここへ来た者には、意味が分からない言葉だった。だが、古い兵だった者たちは反応した。ゴブリンのガルが炭袋を抱え直し、オークのボルガが壁際で肩を起こす。
アーベルは、そこにある全部を見たうえで、否定しなかった。
「今はダンジョンで、ここは魔物職業安定所だ」
「見れば分かります。分かるから、聞いています」
リゼリアはそこで、ようやくアーベルを見た。
「アーベル。あなたは、ここで何をしているのですか」
リィナは書類を抱え直した。
リゼリアが局長を知っている。それ自体は不思議ではない。アーベルは旧中央人事局長だった。軍の上層と面識があってもおかしくない。
ただ、目の前の二人の間には、書類上の面識では説明できない静けさがあった。
アーベルは待合室へ視線を戻す。求人票を握るゴブリン、床を溶かさないよう端を進むスライム、木の食券を待つオーク、掲示板の上で黙っているフェアリー、噛まずに蓋を閉じているミミック。
「残った者を食わせている。寝かせている。働かせている」
「兵だった者たちを、別々の仕事に就けているのですね」
「そうだ。兵でなくなった者に、今日の持ち場を渡している」
リゼリアの顔は動かない。けれど、銀の髪の先だけが、風もないのに少し揺れた。
アーベルは立ち上がった。
「奥で話す」
リゼリアは何も言わずに歩き出した。リィナは書類を抱え、二人の後ろを追う。
通されたのは、魔物職業安定所の奥にある会議室だった。
扉が開いた瞬間、リゼリアは足を止めた。
そこには長い机があった。昔の作戦卓だ。傷も、焼け跡も、古い魔力の焦げた跡も残っている。
だが机の上にあるのは軍令書ではない。相談用の椅子、茶の入ったポット、厚い求人票の束、木の食券を入れた箱だった。
壁には外縁防衛図が残っている。その横に、食堂当番表が貼られていた。
補給路の地図の下には、求人掲示板の配置案。軍団配置表の端には、配属予定表。
さらに、紙の端には大きな字の注意書きが並んでいた。
『噛まないこと』
『花粉は落としてから掲示』
『壁を動かす前に声をかける』
『迷子は倒さない』
リゼリアは長く黙った。
怒っている。
だが、どこから怒ればいいのか分からない顔だった。
「アーベル」
声は静かだった。
「作戦卓で、食堂当番を決めないでください」
リィナは書類を抱えたまま、思わず目を伏せた。笑ってはいけない。絶対に笑ってはいけない。そういう顔だった。
アーベルは作戦卓の上に置かれた食券箱を、少しだけ横へ寄せた。
「ここに置くと、配り忘れない」
「便利で片づけないでください。ここは、兵を動かす場所です」
「今は、飯を配る場所でもある」
「飯は大事です」
リゼリアはそこで、少しだけ言葉を詰まらせた。飯が大事なことは、否定できなかったらしい。
「ですが、作戦卓の上にポットを置くのは違います」
「茶がないと、相談が長い時に倒れる」
「相談をここでしないでください」
リゼリアは椅子には座らなかった。
作戦卓の前に立ったまま、壁の紙を見ている。外套の袖口は少し裂けていた。銀髪は整っているが、毛先だけが不自然に短い。焼けたのだと、リィナにも分かった。
「私は、魔王城が落ちると思っていませんでした」
その声は、さっきより低かった。
「魔王様がこの場所を用意した時も、弱い備えだと思いました。万が一など考えない方が強い。逃げ道を考える者から負ける。私は、そう思っていました」
細い指が、外套の袖をつまむ。黒い布の裂け目が、ほんの少し広がった。
「ですが、魔王城は落ちました。魔王様は討たれました。私は逃がされ、傷で動けず、ここへ来るのが遅れました」
リィナは初めて、目の前の少女を小さいとは思わなかった。
椅子に座れば背も低いだろう。手も細い。顔も整っている。けれど、その声の底には、折れた城壁の砂と、燃えた軍旗の匂いがあった。
「だから来たのです。残った兵を集めるために」
リゼリアはアーベルを見た。
「それなのに、ここには求人票があります」
アーベルは作戦卓の向こうに立ったまま、窓の外を見た。
会議室からは、待合室の一部が見える。
ガルが炭袋を抱え、食堂の方へ歩いていた。プルムが床に広がらないよう、小さくまとまって端を通る。ボルガは荷物を置く前に、壁との距離を確かめている。バルドは迷子のインプを倒さず案内していた。ミクは保管庫前で、蓋を閉じたまま動かない。ピピルは掲示板の前で、言いたいことを飲み込んでいる。
「戦場では、役に立ちません」
リゼリアは窓の外を見たまま言った。
