サキュバス(前職:誘惑工作員)
「前職は?」
「誘惑工作員よ」
「対人折衝および離反誘導経験あり、と」
俺が面接用紙にそう書き込むと、補佐のリィナは受付机の上に置いた換気札を無言でひっくり返した。
『換気中』
入口に立っているのは、サキュバスだった。
名前はメル。黒い羽根、小さな角、細い尾。服装は派手ではない。むしろ控えめだ。だが、控えめなはずの指先が履歴書を置くだけで妙に目立つ。
待合室の空気が甘くなる。
香水。花蜜。閉じた部屋に残る、柔らかくて逃げにくい匂い。ゴブリンのギギが背筋を伸ばし、インプが受付机の下から顔を出し、通路整理係のバルドが案内札を持ったまま少しだけ固まった。
「局長。面接前に換気します。サキュバスさんを差別しているわけではありません」
「職場環境管理だ。適切に処理しろ」
「そう言っていただけると助かります」
メルは肩をすくめた。黒い羽根が小さく揺れる。
「前提から変えるの、得意よ?」
「前提を変える前に、履歴書を出せ」
「もう渡したわ」
「リィナ、受け取ったか」
「受け取っています。気づいたら手元にありました」
俺は履歴書を机に置いた。
紙からも、ほんのり香りがする。
「リィナ。保管箱」
「はい」
リィナは木ばさみで履歴書をつまみ、保管庫前のミミック、ミクの前に置いた。
「ミクさん。面接中、この履歴書を保管してください。勝手に読まれないように。あと食べないでください」
「紙。匂いがする」
「なおさら食べないでください」
ミクが、かたん、と鳴った。
メルはそれを見て、ぱちぱちと拍手した。
「可愛い宝箱ね」
「噛む」
「可愛くないわね」
「研修中」
「応援してるわ」
ミクの蓋が、ほんの少し揺れた。
今のは警報ではない。照れたのかもしれない。箱なので分かりにくい。
俺は面接用紙へ視線を戻した。
「誘惑工作員としての業務を、まとめて説明しろ」
「敵陣に入り、兵士と話し、眠らせ、仲間割れさせ、戦う気をなくさせる仕事よ。疲れている子、不満がある子、褒められたい子、誰かを憎んでいないと立っていられない子を見つけるのは得意だったわ」
リィナが羽ペンを止めた。
待合室の甘さが、少しだけ別の重さを持つ。
「誘惑という言葉より、だいぶ危険な業務ですね」
「敵軍にとってはね。こちらにとっては、戦わずに隊列を崩す仕事だったの」
「局長。翻訳、合っていますか」
「合っている。対人折衝と離反誘導だ。手段は研修で制限する」
俺は用紙に書き足した。
潜入経験。対話による心理把握。相手の欲求、疲労、不満の察知。場の空気操作。緊張緩和。離反誘導。士気への影響力。誘惑行為、職場使用禁止。
「最後の行が急に現実です」
「最重要だ」
「受付希望でしたよね」
「だから最重要だ」
メルは履歴書の志望欄を指でなぞった。
「受付、駄目?」
「駄目だ。職安の受付は、困っている魔物が最初に来る場所だ。不安、飢え、焦り、怒りを抱えた応募者に、余計な作用をかける者は置けない」
「私は話を聞くのが得意よ」
「聞くだけならな。聞いたあと、相手をこちらの望む方向へ曲げるなら受付には置けない」
「早い時もあるわよ。迷っている子を、少し押してあげるだけ」
「早すぎる手段は、職場では事故になる」
リィナが大きく頷いた。
「受付で全員がメルさんの言うことを聞いたら、書類の意味がなくなります。後で、誰が何を決めたのか分からなくなります」
「後で分からない方が、都合のいいこともあるわ」
「この職安でそれをやったら、採用以前に出禁です」
メルは目を細めた。
笑っている。だが、さっきより少し温度が低い。
「真面目なのね」
「真面目ではない。住居、食料、仕事を順番に処理しているだけだ。ここで順番を崩すと、失業魔物は三日で軍に戻る」
「軍に戻したい子もいるわよ」
「いるだろうな」
「私は、そういう子の話を聞いてきたの。怖い、腹が減った、誰かを憎まないと眠れない、って」
「その後、どうした」
「敵なら、戦う気をなくさせたわ」
メルの尾が、椅子の脚をゆっくり叩いた。
笑みは残っている。だが、履歴書の紙の端に置いた指は動いていない。
「味方の話は聞いたのか」
「聞かないわ。聞く仕事じゃなかったから」
「なら受付は無理だ。受付は、相手を変える仕事ではない。相手を次の窓口へ渡す仕事だ」
待合室が少し静かになった。
ミクが、かたん、と鳴りかけて止まる。バルドも案内札を下げた。
メルは俺を見た。
「じゃあ、私は何ができるの」
「相手の疲労、不満、嘘、強がりを見抜ける。短時間で話を引き出せる。場の緊張を下げられる。上げる方は使うな」
「つまらない」
「仕事はつまらない部分で続く」
俺は求人棚から一枚抜いた。
受付ではない。
だが、面接室に近い。
「これだ」
リィナが受け取り、読み上げる。
