第九話② 見えなくなる一歩前
狐背尾根は、遠くから見ると低い丘陵にしか見えなかった。
だが近づくにつれて、その嫌らしさが分かってくる。
道は細く、片側は背の低い灌木、もう片側は浅い斜面になっていた。崖というほどではない。だが荷箱を抱えて足を滑らせれば、二、三度転がるだけでも足首や膝を痛めかねない程度の高さはある。
何より、曲がりが多かった。
少し進むと道が右へ曲がる。
その先で左へ戻る。
さらに灌木に隠れて、道の先が見えなくなる。
見通しが悪いのではない。
見えていたはずの前が、急に消える。
現地手前で合流した運搬人は二人だった。
一人は背の高い青年で、名をロイと言った。もう一人は小柄な中年の男で、ダンという。荷運びそのものには慣れているようだが、尾根道の依頼は初めてらしい。
「よろしくお願いします」
ロイが少し硬い声で言う。
「荷箱はこれだけですか」
俺が聞くと、ダンが頷いた。
「三つです。薬瓶の箱が二つ、乾燥薬材が一つ。薬瓶の方は、落としたら終わりですね」
「重さは?」
「重すぎるほどじゃありません。ただ、歩くたびに箱が振られるのが怖いですね」
「怖いのは重さより揺れです」
俺は荷箱を確認した。
木箱の外側には藁が詰められている。固定は悪くない。
だが、持ち手の紐が少し長い。歩くたびに箱が体から離れ、振り子みたいに揺れるだろう。
「最初に短く結び直します」
「今ですか」
ロイが驚いたように言う。
「はい。道に入ってからでは遅いです」
ノアが無言で手伝い、荷箱の揺れを抑えるように紐を通し直した。
乾鐘山で籠を固定した時と似ている。荷物は軽くならない。だが、暴れないようにはできる。
「肩に近づけた」
ノアが言う。
「腕で吊るより、体で持て」
「分かりました」
隊列は、先頭ミラ。次にロイ、シエル、俺、ダン、最後尾ノア。
荷箱を持つ二人を離さず、前後に支えを置く形だ。
「合図を確認します」
俺は木笛を手にした。
「短く一回で停止。二回で前進。長く一回で後退。声が聞こえても、笛と違うなら動かないでください」
「声が聞こえても?」
ダンが眉を寄せる。
「風鳴り烏が、人の声に似た音を出すことがあるそうです」
「それは嫌ですね」
「嫌です。だから合図を決めます」
シエルが小さく笑った。
「レインって、嫌になるほど細かいよね」
「それが役目ですので」
「でも助かってる」
ミラが先頭で振り返る。
「曲がり角のたびに止まる。見えなくなる前に、ね」
「はい」
「分かってる」
狐背尾根へ入る。
尾根の上へ出た瞬間、風の当たり方が変わった。
街道では背中を押す程度だった風が、ここでは横から肩を叩く。強風というほどではない。けれど、荷箱を持った腕にはじわじわ効く。手袋越しに指が冷え、紐を握る力が少しずつ硬くなる。
これは、来てみないと分からない種類の負荷だった。
最初のしばらくは順調だった。
道は狭いが、足場そのものは悪くない。荷箱の揺れも少ない。ミラは曲がり角の先で必ず止まり、後続が見える位置で待った。
そのたびに、俺は少しだけ胸の奥で息を吐く。
前へ進める人が待てる。
それだけで隊列は崩れにくくなる。
第一道標は、低い石に赤い布が巻かれていた。少し緩んでいたが、まだ見える。
「ここまでは問題なし」
俺は第一道標の位置と高さを頭の中に置いた。
低い石。
緩んだ赤布。
荷箱へ視線が落ちた運搬人なら、見落としやすい高さ。
《編録》が、景色をただの風景ではなく、次に使える形へ整えていく。
「道標の高さは?」
シエルが聞く。
「少し低いです。荷箱を見ている人間だと見落としやすい」
「じゃあ帰り、分からなくなる?」
「たぶん。報告に入れます」
さらに進むと、風の音が変わった。
ひゅう、と細く鳴る。
そのあとに、誰かが短く呼んだような音がした。
「……今、誰か」
ロイが足を止めかける。
「そのまま」
俺はすぐに言った。
「声じゃありません」
「でも」
