第九話① 列が伸びる道
乾鐘山の依頼から二日後、南区の冒険者ギルドの掲示板には、新しい追記札が一枚増えていた。
乾鐘山・基礎薬草採取同行および帰路護衛
追記:青冷葉群生地奥に夜蜜蘭らしき群生条件あり。ただし湿地装備なしでの採取非推奨。帰路では荷の揺れ、脱水、追加採取による遅延に注意。
短い文面だった。
けれど、そこにはちゃんと意味がある。
次に乾鐘山へ入る誰かが、夜蜜蘭の甘い匂いに気づいても、何も知らずに湿地へ踏み込むことは減る。
乾毛兎を追って荷を崩す人も、少しは減るかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少しだけ静かになった。
「また増えたね」
シエルが隣で言った。
「はい」
「こういうの、ちゃんと残っていくといいね」
「……そうですね」
俺は頷いた。
旧灰鐘坑道。
旧南導水路。
白靄葦原。
乾鐘山。
どれも大きな武勲じゃない。
けれど、危険の形が言葉になり、次の誰かへ渡されている。
それだけで、俺たちが潜った意味は少し残る。
「レイン」
ミラが掲示板の別の列を見ながら呼んだ。
「はい」
「これ、気になるわ」
彼女が指していたのは、細長い依頼札だった。
狐背尾根・荷箱搬送護衛および道標確認
基本護衛報酬:銀貨五枚
荷箱無傷搬送:追加銀貨二枚
追記事項:細道多し。前後分断、荷崩れ、道標見落としの報告あり。風鳴り烏の群れに注意。
依頼札の端には、黄銅色の小さな鋲が打たれていた。
南区のギルドでは、依頼札の縁や鋲でおおよその扱いが分かる。木札だけなら通常の浅層依頼。黄銅の鋲があれば、危険そのものは浅いが、判断や連携を誤れば中級者の隊でも失敗しうる依頼。赤い封蝋つきなら、実績のある隊か指名がなければ受けられない。
狐背尾根は、その中間だった。
今の俺たちが何の実績もなく選ぶには、少し重い。
けれど、止められるほどではない。
「狐背尾根」
ノアが低く言った。
「嫌な道だな」
「知ってるんですか」
「一度だけ通った。道幅はあるが、曲がり方が悪い。前と後ろの見通しがすぐ切れる」
「狐の背中みたいに細くて曲がってる、ってこと?」
シエルが札を覗き込む。
「たぶん」
ノアは短く答えた。
「名前だけはうまい」
俺は依頼札を見つめた。
前後分断。
荷崩れ。
道標見落とし。
風鳴り烏。
どれも単体では致命的に見えない。
でも、重なると危ない。
細い尾根道で、荷箱を運ぶ。
曲がりが続き、声が届きにくい。
そこへ、人の声や鈴の音に似た鳴き声が混じる。
列が切れる条件は、揃っている。
「どう見る?」
ミラが聞く。
「強敵の依頼ではないと思います」
「じゃあ何が危ない?」
「進む速さが揃わないことです」
ミラが少しだけ眉を上げた。
「速さ?」
「はい。身軽な人間と、荷を持った人間では、同じ道でも進める速さが違います。曲がりの多い尾根なら、一つ角を抜けるだけで姿が見えなくなる。そこで声まで紛らわされたら、互いの位置を見失う」
「前が軽くて、後ろが重い」
シエルが言う。
「そうです」
「それで間が空く」
「はい。その空いたところに、道標の見落としや烏の声が入る」
ノアが腕を組んだ。
「荷を守る依頼なのに、荷が隊列を壊すわけか」
「そういうことです」
「嫌な依頼だな」
「ええ」
ミラは依頼札から目を離さなかった。
「つまり、私が先に行きすぎるってこと?」
「ミラさんが、というより」
俺は言葉を選んだ。
「でも、近いです。ミラさんは前へ出られる人ですし、危ない場所でも一歩目が速い。行ける、と判断してから体が動くまでが短い」
ミラはこちらを見た。
表情は怒っていない。ただ、続きを待っている。
「それは強みです。でも、荷を持った人が同じように通れるとは限りません。足場を見る人、後ろを警戒する人、荷箱を押さえる人。それぞれ、歩幅が違う」
「私が大丈夫でも、後ろが大丈夫とは限らない」
