業務報告書 サキュバス(仮採用一日目)
メルは、仮採用通知を指先で挟んだまま、相談室の前に立っていた。
通知書には、リィナの字で細かく書き込みが増えている。
香りが移らないよう少し厚めの紙にされたせいで、普通の通知書より硬い。胸元に挟もうとしたところを、朝から二度止められた。
配属先:離職相談員補助。
雇用形態:試用。
業務内容:相談聞き取り、職場不一致確認、面談票作成補助。
注意事項:誘惑禁止。口約束禁止。目を見すぎない。個室面談は必ず同席者を置く。
「目を見すぎない、だけ納得できないわ」
メルは小さく言った。
相談室の扉には、すでに貼り紙が並んでいる。
『相談中』
『誘惑禁止』
『口約束禁止』
『目を見すぎない』
昨日まで、彼女は敵の兵士を見つめる仕事をしていた。
疲れている者。不満を抱えた者。褒められたがっている者。誰かを憎まないと立っていられない者。そういう相手を見つけ、声をかけ、隊列から少しずつ外していく。
目を見るな、という命令は、刃物を持つなと言われた剣士に近い。
相談室の中では、アーベルが机の端に相談票を置いていた。
リィナは同席者用の席に座っている。羽ペン、水差し、木の砂時計、それから小さな表示カード。昨日の面接より、机の上がやけに実務的だった。
『相談者を誘惑しない』
『答えを先に決めない』
『困ったら局長を見る』
メルは最後の表示カードを指先で弾きかけて、リィナに見られ、やめた。
「私、そんなに信用ない?」
「昨日、仮採用になったばかりです」
「正直ね」
「受付ですので」
アーベルは相談票の一枚目を軽く叩いた。
「初相談だ」
「昨日言っていた、工房を半日で辞めたオーク?」
「正確には、辞めたのではなく作業停止だ」
「上司を壁ごと持ち上げた子ね」
「その上司が、まだ壁についている」
「相談室に来る前に、壁をどうにかした方がよくない?」
扉の外で、床がぎしりと鳴った。
リィナが立ち上がり、扉を開ける。入ってきたのは大柄なオークだった。肩が広く、腕が太く、腰をかがめても扉枠に角が当たりそうになる。本人は気をつけているつもりらしいが、相談室の椅子がすでに逃げたそうに見えた。
「名前は」
「ボルガです。工房で、荷物運びに入りました。半日で止められました」
「辞めたのではなく、止められた?」
「作業を止めろと言われました。上司が壁についていたので」
「そこを軽く言うな」
アーベルが作業停止の確認票を手元に寄せる。
メルはボルガを見上げた。甘い声は出さない。出せば、たぶん話は早く進む。だが、早く進んだ分だけ、どこかで曲がる。
「ボルガ。あなたは、その上司を嫌いだったの?」
「いいえ」
「怒っていた?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして壁ごと持ち上げたの?」
ボルガは太い指を膝の上で組んだ。
椅子がまた、ぎし、と鳴る。ボルガは慌てて腰を浮かせた。
「荷物の置き場を聞きました」
「うん」
「上司が、あっちだ、と言いました」
「うん」
「でも、上司の前に壁がありました」
「そこで普通は、回り込むか、もう一度聞くの」
「はい。今は、そう思います。でもその時は、上司ごと持ち上げれば早いと思いました」
リィナの羽ペンが止まった。
メルも少し止まった。
アーベルだけが、確認票に淡々と書き込んでいく。
相談者:ボルガ。
作業場所:工房搬入区画。
発生事案:上司を壁ごと持ち上げ、作業停止。
本人の認識:近道。
現場の認識:事故。
「局長。本人の認識、近道でいいんですか」
「本人の認識としては合っている」
「現場の認識が強すぎます」
「上司が壁についているからな」
ボルガは肩を落とした。
落としても大きい。
「壊すつもりはありませんでした」
「そこは、たぶん本当ね」
メルは言いかけて、途中で止めた。
リィナが表示カードへ視線を落とす。
『答えを先に決めない』
