第八話① 採れることと持って帰れること
《灯火の羅針盤》と名乗るようになってから、少しだけ日が経った。
白靄葦原の依頼を終え、休みの日も一度挟んで、俺たちはまた南区の冒険者ギルドにいた。
朝の掲示板は相変わらず混んでいる。依頼札を読む探索者、横から報酬額だけを覗き込む者、受付へ急ぐ者。革鎧の擦れる音と、木札が揺れる乾いた音が混ざり、いつもの南区の朝ができあがっていた。
ただ、少しだけ変わったこともある。
「……見られてるね」
シエルが小さく言った。
確かに、掲示板の前に立つ俺たちへ向けられる視線は、以前より増えていた。露骨ではない。だが、旧灰鐘坑道、旧南導水路、白靄葦原と、何度か無傷に近い形で依頼を終えたせいだろう。
《灯火の羅針盤》。
その名前が、ようやく少しだけギルドの中で意味を持ち始めている。
「良い意味ならいいけど」
シエルが続ける。
「良い意味だけじゃないでしょうね」
ミラは掲示板から目を離さずに言った。
「怪我をしない隊っていうのは、頼もしいけど、面倒そうにも見えるもの」
「面倒でいい」
ノアが短く言う。
「雑に死ぬよりましだ」
「ノアらしいね」
「事実だ」
俺は二人のやり取りを聞きながら、掲示板を見上げた。
魔物討伐、荷運び護衛、浅層巡回。札はいくつもある。だが、今の俺たちが選ぶべきものは、派手な討伐ではない。
崩れないやり方を、ひとつずつ確かめる。
その中で、目に留まった札があった。
乾鐘山・基礎薬草採取同行および帰路護衛
基本護衛報酬:銀貨四枚
規定納品達成:追加銀貨三枚
採取対象:白蛇舌草十二束、赤結葉八束、青冷葉八束
追記事項:帰路での脱水、脚負傷、採取籠の落下報告あり。日没前帰還推奨。超過採取分は薬師組合が別途買い取り。
俺は、その札の前で足を止めた。
「これです」
「早いわね」
ミラが横から覗き込む。
「薬草採取?」
「はい」
「魔物は?」
「書かれていません。少なくとも、主な危険は魔物じゃない」
シエルが札の文字を目で追う。
「白蛇舌草、赤結葉、青冷葉……基本薬草だね」
「知ってるんですか」
「調合の授業で習うよ。白蛇舌草は毒消し、赤結葉は止血、青冷葉は熱冷まし。どれも珍しくはないけど、雑に採ると使い物にならない」
「なら余計に向いています」
俺は答えた。
ミラが少し首を傾げる。
「珍しくない薬草なら、難しくないんじゃない?」
「採るだけなら、です」
「持って帰る方?」
「はい」
俺は追記事項を指で示した。
「帰路での脱水、脚負傷、採取籠の落下。これは魔物に襲われた報告じゃありません。採ったあとに崩れてる」
「採ったあと……」
シエルが呟く。
「白靄葦原の時と少し似てるね」
「似ています。ただ、今回は視界不良じゃない。荷重と疲労です」
ノアが腕を組んだ。
「採取籠が重くなって、帰りの足が鈍る。水も減ってる。下りで膝がぶれる。そこへ急げば落とす」
「たぶん」
俺は頷いた。
「しかも薬草採取は、もう少し採れる、あと少し奥へ行ける、と思いやすい。採れることと、持ち帰れることは違うのに」
言いながら、俺は少しだけ胸の奥が冷えるのを感じていた。
勇者遠征隊でも、似た失敗は何度もあった。
行ける、と判断した時にはまだ足りていても、帰りの分はいつも行きより重い。
疲労。荷物。怪我。焦り。
その全部が、戻る道で一気に噛みついてくる。
「レイン?」
ミラの声で、意識が戻る。
「すみません」
「受ける?」
「はい。今の僕たちに合っています」
ミラは迷わず札を剥がした。
「じゃあ決まりね」
「薬草採取で、基本が銀貨四枚。達成で追加三枚か」
ノアが言う。
「軽い依頼に見えるが、少し高い」
「途中で戻る隊が多いのかもしれません」
俺は答える。
「あるいは、納品物の傷みが多い」
「またそういう依頼か」
「またそういう依頼です」
「嫌いじゃない」
受付へ行くと、ちょうどハロルドが奥の記録机から顔を上げた。命名の時に隊名を書き留めた時と同じ、鋭い目つきだった。
「乾鐘山か」
「何かありますか」
俺が聞くと、ハロルドは短く頷いた。
「重傷者は出ていない。だが、同じような軽傷が続いている。水切れ、捻挫、籠の落下。あとは、採取対象の混入だ」
「誤認ですか」
「白蛇舌草に斑蛇舌草を混ぜて戻る者がいる。薬師から苦情が来た」
シエルが小さく眉を寄せる。
「白蛇舌草なら、葉先が二股で、白い筋が根元まで通ってるやつですよね」
「そうだ」
ハロルドが言う。
「だが焦ると間違える。特に帰り際に追加で採ろうとしたものが混じる」
「帰り際の追加採取……」
俺は小さく繰り返した。
形が見えてきた。
行きで採る。籠が重くなる。水が減る。帰りにまだ足りない気がして、近くの似た草を雑に摘む。そこで混入するか、足を滑らせる。
失敗は、たぶん一つじゃない。
いくつもの小さな油断が、帰路で重なる。
「同行する採取役は?」
「薬師組合の見習いが一人。名はエマだ」
「前にも入っているんですか」
「ああ。前回は帰りで籠を落として、納品をかなり駄目にした。だから今回は護衛付きの立て直しだ」
その説明で十分だった。
誰かが雑だったわけじゃない。
たぶん、少しだけ足りない判断が何度も重なった。
「分かりました」
俺は頷く。
「受けます」
受付を離れると、ミラがこちらを見る。
「準備は?」
「水を多めに。縄を一本。採取籠は空のうちから持ち方を確認します。それと、今日は最初に上限を決めます」
「上限?」
「最低納品量は白蛇舌草十二束、赤結葉八束、青冷葉八束。超過分の買い取りはありますが、持ち帰れない量を採っても意味がない。だから籠の重さで止めます」
「採れるだけ採らないの?」
シエルが聞く。
「採れるだけ採ると、持って帰れないことがあります」
「なるほど」
ノアが短く言う。
「今日の敵は、欲だな」
「かなり近いです」
ミラが深緑の革紐で髪を結び直した。買い物の日に俺が贈ったものだ。本人は何でもない顔をしているが、使ってくれているのを見ると、少しだけ落ち着かなくなる。
シエルの耳元では、小さな雫の耳飾りが揺れていた。ノアの荷には、新しい革帯がきっちり巻かれている。
どれも小さな変化だ。
けれど、その小ささが今の四人にはよく似合っていた。
「行きましょう」
ミラが言う。
「乾鐘山へ」
ギルドの扉を出ると、朝の空はよく晴れていた。
雨の気配はない。霧もない。
視界は良く、道も分かりやすい。
だからこそ、今日の危険は見えにくい。
俺は水袋の数をもう一度確かめながら、乾いた風の吹く方角を見た。
採れるかどうかじゃない。
持ち帰れるかどうかだ。
それを間違えた時、人はたぶん、強敵のいない場所でも崩れる。
更新まで間が空いてしまい、申し訳ありません。
それでも読みに来てくださり、本当にありがとうございます。
ここからまた更新していけたらと思っています。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。




