銀髪の魔族(前職:四天王第二席)
「前職は?」
「四天王第二席。知っているでしょう?」
「一個軍団規模の管理職経験あり、と」
翌朝。
魔物職業安定所は、いつも通り開いていた。
ただし、いつも通りではないものもあった。
廊下の奥にある訓練区画の扉が新しくなっている。昨日まで使っていた分厚い扉は、朝一番で木工班へ運ばれた。
石壁には、細い切り傷が何本も残っていた。床には、銀の糸でこすったような跡がある。受付机の脚にも、なぜか一本だけ浅い切れ込みが入っていた。
リィナは見なかったことにした。
昨日の夜、訓練区画で何があったのか、彼女は知らない。木の食券を配り、待合室を閉め、保管庫前のミクに「今日はもう誰も開けません」と言い聞かせている間に、奥で何かが起きた。
分かっているのは、アーベルの袖口が昨日より少し短いこと。
銀髪の魔族の黒い外套の裾が、片側だけ焦げていること。
そして、その銀髪の魔族が今、受付机の向こうに座っていることだった。
昨日は椅子に座らなかった。
今日は座っている。
それだけで、待合室の魔物たちは妙に静かだった。
アーベルは、何事もなかったように面接用紙へ羽ペンを走らせる。
「管理職経験は貴重だな」
「私の経歴を、管理職で片づけないでください」
「部下を持ち、戦線を維持し、非常時に判断していたなら管理職だ。求人票にはその方がいい」
「もっと恐れられる言い方があるでしょう」
「応募者が逃げる」
リゼリアは不満そうに銀の眉を寄せた。
その表情は、見た目だけなら菓子を取り上げられた貴族の娘に近い。けれど、椅子の脚に巻きついている細い銀糸を見れば、誰もそうは思わない。
リィナは面接用紙の横に、厚めの求人票を置いた。
普通の求人票では、リゼリアの視線だけで折れそうな気がしたからだ。
「職務内容を確認する。四天王第二席として、主に何をしていた」
「敵軍の足を止める。退路を断つ。騎兵を縛る。城門の鎖を切る。部隊を動かす。逃げる兵を戻す。必要なら、まとめて吊るす」
待合室の端で、インプが自分の首を押さえた。
ピピルは掲示板の上で口を押さえている。昨日の成果が出ていた。言いたいことはありそうだが、言っていない。
アーベルは面接用紙に書き足した。
大規模部隊の指揮。
戦線維持。
危険区域の封鎖。
敵性対象の拘束制御。
非常時判断。
退避路の管理。
高圧状況での現場統率。
リィナは最後まで見てから、小さく息を吐いた。
「局長。かなり整いましたが、実際には部隊ごと縛る方ですよね」
「だから受付には置かない」
「受付に置く案が一瞬でもあったんですか」
「ない。確認しただけだ」
リゼリアは面接用紙を見て、少しだけ目を細めた。
「拘束制御。危険区域の封鎖。非常時判断。私の銀糸が、少しつまらなく見えます」
「つまらなく見えるくらいでいい。魔物職業安定所の求人票だ」
「昨日から、その言い方が嫌いです」
その言葉に、昨日ほどの棘はなかった。
認めたわけではない。機嫌がいいわけでもない。ただ、朝になっても帰っていない。
リィナは、そこが一番怖かった。
アーベルは求人棚から一枚抜いた。
警備職の棚ではなく、非常時対応の棚である。リィナが昨日のうちに増やした棚だった。訓練区画の扉が一枚なくなった時点で、必要になる気がしたのだ。
「配置案はこれだ」
求人票には、まだ仮の文字が残っている。
アーベルはその場で上書きした。
職種:外縁警備および非常時対応担当。
勤務場所:ダンジョン外縁、訓練区画、緊急時の避難経路。
業務内容:外縁巡回、危険区域の封鎖、緊急時の避難補助、職員および求職者の退避支援。
歓迎経験:軍団規模の管理、戦線維持、拘束制御、非常時判断。
注意事項:平時に銀糸を広げない。施設を切らない。応募者を兵として数えない。
リゼリアは最後の一行で、ほんの少しだけ目を細めた。
「応募者を兵として数えない」
「ここでは必要な注意事項だ」
「数えれば、兵になります」
「数えるな」
「魔族は、強い者の下に集まります。集まれば、隊になります」
「ここでは列になる。番号を呼ばれるまで待つ」
「弱そうですね」
「待てる者は強い」
リゼリアはすぐに返さなかった。
視線が、受付横の待合室へ動く。
炭焼き区画へ向かうガルが、火桶ではなく炭袋を抱えている。袋の口をきちんと縛り、通路の端を歩いていた。
下層排水路のプルムは、床に広がらないよう丸くなり、通行者を避けて進んでいる。
ボルガは荷物を置く前に、壁との距離を確かめていた。昨日なら、たぶん壁ごと動かしていた。
バルドは迷子のインプに近づきすぎず、三歩前を歩いて案内している。
ピピルは掲示板の前で、読み上げたい求人票を一度見てから、リィナの表示カードを確認している。
保管庫前のミクは、誰かが近づいても噛まず、かたんと小さく鳴った。
昨日、リゼリアはそれを弱くなったようにしか見えないと言った。
今朝も、強くなったとは思っていない顔だった。
ただ、見ていた。
「戦場なら、全員遅いです」
「ここでは、止まれる方がいい」
「……それは、昨夜聞きました」
リゼリアの目が、アーベルの袖口へ落ちた。
切られた布の端が、まだ少し焦げている。