「焼討ち部隊が炭袋を運び、迷宮の番人が迷子を案内し、罠箱が噛まない。弱くなったようにしか見えません」
「ここは戦場じゃない」
「だから腹が立つのです」
リゼリアの声が、初めて少し震えた。
「みんな、まだ生きているのに」
その一言だけは、責める言葉ではなかった。悔しさだった。
リィナは書類を握ったまま、何も言えなかった。アーベルもすぐには答えない。
待合室から、食堂の鍋を動かす音が小さく届いた。炭の匂い。湿った石の匂い。花粉を落とした皿の甘い匂い。どれも戦場の匂いではなかった。
「残った者を、もう一度兵に戻すべきです。命令を与え、隊を組み、補給を整える。今なら、まだ間に合います」
リゼリアは顔を戻した。美しく、冷たい、将軍の顔だった。
「あなたは兵を集めていない。戦える者を、戦場ではない場所へ置いている」
アーベルは否定しなかった。
「置いている。炭焼きへ、排水路へ、搬入区画へ、掲示板へ、保管庫へ」
「それを認めるのですか」
「認める。集めれば、また戦場になる」
「戦場が必要です」
「守る場所が先だ」
「その守る場所を、あなたは食堂当番表で埋めている」
リゼリアの視線が、もう一度壁へ行った。
食堂当番表の紙が、換気の風で少し揺れている。
「アーベル。私は、まだ認めません」
彼女の足元に、細い銀糸が一本落ちた。
石の目地が、音もなく裂ける。
リィナの背中に冷たいものが走った。
糸だ。
ただの糸ではない。
かつて戦場で、騎兵を止め、城門の鎖を断ち、逃げる敵兵を部隊ごと縛った銀糸。それが、一本だけ床へ落ちただけで、部屋の空気を変えた。
「言葉では、足りません」
リゼリアはアーベルを見た。
「訓練区画へ行きます」
それだけで意味は通じた。戦うのだ。
リィナは止めようとして、喉の途中で言葉を失った。目の前の二人は、受付で揉めている応募者ではない。同じ古い戦場から来た者同士だった。
「魔王様がいらした頃なら、叱られました」
リゼリアの銀の睫毛が、ほんの少し伏せられる。
「今は、叱る方もいません」
アーベルは、机の上に置いていた求人票の束を横へ寄せた。一番上には、『食堂搬入補助 二名募集』の文字が見える。
「リィナ。本日の受付は終了だ。待合室には木の食券を配れ」
「局長は、訓練区画へ行かれるのですね」
「そうだ」
リィナは唇を結んだ。怖かった。けれど、やることがあるのは助かった。
「止めた方が、よろしいですか」
アーベルは少しだけリィナを見た。叱るでもなく、笑うでもない顔だった。
「止められるなら頼む」
「無理です」
「なら、食券だ」
リィナは深く息を吸い、書類と木の食券の箱を抱え直した。作戦卓の上ではなく、待合室へ持っていくためだ。
リゼリアは作戦卓の端に貼られた注意書きを見た。
『走らない』
『押さない』
『噛まない』
『盛らない』
リゼリアは眉を寄せた。
「禁止事項が多すぎます」
「必要だからな」
リゼリアは何も言わず、前を向いた。
可愛らしい横顔だった。だが、床に落ちた銀糸は、まだ石を裂いている。
廊下の奥にある訓練区画は、今では訓練というより練習場だった。
大型魔物が壁にぶつからず曲がる練習をする場所。荷物を落とさず置く練習をする場所。火を大きくしない練習をする者が、責任者に怒られる場所。
それでも床は厚く、壁は深く、天井には昔の魔力補強が残っている。
リゼリアが扉の前で足を止めると、銀糸が外套の裾から静かにほどけた。床を這い、壁を伝い、空気の中で見えない弦になる。
「リゼリア、施設は壊すな」
アーベルが言うと、リゼリアは不満そうに唇を結んだ。
「……必要なところ以外は」
「必要なところも壊すな」
リゼリアは返事をしなかった。
アーベルは扉を開けた。
中は暗い。
リゼリアが先に入る。
小柄な背中。黒い外套。銀の髪。
それでも、そこにいるのは少女ではなかった。
四天王第二席。
銀糸将軍リゼリア。
アーベルも入る。
リィナが待合室へ戻ると、誰も声を出していなかった。
木の食券を配る音だけが、やけに大きく聞こえる。
ピピルも喋らない。バルドも手持ち看板を下げたまま動かない。保管庫前のミクだけが、低く、かたんと鳴った。
奥の扉が閉まる音がした。
リィナは食券の箱を抱えたまま、指先に力を入れた。さっきまで作戦卓の上にあった箱だ。食堂に並ぶ者へ渡す、ただの木の食券が入っている。
食券の箱が、急に重くなった。
その夜、魔物職業安定所の灯りはいつもより早く落とされた。