職種、離職相談員補助。業務内容、就職失敗者の聞き取り、職場不一致の確認、再配置前の感情整理、面談票作成補助。歓迎経験、対話、緊張緩和、不満把握、士気への理解、夜間勤務経験。注意事項、相談者を誘惑しない。判断を誘導しすぎない。口約束で次の仕事を決めない。個室面談は必ず同席者を置く。
リィナは最後の一文を強めに読んだ。
「個室面談は必ず同席者を置く」
「そこまで警戒する?」
「します。前職欄を見れば十分です」
「誘惑工作員」
「ご自分で書いております」
「履歴書って不利ね」
「正直なら有利です」
メルは少し黙った。
それから、ふっと笑った。
「離職相談って、何をするの」
「辞めた魔物の話を聞く。職場が悪かったのか、本人が危険だったのか、配置が違ったのか、腹が減っていただけなのかを分ける」
「腹が減っていただけ」
「かなり多い」
「夢がないわね」
「小麦はある」
「小麦で解決する恋もある?」
「恋は扱わない。最後は求人票へ戻す」
「台無しね」
「職安だからな」
リィナが面接用紙の横に、そっと別紙を置いた。
相談票の見本である。
【離職相談票】
氏名:
前職:
離職理由:
職場で困ったこと:
再配置希望:
今日食べたもの:
次回面談日:
同席者署名:
メルの視線が、そこで止まった。
「今日食べたもの、まで聞くの?」
「聞く。腹が減っている者の相談は、相談ではなく配給になることがある」
メルは初めて、香りを弱めた。
待合室の空気が少し軽くなる。リィナが鼻から静かに息を吸った。
「局長、今、弱まりました」
「自制できるな」
「できるんですか」
「できるわよ。やらないだけで」
「それを職場では、やってください」
メルは相談票を指先で軽く叩いた。
「同席者は誰?」
「初日はリィナだ。怖いなら票を見る。怖くないなら、なおさら票を見る」
「私と二人、怖い?」
「怖いです」
リィナはまっすぐ答えた。
「怖いので、紙と局長を間に置きます。そうすると、少し怖くなくなります」
メルの笑みが、ほんの少し変わった。
からかう顔ではない。値踏みでもない。
「あなた、受付向きね」
「受付ですので」
「強いわ」
「面倒な方を、面倒なまま窓口に置きます」
メルが俺を見た。
「嫌な強さね」
「よく言われる」
「私、採用?」
「仮採用だ。三日間。離職相談員補助。相談者へ作用をかける前に、必ずリィナへ確認する。確認せずに一度でもやれば不採用だ」
「厳しい」
「お前の一回は、相手の人生を曲げる」
メルは口を閉じた。
長い沈黙ではない。だが、その沈黙だけ、香りがほとんど消えた。
「曲げてきたわ。仕事だったもの」
「だから、次の仕事では曲げるな。ほどけ」
俺は仮採用通知を出した。
リィナが木ばさみを使わず、普通に手渡す。メルはそれを受け取って、少しだけ目を細めた。
「ほどく仕事」
「離職相談は、絡まった理由をほどく仕事だ」
「恋愛相談みたい」
「違う。最後は求人票へ戻す」
「やっぱり台無しね」
メルは笑った。
今度の笑いは、待合室の魔物たちを浮つかせなかった。
「最初の相談者は?」
「明日来る。工房を半日で辞めたオークだ」
「理由は」
「上司を壁ごと持ち上げた」
「力仕事に向いてるんじゃない?」
「問題はそこではない。上司がまだ壁についている」
リィナが相談票を押さえた。
「明日、まず救助状況の確認からですね」
「そうだ」
「離職相談というより事故報告では」
「両方だ」
メルは仮採用通知を眺め、香りを少しだけ抑えたまま言った。
「前提から変えるの、得意よ?」
「明日は、変える前にリィナを見る」
「はいはい。リィナちゃんを見てから、少しだけほどくわ」
「少しだけ、も確認後だ」
「職安って不自由ね」
「不自由だから、あとで揉めない」
リィナが換気札を元に戻した。
『通常受付』
待合室の空気は、まだ少し甘い。
だが、さっきよりずっと軽かった。
メルは仮採用通知を胸元に挟もうとして、リィナに止められた。
「職場では、通知書は手で持ってください」
「あら、細かい」
「最初の服装規定です」
「受付じゃなくてよかったわね」
「本当にそう思います」
メルは笑い、今度は普通に手で通知書を持った。
面接用紙の最後に、俺は一行だけ追記した。
相談者を曲げるのではなく、絡まりをほどく訓練から開始。
離職相談員補助、仮採用。
その時、受付の外から、甲高い声が飛び込んできた。
「ここに、目立つ仕事を紹介してくれる窓口があると聞いたのだけれど!」
待合室の空気が変わった。
甘いのではない。
重いのでもない。
明るい。騒がしい。少しうるさい。
入口に立っていたのは、羽の透けた小さな妖精だった。
両手で履歴書を抱え、背中の羽をぱたぱた鳴らしている。
メルが仮採用通知を手にしたまま、小さく笑った。
「今度は、勝手に喋る子ね」
「お前は喋るな」
妖精は受付机の上に着地し、胸を張った。
紙より本人の方が軽そうだった。
「私、目立つ仕事がいいわ!」
俺は、受付机の下から騒音注意の札を探した。