リィナは羽ペンを握り直した。
聞きたいことはあった。山ほどあった。けれど、聞かない方がいいことも、職場にはある。
「私は、この場所を認めたわけではありません」
リゼリアは静かに言った。
「求人票も、食堂当番表も、噛まない宝箱も、まだ変だと思っています。魔物を兵に戻さず、別の仕事に置くことが正しいとも、まだ思っていません」
そこでリゼリアは、少しだけ顎を上げた。
小柄な体に、昨日と同じ圧が戻る。けれど、銀糸は広がらない。椅子の脚に巻いた一本だけで止まっている。
「ですが、魔族は強い者に従います。弱い者の理屈には従いません。強い者が作った場所なら、しばらく見ます」
それは納得ではなかった。
服従でも、協力でもない。
魔族としての筋だった。
アーベルは求人票の下に、仮採用欄を作った。
「では、外縁警備および非常時対応担当として仮採用する」
「見張るだけです」
「見張りも仕事だ」
「あなたが、ここを弱い場所にするなら止めます」
「必要なら止めろ。ただし、施設は切るな。応募者も吊るすな。掲示板も切るな」
「注意事項が増えました」
「増やされる側に原因がある」
リゼリアは不満そうに唇を結んだ。
だが、求人票を破らなかった。
それだけで、リィナは今日の分の業務が半分終わった気がした。
アーベルは仮採用通知を差し出す。
リゼリアはすぐには受け取らなかった。細い指が、紙の上で止まる。
「これを受け取ると、私はあなたの部下ですか」
「職員だ」
「弱く聞こえます」
「給与が出る」
「……給与」
リゼリアの銀の睫毛が、わずかに下がった。
「四天王にも、給与が出るのですか」
「働けば出る」
「魔王様からは、領地と兵を預かっていました」
「今はダンジョンで、ここは魔物職業安定所だ」
「またそれを言う」
「必要だからな」
リゼリアは仮採用通知を受け取った。
紙を折らない。破らない。銀糸で切らない。
ただ、端をつまむ。
その持ち方が妙に慎重だったので、リィナは少しだけ息を吐いた。
問題は、求人票を掲示板へ貼る時に起きた。
リゼリア用の求人票は、今までのものより明らかに物々しかった。
外縁警備および非常時対応担当。
軍団規模の管理。
拘束制御。
非常時判断。
その中にある「施設を切らない」という一行だけが、妙に生活感を出していた。
ピピルが掲示板の上からそれを見下ろし、口を開きかける。
リィナは無言で表示カードを掲げた。
『そこまで』
ピピルは口を閉じた。
昨日より早かった。
リゼリアはその様子を、少し不思議そうに見ていた。
「止まれるのですね、あの妖精」
「昨日からだ」
「昨日までは止まれなかったのですか」
「昨日からだ」
アーベルがそう答えると、リゼリアは掲示板へ視線を戻した。
外縁警備および非常時対応担当。
試用中。
自分の求人票を見ている顔は、認めた顔ではなかった。
だが、帰る顔でもなかった。
待合室の空気が、少しだけ戻る。
ゴブリンが列に戻り、インプが受付机の下から出てくる。バルドが手持ち看板を持ち直し、ミクが保管庫前で静かに蓋を閉じた。
リィナは次の番号札を見た。
今日も列はある。相談もある。求人もある。食堂の鍋も、もうじき昼の準備に入る。
リゼリア用の求人票が、掲示板の端に貼られた。
外縁警備および非常時対応担当。
試用中。
その下で、ピピルが何か言いかけ、リィナの表示カードを見て口を閉じる。保管庫前のミクは、近づいたインプに噛みつかず、かたんと鳴った。バルドは迷子を倒さずに案内し、ボルガは荷物を置く前に床を見た。プルムは壁際を丸くなって進み、ガルは炭袋を抱えたまま食堂の列へ並んでいる。
スケルトンのカランは、掲示板の前で求人票の数を数えていた。
ハーピーのフレアは、飛ばずに歩いて通路を確認していた。
サキュバスのメルは、相談室の扉の前で、言葉を出す前にリィナを見た。
戦場なら、遅すぎる。
けれど、ここでは誰も走っていなかった。
誰も噛んでいなかった。
誰も壁を動かしていなかった。
誰も求人票を盛っていなかった。
リゼリアは、その光景をしばらく見ていた。
「弱くなったわけでは、ないのですね」
声は小さかった。
認めた声ではない。
けれど、昨日の怒りだけでもなかった。
アーベルは新しい面接用紙を一枚出した。
「次の応募者を呼べ」
「はい、局長」
リィナが受付へ戻る。
掲示板の端には、四天王用の求人票が貼られている。食堂からは鍋の音がして、炭焼き区画からは煙の匂いが届き、保管庫前ではミクが静かに蓋を閉じていた。
魔王軍の退避拠点は、もう軍を集める場所ではなかった。
ここは、魔物職業安定所だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
ここまでで第一部完結となります。
魔物職業安定所に並んだ魔物たちが、それぞれ少しずつ「仕事」を持つところまで書くことができました。
第二部以降の構想もありますが、続きにつきましては反響を見ながら考えたいと思っております。
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