第八話② 欲を出す場所
乾鐘山は、王都の南西にある低い山だった。
山といっても、《黒冠の大迷宮》のように人を呑み込む巨大な脅威ではない。麓には薬草師や採取人が使う細い道があり、ところどころに古い目印の布が結ばれている。木々も深すぎず、朝の光が斜めに差し込んで、足元の草までよく見えた。
だからこそ、油断しやすい場所だった。
現地手前の小屋で合流した薬師見習いのエマは、十五、六ほどの少女だった。茶色の髪を布でまとめ、背負い籠と小さな鎌を持っている。緊張しているのが、手元の動きで分かった。
「薬師組合のエマです。今日はよろしくお願いします」
そう言って、彼女は深く頭を下げた。
「前回、帰りに籠を落としてしまって……」
「前回は、どこで崩れましたか」
俺が聞くと、エマは少しだけ顔を強張らせた。
「青冷葉を採ったあとです。戻る時に、足がもつれて」
「道を間違えたわけじゃないんですね」
「はい。急いでいたんだと思います」
それなら十分だった。
原因は道そのものじゃない。
帰り方の方にある。
「なら今日は、急がない形にします」
「急がない形?」
「はい。前回と同じ採取地へ入っても、戻り方を変えれば崩れ方は変わります」
エマは一瞬きょとんとして、それから小さく頷いた。
「……はい」
まず、水袋を確認する。
エマの水袋は一本。量は多くない。普段の採取なら足りるのだろう。だが、荷を持って戻るには少し心もとない。
「今日は休憩ごとに残量を見ます」
「そんなに細かく、ですか」
「はい」
「喉が渇いたら飲む、では駄目ですか」
「喉が渇いたと感じた時には、もう少し遅いことがあります」
エマは戸惑った顔をしたが、すぐに頷いた。
悪くない反応だった。
不満より先に、受け取ろうとしている。
「採取対象は三つです」
シエルが隣で確認する。
「白蛇舌草、赤結葉、青冷葉」
「はい。白蛇舌草は根元に近い若葉を束で。赤結葉は外側の成熟葉を束で。青冷葉は末端の若葉を傷めないように採ります」
「詳しいですね」
俺が言うと、エマは少しだけ頬を緩めた。
「それが仕事なので」
その顔は、少し誇らしそうだった。
この依頼を成功させたいのだ。
ただ依頼をこなすだけではなく、ちゃんと見習いとして認められたい。
だからこそ、危ない。
認められたい気持ちは、人を少しだけ奥へ進ませる。
採取道へ入る前に、俺は全員へ告げた。
「今日の決まりを三つ。規定量を満たした後は、籠の重さで判断する。休憩は俺が止めた時点で入れる。日が傾く前に、どれだけ残っていても戻る」
「規定量を満たした後……」
エマが少しだけ迷う。
「でも、超過分の買い取りもあります。せっかくなら多めに持ち帰った方が、組合にも」
「買い取ってもらえるのは、きれいに持ち帰れた分だけです」
俺は答えた。
「潰れた葉や、混じった薬草は買い取りどころか、選別の手間になります」
「……そうですね」
「だから今日は、量より状態を優先します」
ノアが短く笑った。
「お前らしい」
「そうですか」
「ああ。面倒だが正しい」
山道を登り始める。
最初の採取地は、半日陰の斜面だった。湿り気のある土に、白い筋の入った細葉が群れている。葉先が蛇の舌のように二股に割れているものだけを、エマが丁寧に摘んでいく。
「白蛇舌草です」
エマが言う。
「根ごと抜かないのね」
ミラが尋ねる。
「はい。若葉だけです。根ごと抜くと、来年減ってしまうので」
「なるほど」
ミラは感心したように頷いた。
俺は周囲を見ていた。
白蛇舌草の群生。斜面の角度。土の湿り。採取中の姿勢。
エマは草を見る時、足元への意識が少し落ちる。悪いことじゃない。薬草師としては当然だ。だが護衛側がそれを分かっていないと、採取人だけが置いていかれる。
「少し右へ」
俺が言うと、ミラがすぐ反応した。
「足場?」
「はい。そこ、土が浮いてます」
ミラは立ち位置を変えた。
ノアは背後で道を塞がない位置に立ち、シエルはエマの手元を覗き込んでいる。
「似た草もあるね」
シエルが言った。
「これは?」
「斑蛇舌草です」
エマが答える。
「葉先は似ていますが、白い筋が途中で途切れています。混じると調合が駄目になります」
「焦ると間違えそう」
「はい。前に、それで怒られました」
エマは少し苦笑した。
失敗を口にできるのは、悪くない。
隠されるより、ずっといい。
最初の採取は順調だった。
次の場所では赤結葉を採った。丸く厚い葉に、赤い葉脈が走っている。潰すと粘りのある汁が出るらしい。ミラは興味深そうに見ていたが、剣士として止血用の素材に思うところがあるのだろう。
「これ、現場でそのまま使えるの?」
「応急なら」
エマが答える。
「でも調合した方が効きます」
「覚えておくわ」
そのあと、俺は予定より早く休憩を入れた。
