業務報告書 ハーピー(仮採用一日目)
フレアは、採用仮通知を胸に抱えて、空中巡回準備班の詰所に立っていた。
立っている。
飛んでいない。
それだけで、職業安定所のリィナに褒められそうな気がした。
通知書には、太い字でこう書かれている。
配属先:空中巡回準備班。
雇用形態:試用。
業務内容:通路確認、混雑観察、危険箇所報告、避難誘導補助。
初日研修:低空歩行、着地確認、声量調整、室内羽ばたき禁止。
フレアは最後の行を見て、少しだけ翼を縮めた。
室内羽ばたき禁止。
室内こそ、少し浮いた方が早いのに。
「早いから禁止されたんだろうね」
詰所の奥から、かすれた声がした。
出てきたのは、片翼に古い傷を持つ年配のハーピーだった。羽根の色は灰色で、左足には小さな笛を結んでいる。飛べないわけではなさそうだが、無駄に羽ばたかない。
胸の名札には、巡回班長ネイラとあった。
「フレアです。空中伝令兵でした。今日から、急がない飛び方を覚えます」
「自分で言えて偉い。たいていの若いハーピーは、初日に天井へ刺さる」
「刺さったことはあります」
「過去形で済んでいるなら、まだいい」
ネイラは通知書を読み、フレアの翼と足を順番に見た。
「速いね」
「速いです」
「曲がるのもできそうだ」
「できます」
「止まるのは苦手そうだね」
フレアは少し黙った。
「止まれる時もあります」
「今日はそこからだね」
空中巡回準備班の仕事は、空を飛ぶことではなかった。
少なくとも初日は。
フレアはまず、ダンジョンの通路を歩かされた。
地面を踏む。曲がり角の手前で止まる。搬入区画の荷車を避ける。食堂前の列の長さを数える。
天井から見れば一瞬で分かることを、わざわざ歩いて確かめる。
「班長、飛んだ方が早いです」
「早いね。でも、上から見えるものと、下で邪魔になるものは違う。まず踏まれそうな者の目線を覚えな」
フレアは食堂前で足を止めた。
列の中には、スライムのプルムがいた。石の食券を大事そうに掲げ、床にこぼれた栄養液を見ないようにしている。その前には、炭の匂いをさせたゴブリンのガルが並んでいた。後ろでは、搬入見習いのボルガが声量を抑えて「通ります」と練習している。
みんな、地面にいた。
当たり前だが、飛んでいない。
「下って、混んでますね」
「そうだよ。だから上から急に降りると迷惑なんだ」
「私、昨日かなり迷惑でしたか」
「昨日だけだと思う?」
フレアは翼をそっと畳んだ。
最初の仕事は、食堂前の混雑報告だった。
ネイラから渡されたのは、短い巡回メモと炭筆である。飛ぶ許可は出ていない。歩いて、見て、書く。
「食堂前、二十七名。うち大型三名。荷車一台。スライム一体。床注意」
「いいね。スライムを書くのは大事だ」
「床が溶けるからですか」
「滑るからだよ。溶けるのも困るけど」
次は搬入区画。
ボルガが、寝台より大きな食糧棚を二人がかりで運んでいた。歩くたびに床が鳴るが、壁には当てていない。
フレアは上を見た。
天井近くの梁に、古い縄が垂れている。
あの高さなら、ボルガの頭には当たらない。だが、荷物の角が少し高い。
「班長、あの縄、危ないです」
「どれ」
「梁から垂れているやつです。大きい荷物が通ると引っかかります」
ネイラは目を細めた。
「よく見つけたね。報告」
フレアは巡回メモに書いた。
搬入区画、梁の縄が大型荷物に接触する可能性あり。
書き終わる前に、ボルガの荷物が縄へ近づく。
フレアの翼が反射で開いた。
「飛ぶな」
「でも」
「声で止める。今はそれが仕事」
フレアは息を吸った。
戦場なら、叫べばいい。
だが、ここは通路だ。大声を出しすぎると、荷物を持つ者が驚く。
「ボルガさん。右上の縄、荷物に触れます。半歩止まってください」
