第八話③ 余っている強さ
帰り道に入ると、採取籠の重さは行きとは別物になった。
白蛇舌草、赤結葉、青冷葉。どれも単体では軽い。だが、湿り気を含んだ葉を束ね、籠に詰めれば、それなりの重さになる。しかも山道は下りだ。登りで使った足に、今度は違う負荷がかかる。
「歩幅を小さく」
俺は先頭のミラへ声をかけた。
「下りは無意識に足が速くなります。意識してゆっくり行きましょう」
「了解」
ミラはすぐ歩幅を落とした。深緑の革紐でまとめた髪が、木漏れ日の中で揺れる。
エマは最初、少し焦っていた。たぶん、日が傾き始めたからだ。早く戻りたい。その気持ちが足を前へ出させる。
だが、焦った足は下りで崩れる。
「止まります」
俺は言った。
「まだ歩けます」
エマが反射的に返す。
「歩けるうちに止まるんです」
前にも言った言葉だった。
けれど、こういう言葉は何度でも必要になる。
ノアが何も言わずにエマの背負い籠へ手を伸ばした。
「貸せ」
「え、でも」
「全部は持たん。固定するだけだ」
ノアは買い物の日に受け取った革帯を取り出し、籠と肩紐を結び直した。荷が左右に振れないように締め直す。
エマが数歩歩いてみる。
「あ……さっきより楽です」
「だろうな」
ノアは短く言った。
「籠が揺れると、そのたびに体を支え直すことになる。重さそのものより疲れる」
「そうなんですね」
「荷物は軽くできなくても、暴れないようにはできる」
「すみません」
「謝るところじゃない」
シエルはエマの額に浮いた汗を見て、水袋を差し出した。
「一口」
「でも、残りが」
「残すために飲むの」
シエルは柔らかく言った。
「倒れてから飲んでも遅いから」
「……はい」
シエルの耳元で、雫の耳飾りが小さく揺れる。今日は大きな魔術として使う場面は少ない。けれど、彼女は周囲の湿り気や、人の疲れ方をよく見ていた。
支援というのは、派手な光を出すことだけじゃない。
崩れそうな人間に、崩れる前に気づくこともそうだ。
再び歩き出してしばらくしたところで、斜面の下の草むらが揺れた。
「右、二つ」
俺が言う。
飛び出してきたのは、痩せた山牙犬だった。大きくはない。だが、荷を持った人間には十分危ない。薬草の匂いというより、籠の中の布や携行食に反応したのかもしれない。
ミラが前へ出る。
ただし、踏み込みすぎない。
エマと籠を背に置いたまま、山牙犬だけを前で止める位置だ。
一体目が低く飛びかかる。ミラの細剣が横ではなく、斜め下へ走った。深く裂くのではなく、肩口を切る。飛びかかった勢いのまま地面を転がった山牙犬は、起き上がろうとして数歩もがいたあと動かなくなった。
二体目は回り込もうとしたが、ノアの盾がそれを塞いだ。盾に進路を断たれた山牙犬は低く唸ったものの、肩口を斬られた仲間が地面に転がるのを見ると耳を伏せ、警戒するように後ずさった。
さらに草むらの奥で気配が揺れた。姿は見えないが、こちらを窺っていた個体もいたらしい。だが、ミラとノアが前に立ったまま動かないのを見ると、草を鳴らして斜面の下へ消えていった。
「追うな」
ノアが言う。
「分かってる」
ミラは短く返し、逃げていく山牙犬たちへ視線だけを向けた。荷を守るのが先だ。
周囲を警戒してから、ノアが動かなくなった個体へ近づく。
「牙は使えるな」
短剣で口元を確認し、折れていない牙を手早く回収する。山牙犬の牙は高値ではないが、素材として買い取られる。
「終わったら行くぞ」
「はい」
必要なものだけ回収し、俺たちは再び籠の方へ戻った。
以前の彼女ならどうだっただろう。少しだけ考える。
たぶん、倒しきるためにもう一歩踏み込んだ。強い剣士としては、それが正しい場面もある。だが今日は違う。守るべきものは、敵を全滅させることではない。
薬草を持って、全員で帰ることだ。
「怪我は?」
俺が聞く。
「なし」
ミラが答える。
「エマさんは」
「だ、大丈夫です」
ただ、エマの手は震えていた。
無理もない。
戦うことに慣れていないエマにとっては、戦闘そのものが怖かったのだろう。目の前で魔物が飛び出し、武器が振るわれる光景を見れば、体が強張るのも当然だった。
「籠を一度下ろしてください」
「はい」
「中身を確認します」
白蛇舌草が少し片側へ寄っていた。赤結葉の一束が潰れかけている。俺はエマに目で確認しながら、位置を直した。
「薬効は?」
「大丈夫です。これなら」
「なら、ここで整えた意味があります」
「……はい」
エマは深く息を吸った。
「前回は、ここで急ぎました。獣が出て、怖くなって、早く戻らなきゃって思って。それで籠を落としました」
「今日は走ってません」
「はい」
「なら、前回とは違います」
エマは少しだけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