「はい」
「……耳が痛いわね」
ミラは少し困ったように笑った。
「でも、たぶん正しいわ」
言いながら、昔の遠征を思い出していた。
勇者アレスの背中は、いつも速かった。
強く、迷わず、華があった。
けれど、あの背中に全員が同じ速度でついていけたわけではない。
足元を確認する者。
後方を警戒する者。
傷を庇う者。
荷を抱える者。
隊列は、一番前の速さだけでは決まらない。
「レイン?」
ミラの声で、意識が戻る。
「すみません」
「受ける?」
「はい。今の僕たちに必要な依頼だと思います」
「私に?」
「ミラさんだけじゃありません。全員に、です」
ミラはそれで納得したのか、依頼札を剥がした。
受付へ持っていくと、ハロルドが記録机からこちらを見た。
「狐背尾根か」
「僕たちでも受けられますか」
俺が聞くと、ハロルドは依頼札の黄銅鋲を指先で叩いた。
「本来なら、組んで間もない隊には勧めん。だが、お前たちは直近の報告がある。旧灰鐘坑道、旧南導水路、白靄葦原、乾鐘山。どれも大きな依頼じゃないが、帰還率と報告の質は悪くない」
「……なら、黄銅鋲の依頼でも通るんですね」
「そういうことだ」
ハロルドは帳面をめくった。
「荷箱は三つ。中身は硝子薬瓶と乾燥薬材だ。王都南西の小さな施療所へ運ぶ。箱が割れれば追加報酬はなし」
「同行者は?」
「運搬人が二人。力はあるが、尾根道には慣れていない」
「前後分断の報告は、どのあたりで?」
「第二道標の先だ。尾根が三度曲がる。そこで姿が切れる。荷箱を落とした隊が二組。足を踏み外して骨を折った者が一人。さらに三年前には、霧の日に運搬人が一人行方不明になっている」
ハロルドの声は淡々としていた。
でも、目は少しだけこちらを試しているようでもあった。
「風鳴り烏は?」
シエルが聞いた。
「大型ではない。だが鳴き声が厄介だ。人の呼び声や、荷につけた鈴の音に似ることがある」
「嫌なやつ」
「嫌なやつだ」
ノアが短く同意した。
ハロルドは俺たちを順に見た。
「受けるなら、条件がある」
「はい」
「道標の確認と、分断が起きた地点の報告を必ず残せ。無傷で運べば追加報酬。さらに、分断箇所の詳細が使える内容なら記録手当をつける」
「記録手当つきね」
シエルが小さく笑う。
「だんだん、そういう依頼が増えてきたね」
「お前たち向きだろう」
ハロルドは短く言った。
ミラが札を持ち直す。
「受けるわ」
「いいだろう」
依頼を受けたあと、俺たちは荷運び用の小道具を揃えた。
麻紐。
細い鈴。
白墨。
荷箱を固定する布。
そして、短く鳴らせる木笛を二つ。
「笛?」
ミラが手に取る。
「声が風で流される時用です」
「合図を決めるのね」
「はい。短く一回で停止。二回で前進。長く一回で後退」
「後退まで?」
「狐背尾根では、たぶん前に進むより戻る方が難しい」
ノアは頷いた。
「俺は後ろか」
「今日は最後尾をお願いします」
「分かった」
「僕は中央で、荷箱と前後の間隔を見ます。シエルさんは運搬人のそばで、疲れと足元を」
「了解」
「ミラさんは前です。ただし、曲がり角を抜けたら止まってください」
「毎回?」
「毎回です」
「……分かった」
その返事は素直だった。
でも、少しだけ悔しそうにも聞こえた。
ミラは前へ進める人だ。
だからこそ、止まることを覚える必要がある。
狐背尾根へ向かう街道で、俺はそれを改めて思った。
今日の危険は、敵の強さじゃない。
身軽な足と、荷を抱えた足の差だ。
曲がり角一つ。
見えなくなる背中。
風に混じる、紛らわしい鳴き声。
その小さな空白が、荷を落とすかもしれない。依頼の失敗につながるかもしれないし、足を踏み外した誰かが怪我をすることだってある。
俺は木笛を指先で確かめながら、先を歩くミラの背中を見た。
前に進めることと、隊を進ませることは違う。
今日は、その違いを見る依頼になる。




