第七話③ 崩れなかった、という評価
白靄葦原の見回りは、昼前には終わった。
道標は三本とも立て直した。湿地犬は四体。採取道から大きく外れた足跡も一つ記録した。派手な成果ではない。だが、軽傷者も迷い込みも出さずに終えられたことの方が大きかった。
帰り道、霧は行きより濃くなっていた。
けれど朝に比べると、不思議なくらい慌てなかった。
「前進」
ミラ。
「いる」
俺。
「いる」
シエル。
「いる」
ノア。
短いやり取りだけで、誰も見失わない。
道標も、今はどこを見るべきか分かっている。
視界が悪いこと自体は変わらない。だが、崩れ方が分かると怖さの形も変わる。
南区へ戻って報告書を出すと、ハロルドは記録札ごと受け取って目を通した。
「第二道標の左逸れ、か」
「はい。霧で人影を見間違えやすい。左は風下で、見えやすい方へ寄ると道を外します」
「ほかは?」
「影より、水はねの間隔を見た方がいいです」
俺は答えた。
「人なら歩幅がある。湿地犬は低くて速い。道標は動かない。視界が悪い時ほど、影より先に音と足元を見た方が崩れにくい」
「……なるほどな」
ハロルドは羽根ペンを走らせ、報告の要点を短く整理していく。
その横で、受付にいた別の探索者がぼそりと呟いた。
「また怪我なし?」
「白靄葦原で?」
「《灯火の羅針盤》だろ」
声は小さい。
でも、聞こえた。
「異様に事故率低いな」
別の誰かが言う。
「強いっていうより、崩れてないんだよ」
「そっちの方が凄いんじゃないか」
その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
強いより、崩れていない。
たぶん今の俺たちには、その方がずっと正しい。
「報告は反映しておく」
ハロルドが言う。
「次から同じところで迷うやつは減るはずだ」
「お願いします」
「それと」
ハロルドは俺たちを見た。
「お前たちの名前、早くも仕事し始めてるな」
「名前が?」
シエルが聞く。
「灯火の方も、羅針盤の方もだ」
そう言って、ハロルドは珍しく少しだけ口元を緩めた。
ギルドを出たあと、ミラが軽く肩を回した。
「悪くなかったわね」
「ええ」
俺は頷いた。
「怪我がなかったのが大きい」
「しかも、危ないところが最初から見えてた」
ノアが言う。
「白靄葦原、前ならたぶん誰かが影に釣られてたぞ」
「だから最初に言ったんです。見えたものを、最初から敵だと思わないでくださいって」
「正解だった」
シエルは少しだけ得意そうに言った。
「霧の落とし方も、悪くなかったでしょ」
「はい。かなり助かりました」
「でしょ?」
「ちょっと誇らしそうですね」
「だって、嬉しいし」
ミラはそんな二人を見ながら、ふっと息を吐いた。
「次もこれで行きましょう」
「何をです」
「勝つことより先に、崩れないこと」
「……はい」
俺は答えた。
「その方が、たぶん長く勝てます」
南区の空は、昼を回って少しだけ白く霞んでいた。
派手な一勝じゃない。
大物を倒したわけでもない。
でも、今日の依頼には確かな手応えがあった。
敗因は、知っているだけじゃ意味がない。
言葉にして、手順にして、次の動きへ落とし込んで、初めて武器になる。
《灯火の羅針盤》として受けた最初の依頼で、俺はそれを少しだけ実感していた。
勝った、という実感はまだ薄い。
でも、崩れなかった。
今の俺たちには、たぶんそれで十分だった