メルは息を吐いた。香りが少しだけ甘くなり、すぐに薄くなる。
「ごめん。今のは決めかけたわ。ボルガ、あなたは壊すつもりはなかった。でも、どうして早く運ぼうとしたの?」
「工房の人たちが忙しそうでした。俺は持てます。だから、早く持てば役に立つと思いました」
「役に立ちたかった?」
「はい」
「止められた時、何が嫌だった?」
「力があるのに、待てと言われることです」
メルはその言葉をすぐに飾らなかった。
誘惑工作員だった時なら、そこに甘い言葉を差し込んだのだろう。あなたは悪くない。あなたの力は素敵。分かってくれない工房が悪い。そう言えば、相手は簡単にこちらを見る。
だが、アーベルが昨日言った。
曲げるな。ほどけ。
メルは相談票に視線を戻した。
「力があるから、すぐ動きたくなる。でも、工房では誰かが置き場を決めていて、誰かが壁を見ていて、誰かが通路を空けている。あなたが早く持つと、その人たちの仕事が飛ぶのね」
「飛ぶ」
「上司も飛んだわね」
「はい」
「そこは返事が早いのね」
ボルガはますます肩を落とした。
椅子の脚がまた鳴る。
「すみません。椅子も壊しそうです」
「気づいたのはいいことよ」
「いいことですか」
「ええ。今、壊す前に止まったもの」
メルがそう言うと、ボルガは膝の上の手を見た。
大きな手だった。壁ごと上司を持ち上げる手だ。けれど、今は椅子を壊さないよう、少し浮いている。
アーベルは立ち上がった。
「現場を見に行く。メル、相談票を持て。リィナ、同席。ボルガは先に歩くな」
「俺が案内します」
「案内はいい。先に歩くな」
「なぜですか」
「壁がまだついている」
工房搬入区画へ向かう通路は、相談室より少し広い。
ボルガは何度も肩を引いた。角が壁に近づくたび、リィナが表示カードを上げる。
『壁との距離』
ボルガはそのたびに止まった。
一回目は遅い。二回目も遅い。三回目で、壁に当たる前に止まった。
「三回目、少し早くなったわ」
「褒めてますか」
「今のは褒めてる」
「ありがとうございます」
ボルガの顔が少しだけ明るくなる。
メルは自分の声が甘くなりすぎていないか、リィナを見た。リィナは羽ペンを持ったまま、ほんの少しだけ頷いた。
許可が出たらしい。
面倒な職場だった。
工房の前には、数名の職人魔物が集まっていた。
全員、上を見ている。
その視線の先、工房の壁に、上司がいた。
正確には、上司と壁板が一緒に浮いていた。
上司は壁板にしがみつき、壁板は梁に引っかかり、全体として「まだ落ちていない」という状態を保っている。
「局長。あれは、壁についていると言ってよいのでしょうか」
「壁が上司についている、とも言える」
「言い方を変えても解決しません」
「分かっている」
上の上司が叫んだ。
「ボルガ! お前、戻ってきたのか!」
「はい! 相談してきました!」
「相談より先に降ろせ!」
「降ろしていいですか!」
「いいに決まっているだろう!」
「局長、降ろしていいそうです!」
アーベルは首を横に振った。
「まだ持つな。誰が頼んだか、どこへ降ろすか、壁との距離は足りるか。確認してからだ」
「今ですか」
「今だ。上司が上にいる時ほど、確認する」
メルは相談票の裏に、大きく書いた。
『持つ前に確認』
『誰が頼んだか』
『どこへ置くか』
『壁との距離』
リィナがそれを厚紙に写し、簡易の表示板にした。
ボルガは一文字ずつ読む。
「誰が頼んだか。上司が頼みました」
「どこへ置くか」
「床です」
「もう少し詳しく」
「工房の床。壁から離れたところ」
「壁との距離は」
「足りません。木箱が邪魔です」
ボルガは木箱を見た。
すぐ持とうとして、止まる。
「この木箱は、誰が動かしていいですか」
工房の職人たちが、そろってボルガを見た。
上司も壁板の上から黙った。
半日で上司を壁ごと持ち上げたオークが、木箱ひとつの許可を取っている。
「それは、動かしていい」
職人の一人が答えた。
