ミノタウロス(前職:迷宮番人)
006 ミノタウロス(前職:迷宮番人)
「前職は?」
「迷宮番人です」
「通路封鎖および危険区域管理経験あり、と」
アーベルが大型履歴書にそう書き込むと、補佐のリィナは玄関と応募者を交互に見た。
大型履歴書。
ミノタウロス用の厚紙である。
普通の紙では指で裂ける。
その厚紙を、バルドという名のミノタウロスは、分厚い指で慎重に押さえていた。片目に古い傷があり、首は丸太のように太い。鼻息だけで机の紙が揺れるが、本人はいたって真面目な顔をしている。
ただし、面接開始までに少し時間がかかった。
玄関の扉の枠いっぱいに、巨大な角が引っかかったからである。
リィナは受付机から身を乗り出し、角の向きを指示していた。
「少し斜めにしてください。いえ、逆です。反対側です」
「反対にすると、壁に刺さります」
「刺さない方向でお願いします」
「努力します」
「努力ではなく、角度で守ってください」
玄関の向こうで、しばらく沈黙があった。
巨大な角が、壁に刺さらない方へゆっくり倒れる。
アーベルは机の上の書類を横へ避けた。椅子を出すか一瞬だけ考えたが、考えるまでもなかった。
「リィナ。面接室は使わない。待合の端でやる。椅子も出すな」
「壊れますものね。床敷きを持ってきます」
リィナは判断が早かった。大型魔物用の厚手の床敷きを広げ、椅子の命を守った。
玄関の向こうで、バルドは慎重に身をかがめる。片角を先に入れ、頭、肩、背中の順に通し、最後にどう見ても扉幅より太い腰がゆっくり入ってきた。
待合の魔物たちが自然に道を開ける。
オークのボルガでさえ一歩引いた。
そしてようやく、冒頭の質問へ戻ったのである。
前職は、迷宮番人。
アーベルはもう一度、その文字を見た。
「担当していた迷宮は」
「第六迷宮、牛頭回廊です。十二年、奥の通路にいました」
「業務内容をまとめて説明しろ」
「迷宮の奥で待ち、侵入者が来たら道を塞ぎます。罠の手前、狭い通路、血溜まりの間へ続く分岐で止めます。斧を構え、必要なら倒します。逃げる者は追い返します」
リィナが渋い顔をした。
「局長。いま、必要なら倒しますとおっしゃいました」
「警備職では過剰対応だ。研修対象にする」
「研修で抜けるんですか」
「抜けなければ配置しない。そこは包まない」
アーベルは履歴書へ職務経歴を書き足していく。
迷宮構造把握。
足音による位置把握。
罠、狭路、危険区域の判別。
通路封鎖経験。
長時間待機耐性。
侵入者対応。
大型装備保持。
リィナが横から覗き込んだ。
「すごくまともな職務経歴になっています。倒しますがなければ、ですが」
「実際、かなり優秀だ。倒しますは研修で抜く」
バルドの耳が、わずかに動いた。
「優秀、ですか」
その声は、玄関を塞いでいた時よりずっと小さかった。
アーベルは履歴書から目を上げる。
「十二年、迷宮の奥を任されていた。奥にいる者がいなければ、迷宮は奥まで来られる。ただ立っていたのではない」
「……そう、ですか」
待合室の端で、ハーピーのフレアが小さく頷いた。上から見る者には、通路を塞ぐ者の価値が少し分かるらしい。
バルドは口を閉じた。大きな体が、少しだけ動かなくなる。
アーベルが牛頭回廊の現状を尋ねると、バルドの大きな手が履歴書の端を押した。
厚紙が、ほんの少しへこむ。
「閉じました。魔王軍解散のあと、人間の斥候が外門まで来ました。少しだけ戦いましたが、入口を守っても、奥にはもう誰もいませんでした」
リィナは羽ペンを止めた。
迷宮番人。
それは、迷宮があるから成り立つ仕事だ。侵入者が来るから立ち、奥があるから塞ぐ。守る奥が消えた番人は、ただ大きな体と斧の扱いだけを持て余す。
バルドは淡々と続けた。
「罠の音も、曲がり角の匂いも、血溜まりの間までの歩数も覚えています。でも、守る奥がありません。最後は、封鎖石を落として、裏道から出ました」
待合室の空気が、少しだけ重くなった。
だが、バルドは泣き言を言っている顔ではなかった。終わった通路を、終わった通りに報告している顔だった。
「逃げたと思っているのか」
「番人が入口を捨てました」
バルドの声は低かった。責めてほしいわけではない。ただ、そう分類するしかない顔だった。
「奥を空にして入口を閉じたなら、撤収だ。守る奥がない通路に立ち続けても、腹は膨れない」
「撤収……腹は、減ります」
その言葉だけ、妙に正直だった。
「なら、次の仕事を探す」
アーベルは黒い羽ペンを持ち直した。
赤では書かない。これは不採用通知ではない。
「道順は覚えていたか」
「全部覚えています。第一分岐から血溜まりの間までなら、目を閉じても歩けます。床石の音で罠の場所も分かります。侵入者の位置は足音と匂いで分かります。迷った者は、足音が遅くなります」
迷子はよく出たらしい。
そして、バルドはそれを案内したことがなかった。
「追い返していました。番人なので」
リィナがアーベルを見た。顔に「まあ、そうでしょうね」と書いてある。
「番人は道を知っている。道を知っている者は、案内もできる」
「……案内」
バルドは、その発想がなかったという顔をした。
リィナも似た顔をしている。