自分でも驚くほど普通の声が出た。
ボルガは止まった。
荷物も止まった。
壁も床も死んでいない。
「助かる」
ボルガが言った。
フレアは翼を半分だけ広げたまま、固まった。
「班長。今、飛ばなくても間に合いました」
「仕事だね」
「はい。いえ、報告です。仕事でした」
ネイラは口の端を少し上げた。
「その調子。急ぐのは、急がない準備が終わってからだよ」
昼前になって、ようやく低空飛行の許可が出た。
高さは、床から大人二人分まで。
速度は、荷車より少し速い程度。
曲がり角では減速。
着地前に周囲確認。
室内で強く羽ばたかない。
フレアにとって、それは飛行というより罰だった。
全力で羽ばたきたい。煙の上を越えたい。敵の矢が届かない高さまで一気に上がりたい。
だが、今日は天井がある。通路がある。人がいる。荷物がある。
「低いと、全部近いですね」
「そう。だから見えるものが増える」
「高い方が遠くまで見えます」
「低い方が、困っている顔が見える」
フレアは返事をしなかった。
返事の代わりに、ゆっくり羽ばたいた。
食堂前で、小さなインプが泣いていた。
番号札を持っているが、列の最後が分からなくなったらしい。上からなら列は線に見える。だが下では、オークやミノタウロスの影に隠れて、小さい者には見えない場所がある。
フレアは床に降りた。
着地前に周囲確認。
足元、問題なし。
翼、たたむ。
「番号札は?」
「三十四番……」
「今呼ばれているのは二十八番です。列の最後はあっち。食堂の順番券じゃなくて、職安の番号札だから間違えないで」
「ありがとう」
インプは鼻をすすり、列へ向かった。
フレアはしばらくその背中を見ていた。
戦場で運んだ命令書は、誰かを前へ進ませるものだった。
ここで案内した番号札は、誰かを列へ戻すものだった。
どちらも、迷う者へ道を示す。
けれど、あとに残る音が違う。
悲鳴ではなく、ありがとうだった。
夕方、ネイラは詰所で業務報告書を書いた。
フレアは横で羽根を整えている。飛びたくてうずうずしているのは分かるが、今日は天井へ向かわなかった。
「初日としては悪くない。窓から入らなかったし、室内で強く羽ばたかなかった」
「そこから評価ですか」
「お前の場合、そこは大事」
ネイラは報告書に炭筆を走らせた。
【仮採用初日 業務報告】
飛行能力:高い
危険箇所発見能力:高い
声量調整:要継続
着地前確認:改善あり
低空巡回:初回としては可
特記事項:搬入区画の梁縄を発見し、荷物接触を未然に防止
特記事項:迷子のインプを番号列へ誘導
注意点:飛びたくなると翼が先に開く
所見:明日も出勤を許可
書き終えたあと、ネイラは木の勤務証を渡した。
空中巡回見習い。
フレアは両手で受け取った。爪で傷をつけないように、厚紙の下敷きごと持つ。
「飛んでもいい仕事、でした」
「今日はあまり飛んでないけどね」
「でも、上から見る仕事でした。あと、下で困っているものを見る仕事」
「それが分かったなら十分」
食堂へ向かう途中、フレアは天井を見上げた。
少しだけ翼が動いた。
でも、開けない。
床を歩く。
その日の夜、魔物職業安定所に一枚の業務報告書が届いた。
【業務報告書】
配属者:フレア
配属先:空中巡回準備班
雇用形態:試用一日目
担当業務:低空歩行、混雑観察、危険箇所報告、避難誘導補助
良好点:広域視認、危険箇所発見、短距離飛行能力
注意点:声量、着地精度、飛行衝動、室内羽ばたき癖
事故防止:搬入区画の梁縄を発見し、荷物接触を未然防止
誘導実績:迷子のインプを番号列へ誘導
破損物:なし
窓利用:なし
備考:明日も出勤を許可。上から見るだけでなく、下で困っている者を見る訓練を継続