「まだ大丈夫です」
エマが言う。
「大丈夫なうちに止まります」
「でも、時間が」
「ここで一口飲んだ方が、帰りが早いです」
シエルが耳飾りに触れながら、小さく笑った。
「レインは、こういうところ本当にきっちりしてるね」
「褒めてますか」
「半分くらい。半分は、すごいなあって思ってる」
「残り半分は?」
「ちょっと細かいなあって」
「それが仕事なので」
「知ってる」
水を一口ずつ。
荷の位置を変える。
籠の中身を左右に寄せすぎない。
それだけで、再出発した時の足取りは明らかに軽くなった。
青冷葉の群生地は、少し奥にあった。
木陰が深くなり、空気も冷える。葉は青みがかっていて、日陰では思ったより見分けやすい。ここまで来ても、予定より消耗は少なかった。
採取を始めた直後、岩陰から小さな影が跳ねた。
「きゃっ」
エマが反射的に身を引く。籠が傾きかけた。
「動かないで」
俺はすぐに言った。
草の間を、灰色の小さな獣が駆け抜ける。乾毛兎だ。耳が短く、岩場の色に紛れる。魔物というほどではない。だが、毛皮が思ったより高く売れるせいで、見かけるとつい欲が出る。
ミラは剣に手をかけたが、抜かなかった。
「追わなくていいのね」
「はい。追う理由がありません」
「毛皮は、結構いい値になるんですよね」
エマの言葉に、シエルが少しだけ名残惜しそうに続ける。
「それでも?」
「それでもです」
俺ははっきり答えた。
「ここで走れば足場を乱す。息が上がる。水も余計に減る。今日持って帰るべきなのは乾毛兎じゃなく、規定量の薬草です」
「……たしかに」
シエルは素直に頷いた。
エマも少し遅れて、同じように頷く。
乾毛兎は二度ほど岩場を跳ね、すぐに藪の奥へ消えた。
「前回も、似たようなことがありました」
エマがぽつりと言った。
「兎ですか」
「はい。あの時は、驚いて追い払おうとして……そのあと、少し急ぎました」
「今日は急いでいません」
「……はい」
俺は籠の中を確認した。
白蛇舌草が少し片側に寄っている。赤結葉の束が一つ潰れかけていた。大きな傷みではない。今直せば問題はない。
「ここで整えます」
「今ですか」
「今です。帰りにまとめて直そうとすると、たぶん遅い」
エマは素直に頷いた。
採取を再開してしばらくすると、エマがふと鼻を上げた。
「……甘い匂い」
「何の?」
シエルが聞く。
「夜蜜蘭かもしれません」
その名前に、シエルの表情が少し変わった。
「夜蜜蘭って、魔力消耗の回復薬に使うやつだよね」
「はい。珍しいです。暗くて湿った場所を好むので、乾鐘山だと見つかればかなり貴重で」
エマは斜面の奥を見た。
青冷葉の群生地のさらに先。木々の根元が落ち込み、黒っぽい湿地になっている。水面は草に隠れて見えにくいが、足を踏み入れれば沈むのは分かった。向こう側の岩陰に、青紫の小さな花影が一瞬だけ見えたような気もする。
近く見える。
だが、直線では行けない。
手前の地面はぬかるみ、足跡もない。迂回するなら時間がかかる。腰縄も長靴も、湿地用の板もない。今の装備は、基礎薬草の採取と帰路護衛のためのものだ。
夜蜜蘭を採るための準備ではない。
「行きません」
俺は言った。
エマがこちらを見る。
「でも、あれは」
「今日の依頼対象ではありません」
「少し探すだけでも」
「探し始めたら、少しでは終わりません」
声が硬くなったのが、自分でも分かった。
ミラは何も言わなかった。
ただ、こちらの判断を待っている。
「夜蜜蘭は、暗く湿った場所に出る。今の湿地は条件に合っています。だから、探せば見つかる可能性はあります」
俺は続けた。
「でも、それは次に来る理由であって、今ここで入る理由じゃありません」
エマは唇を噛んだ。
「……もし採れたら、前回の失敗も少しは取り返せるかもしれないって、思いました」
小さな声だった。
それは当然だ。目の前に価値がある。自分の腕を証明できるかもしれないものがある。採りたいと思う方が自然だ。
でも、自然な欲が人を殺すこともある。
「夜蜜蘭は、帰り道を短くしません。籠を軽くもしません。日没を遅らせてもくれません」
俺は言った。
「今行けば、採取成功ではなく、帰路の失敗になります」
しばらくして、エマは小さく息を吐いた。
「……分かりました」
「記録には残します」
俺は言った。
「匂い、湿地、花影、場所。次に、夜蜜蘭を目的にした準備で来ればいい」
「次に?」
「はい。今日は違う」
その言葉に、エマの表情がほんの少し変わった。
諦めろ、ではない。
準備して次にしろ。
その違いが伝わったのかもしれない。
「戻りましょう」
ミラが言った。
「日が傾く前に」
規定量は揃った。籠はまだ持てる重さだ。水も残っている。
だが本当に難しいのは、ここからだった。