リィナはバルドの角、肩幅、床敷きの沈み具合を順番に見た。
「局長、迷宮番人を案内係にするには、少し圧が強すぎませんか」
「迷子は減る」
「迷子は減るでしょうね。逆走する勇気も一緒に減ります」
アーベルは希望職種欄を見た。
そこには大きな字でこう書かれている。
迷わない仕事。
リィナが声に出さないよう努力していた。努力が顔に出ている。
「迷わない仕事」
「そうです。迷宮の外は、道が多すぎます」
バルドは真剣だった。
「右へ行けと言われたら右へ行けます。左へ行けと言われたら左へ行けます。しかし、広場に出ると道が五つあります。標識もあります。矢印もあります。売店もあります。匂いもします」
「情報量が多いんですね」
「多いです。迷宮は親切でした。道が狭いので」
リィナが額を押さえた。
「迷宮を親切と評価する方、初めて見ました」
「迷宮はいい職場でした。侵入者も、だいたい前から来ました」
「横や後ろから来る場合は」
「怒ります」
「怒るだけで済みましたか」
「済みませんでした」
「だろうな」
アーベルは求人棚を確認した。
配送ではない。警備だけでも惜しい。案内だけだと圧が強い。バルドの適性は、通路を知り、危険を見つけ、必要な時だけ止めることだ。
アーベルは一枚の求人票を抜いた。
「これだ」
リィナが受け取り、読み上げる。
職種:大型区画の通路整理係。
業務内容:搬入経路の確認、通行止め案内、迷子誘導、危険区域前の立哨。
歓迎経験:迷宮勤務、通路把握、長時間待機、危険察知、威圧感。
注意事項:迷子を倒さない。通行者を追い返しすぎない。角で案内板を壊さない。
リィナが最後の行でアーベルを見た。
「角で案内板を壊さない」
「現時点で必要だ」
「玄関で既に適性検査が終わっていますね」
「壊していない。合格だ」
バルドは求人票を両手で持った。紙が小さく見える。
「通路整理係」
「迷う者に道を示す仕事だ。危ない場所へ行こうとする者は止める。荷物が通る時は道を空ける。迷子は案内板まで連れていく」
バルドは少し考え込んだ。
「斧は」
「置いていけ。代わりに『こちらです』と書いた手持ち看板を持て」
「看板で、止まりますか」
待合の魔物たちが、全員無言で頷いた。
バルドはそれに気づき、少しだけ困った顔をした。
「怖がらせたいわけではありません」
「なら声量を落とせ。案内は威圧ではなく、聞こえるだけでいい」
バルドは胸に手を当て、ゆっくり息を吸った。
「こちらです」
床が少し震えた。
リィナは首を振る。
「まだ迷宮の奥です。もう少し入口へ寄せてください」
二度目は、鼻息が少し減った。
三度目で、ようやく待合の紙が揺れなくなる。
「案内所くらいです」
「では、それで」
バルドは真面目に頷いた。
アーベルは仮採用通知を出す。厚紙だ。薄い紙では、本人が緊張しただけで折れる。
「試用期間は三日。初日は大型区画の低速巡回、通行止め看板の持ち方、迷子誘導、角の接触確認だ。通る前に角を確認しろ。迷子に近づきすぎるな。後ろに十二年迷宮の奥にいた番人が立っていたら、普通は逃げる」
バルドは深く頷いた。
理解は早い。問題は、理解したあとにどちらへ進むかだった。
「方向だけが多いです」
「そこは研修だ」
バルドは仮採用通知を見た。太い指が、紙の端を慎重に持っている。
死亡届でも、討伐命令でも、再招集状でもない。
ただの仮採用通知だ。
「私は、これまで道を塞いでいました」
「そうだな」
「最後は、逃がすために塞ぎました」
「なら、塞ぐ意味は分かっている」
「今度は、道を教えるんですね」
「そうなる」
「迷宮の外にも、道を知る仕事があるなら、やってみます」
「その経歴なら、就職可能です」
バルドの鼻息が止まった。
待合室が、一瞬だけ静かになる。本人は泣いていない。泣いていないが、通知書の端を持つ指に、やけに慎重な力が入っていた。
「明日も来いと言われるまでが仕事だ」
「承知しました」
バルドは立ち上がった。
玄関へ向かう。そこで一度止まる。角を斜めにする。反対ではない。壁に刺さらない方だ。
待合の魔物たちが、少しだけ感心した顔をした。
「局長。もう改善しています」
「玄関を壊さなかった。大きな成果だ」
バルドは外へ出る直前、振り返った。
「局長。帰り道は、どちらですか」
リィナが口を押さえた。
アーベルは案内板を指差した。
「まず、案内板を読め」
「情報が多いです」
「そこから研修だ」
「承知しました」
ミノタウロスは、求人票と仮採用通知を持って、案内板の前に立ち続けた。通行人が来るたび、彼は少しだけ体を横へずらし、角が当たらないか確認している。
その横で、次の応募者が自分の順番を待っていた。
宝箱だった。
入口の横に、朝から置かれている。誰かの忘れ物だと思っていたが、よく見ると番号札を挟んでいる。口の位置が採用手続き上とても面倒だ。
リィナが、入口横の宝箱を見て、ゆっくりアーベルへ視線を戻した。
「あの宝箱、応募者ですか。朝からずっといましたよね」
「番号札を持っている。待機能力は高そうだ」
「履歴書、書けますか」
「そこから面接だ」
宝箱が、かたん、と小さく鳴った。
どうやら次も、前職確認から難しい。