「笛が鳴っていない」
ロイは唇を引き結び、足を進めた。
灌木の奥から、黒い鳥が数羽飛び立った。
風鳴り烏だ。翼は大きくないが、喉元が妙に膨らんでいる。風を受けると、そこから声が漏れる。
人の声に似ている、では足りない。
真似ている。
誰かがこちらを呼ぶ時の、最初の一音だけを切り取って、風に混ぜて流している。
「気持ち悪いね」
シエルが呟く。
「はい」
「でも、決めておいてよかった」
第二道標の手前で、道が急に細くなった。
ここからだ。
空気の流れも変わる。前から後ろへ抜けるのではなく、横から尾根を叩くように吹いている。荷箱を持つ二人の肩が、風に押されてわずかに揺れた。
「間隔を詰めます」
俺は言った。
「ロイさん、ミラさんから三歩以上離れないでください。ダンさんは僕の声が届く位置で」
「はい」
「ノアさん、後ろの斜面を」
「見てる」
ミラが最初の曲がり角を抜けた。
その瞬間、灌木の奥で風鳴り烏が一斉に鳴いた。
「こっちだ」
今度は、はっきり人の声だった。
ロイが一瞬、前ではなく右へ顔を向ける。
荷箱の角が灌木に引っかかり、足が止まった。
前のミラは、すでに曲がり角の向こうだ。
間が伸びる。
それだけで、尾根道の空気が細く張り詰めたように感じた。
俺は笛を短く一回鳴らした。
全員が止まる。
ミラも、曲がり角の向こうからすぐ戻れる位置で踏みとどまった。
「ロイさん、箱を引かない。体ごと戻してください」
「は、はい」
「ミラさん、そのまま見える位置で」
「分かってる」
ロイが荷箱を少し戻し、角を抜く。
シエルがすぐ横で手を添えた。
「大丈夫。今のは声じゃないよ」
「すみません」
「謝るより、次で止まればいい」
いい言い方だった。
俺は第二道標の位置と、灌木に引っかかった箱の角度を頭の中へ刻む。
風鳴り烏の声まね。
荷箱の角が灌木に引っかかる。
前が曲がり角の向こうへ消える。
《編録》が、それらを一つの流れに束ねていく。
まだ事故ではない。
でも、事故になる前の形は見えた。
報告に落とすなら、ここだ。
第二道標先。
声まねと荷箱の引っかかりが、前後分断の起点になる。
さらに先へ進む。
二つ目の曲がり角。
三つ目の細道。
そこで、今度は別の崩れ方が来た。
斜面の下から、小さな石が転がり落ちる音がした。
ダンが反射的に後ろを見た。荷箱の片側が下がる。ノアが即座に手を伸ばし、箱の底を支えた。
「見なくていい」
ノアが低く言う。
「す、すみません」
「俺が確認するから前を見て歩け」
その時、前方で風鳴り烏がまた鳴いた。
「早く」
ミラの声に似ていた。
ロイが前へ急ぎかける。
ダンは焦りから足がもつれる。
前後で動きが割れる。
これが、隊列崩壊の始まりだ。
「停止!」
俺は笛を鳴らし、声も重ねた。
ミラが振り返る。
一瞬ののち、前へと目を向ける。
風鳴り烏が三羽、道の先へ低く飛んでいく。
追えば払える距離だ。
しかもミラなら、すぐに届く。
彼女の足が、半歩だけ前へ出た。
「ミラさん」
俺は名前だけ呼んだ。
それで、彼女は止まった。
細剣の柄に触れた手を離し、息を吐く。
「……今の、いけた」
「はい、ミラさんだけなら行けたと思います」
「危なかった?」
「危ないです。ミラさんだけなら大丈夫ですが、列は切れます」
ミラは小さく頷いた。
「分かった。追わない」
その一言で、列の緊張が少しだけ戻った。
強い人が前へ出ない。
それだけで、後ろは置き去りにならない。
だが、狐背尾根はそれで終わらなかった。
第三道標の手前。
道がいちばん細くなった場所で、風鳴り烏の群れが一斉に飛び立った。
風が鳴る。
鳥が鳴く。
人の声を真似た音が、前と後ろから同時に聞こえる。
「止まれ」
「進め」
「早く」
いくつもの偽物の声が、尾根道に重なった。
ロイとダンの足が、同時に乱れた。
荷箱が傾く。
その角度を見た瞬間、俺は判断した。
「後退!」
長く一回、笛を鳴らした。