ボルガは木箱を持ち上げた。
軽すぎたのか、最初だけ勢いが余った。だが、途中で腕を止め、床へ静かに置き直す。
それから上司を見上げた。
「今から降ろします。壁板ごとですか。上司だけですか」
「私だけにしろ!」
「壁板はどうしますか」
「あとで直す!」
「壁板は持たなくていいそうです」
ボルガは報告してから、上司をつかんだ。
今度は壁ごとではない。服の背中と腰の帯を支え、ゆっくり下ろす。
上司の足が床に着いた時、工房の魔物たちがまとめて息を吐いた。
上司は怒鳴ろうとして、ボルガの手元を見た。
その手は、まだ上司の服を引っ張っていない。壁にも触れていない。降ろしたあと、すぐ離れている。
「……次から、最初に聞け」
「.......はい」
「勝手に持つな」
「.......はい」
「だが、降ろしたのは助かった」
「はい!」
ボルガの返事は、さっきより小さかった。
小さいが、悪くない返事だった。
メルは相談票に書き足した。
本人は役に立ちたい。急ぐと事故になる。確認すれば、救助は可能。
それから少し迷い、最後に一行を加える。
褒める時は、壊さなかった点を具体的に言う。
リィナが横からのぞき込み、静かに頷いた。
相談室へ戻るころには、ボルガの歩幅は行きより狭くなっていた。
壁に肩を当てないためである。
相談机の前で、アーベルは表示板をボルガに渡した。
『持つ前に確認』
『誰が頼んだか』
『どこへ置くか』
『壁との距離』
「明日から搬入区画で試用継続だ。持つ前にこれを読む。読めない時はリィナか現場担当に聞け」
「はい」
「上司を持つ時もだ」
「上司は、持たない方がいいですか」
「基本は持つな」
「落ちそうな時は」
「その時も確認してから持て」
「分かりました」
ボルガは表示板を両手で受け取った。
武器ではない。命令書でもない。だが、彼はそれをかなり真剣に持っていた。
メルは椅子に座り直し、大きく息を吐いた。
「敵の指揮官を落とす方が楽だったわ」
「相談は敵を落とす仕事ではない」
「分かってる。落としたら、また壁につくもの」
「分かり方が少し違うが、今日はそれでいい」
アーベルは棚から薄い木の勤務証を取り出し、机に置いた。
黒い字で、短く書かれている。
相談員補助見習い。
メルはそれを見て、眉を寄せた。
「見習いって、私に似合わないわ」
「初日だ」
「相談室の鍵は?」
「渡さない」
「信用がないわね」
「同席つきなら、明日も来ていい」
メルは木の勤務証を指先でつまんだ。
胸元に挟もうとして、リィナを見る。リィナは何も言わない。ただ、通知書を手で持ってください、と言った時と同じ顔をしている。
メルはため息をつき、勤務証を手で持った。
「手で持てばいいんでしょう」
「はい」
「受付って細かい」
「相談室も細かくなります」
その時、工房の方から職人が駆け込んできた。
リィナがすぐに立ち上がる。
「上司の方は」
「外れました!」
「壁は」
「壁も外れました!」
相談室が静かになった。
アーベルは作業停止の確認票の下に一行追加した。
上司は、壁から外れた。壁は、まだ工房の一部ではない。
メルは机に額をつけた。
「明日も相談?」
「明日は工房修繕班と再面談だ」
「離職相談じゃなくて、事故処理じゃない」
「だいたい隣にある」
「職安って、思ったより壁を見るのね」
夕方。
魔物職業安定所に、一枚の業務報告書が届いた。
【業務報告書】
配属者:メル
配属先:離職相談員補助
雇用形態:試用一日目
担当業務:相談聞き取り、職場不一致確認、面談票作成補助
相談者:ボルガ
相談内容:工房を半日で作業停止。上司を壁ごと持ち上げた件
良好点:相談者の本音把握、緊張緩和、現場確認への同行
注意点:声が甘くなりやすい。答えを誘導しようとする癖あり。継続指導
破損物:工房壁板一枚
相談者の離職:撤回
誘惑使用:なし
備考:相談者を曲げずに戻したため、明日も同席つきで勤務を許可