失敗を責める必要はない。
ただ、前回と違う選択を言葉にできればいい。
山を下りきった時、水袋にはまだ少し水が残っていた。
採取籠の中身も崩れていない。白蛇舌草十二束、赤結葉八束、青冷葉八束。規定量は揃っている。超過分も少しだけあるが、無理な量ではない。エマの足も、疲れてはいるが歩ける。
足りた、ではない。
余っている。
その違いが、俺には大きかった。
南区のギルドへ戻ると、ハロルドが記録机から顔を上げた。
「乾鐘山か。戻ったな」
「はい」
ミラが採取籠を置く。
「白蛇舌草、赤結葉、青冷葉。規定量は足りてるはずよ」
エマが緊張した顔で薬草を並べる。
受付係とハロルドが確認し、やがて頷いた。
「白蛇舌草十二束。赤結葉八束。青冷葉八束。規定量達成だ。混入なし。傷みも少ない」
「本当ですか」
「ああ。前回よりずっといい」
エマの肩から、目に見えて力が抜けた。
ハロルドは俺を見る。
「報告はあるか」
「あります」
「だろうな」
少しだけ笑ったように見えた。
俺は記録札を取り出し、乾鐘山の簡略図と一緒に説明した。
「第一採取地は白蛇舌草。ただし斑蛇舌草が混じります。焦ると誤認しやすい。第二採取地の赤結葉は足場が比較的安定していますが、籠の重さが増え始める。第三採取地の青冷葉付近で乾毛兎が飛び出しました」
「乾毛兎まで書くのか」
ハロルドが言う。
「はい。危険な魔物ではありません。でも、驚いて籠を傾ける原因になります。毛皮の価値があるので、追おうとして足場を崩す可能性もある」
「なるほど」
俺はさらに続けた。
「青冷葉の奥に、夜蜜蘭の群生条件に合う湿地があります。甘い匂いと、青紫の花影を確認しました。ただし手前が沼地で、足場確認なし。今日の装備では採取非推奨です」
「夜蜜蘭か」
ハロルドの目が細くなる。
「採らなかったんだな」
「はい」
「理由は」
「今日の目的が基礎薬草の採取だったからです。夜蜜蘭を狙うなら、湿地用の装備、腰縄、時間の余裕が必要です。帰路で崩れる条件が揃っていました」
「……なるほど」
ハロルドは羽根ペンを走らせる。
「夜蜜蘭らしき群生条件あり。ただし準備なしでの採取非推奨、か」
「はい。目的にするなら、最初からそのための準備で行くべきです」
横でエマが小さく口を開いた。
「私、たぶん一人だったら探しに行ってました」
「……」
「次こそ失敗したくなくて。ちゃんと採れるって見せたくて。だから、匂いに気づいた時、行かなきゃって思いました」
「今日は戻れました」
俺は言った。
「それが一番です」
エマはしばらく黙ったあと、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
その言葉に、俺は少しだけ返事に困った。
俺がやったのは、何かを倒したことではない。
ただ、行かない方を選んだだけだ。
休ませて、水を飲ませて、荷を整えて、欲を切っただけ。
それでも、たぶん今日はそれが必要だった。
依頼達成の印が押される。
基本護衛報酬として銀貨四枚。規定納品達成で追加の銀貨三枚。品質が良かったことと、夜蜜蘭の採取候補地を記録したことで、記録手当としてさらに銀貨一枚。
報酬袋の中で、硬貨が静かに鳴った。
ギルドの隅から、誰かの声が聞こえた。
「乾鐘山も無傷か」
「薬草採取で記録手当って珍しいな」
「《灯火の羅針盤》、また崩れなかったらしいぞ」
また、という言葉が少しだけ胸に残った。
ギルドを出ると、夕方の空は淡く赤かった。
「今日の依頼、好きかも」
シエルが言った。
「地味だったけどね」
「地味だからです」
俺は答える。
「地味な失敗ほど、繰り返される」
「小さく削れるやつだな」
ノアが言う。
「はい」
「水が余ったのも、良かった」
ミラが続けた。
「足りたんじゃなくて、余った。あれ、なんか安心するわね」
「余ってるなら、途中で無理をしていない証拠です」
俺は言った。
「補給も、体力も、判断も。ぎりぎりで帰るのは成功じゃなくて、次に崩れる予兆かもしれない」
ミラは少しだけこちらを見て、頷いた。
「次もそれで行きましょう」
「それ、とは」
「勝ち方より、崩れないやり方」
「……はい」
乾鐘山の奥で感じた夜蜜蘭の甘い匂いが、まだ記憶に残っている。
あれは、いつか採りに行くかもしれない。
けれど今日は違った。
取れるものを全部取るのではなく、持ち帰れるものだけを持ち帰る。
その判断ができるなら、次が残る。
敗因は、戦場の真ん中にだけあるわけじゃない。
喉が渇く前の一口。
籠が揺れる前の結び直し。
欲を出す前の一歩停止。
帰れるうちに帰るという、当たり前の判断。
そういう小さなものを拾い上げて、俺たちはまた一つ、崩れずに帰ってきた。
大勝ちではない。
でも、失敗を武器にするには、たぶんこういう一日こそ必要なのだと思う。




