第七話② 見えた影を信じない
白靄葦原は、その名の通り白かった。
水面から立ちのぼる朝靄が、背の低い葦の群れのあいだにたまり、地面すれすれを滑るように流れている。空はまだ明るい。だが視界の下半分だけが曇っていて、少し離れた道標の足元がもう曖昧だった。
足場は悪くない。
少なくとも旧南導水路よりはずっとましだ。
それでも危ないのは、見え方の方だった。
「まず隊列を詰めます」
俺は採取道の入口で言った。
「開けた場所ですけど、今日は広く取らない。前からミラさん、僕、シエルさん、ノアさんで」
「俺が最後尾?」
ノアが眉を上げる。
「ええ。視界不良で怖いのは、先頭が見えなくなることより、後ろが勝手に遅れることです。ノアさんなら詰められる」
「なるほど」
「それと、五歩ごとに短く声を出してください。無駄話じゃなくていい。いる、前進、止まるで十分です」
「返事がない時は?」
シエルが聞く。
「動かないでください。見えないまま探しに行くのが一番危ない」
白靄葦原で軽傷が続いている理由は、おそらくそれだ。
足を滑らせる。影を敵だと思う。誰かを見失う。焦って寄る。視界の外で進路がずれる。
たぶん、どれも大きな失敗じゃない。
だから何度も起きる。
「レイン」
ミラが言う。
「はい」
「今日はどこを見てるの」
「足音と、水はねの間隔です」
「影じゃなくて?」
「影は嘘をつきます」
ミラはそれだけで、もう何も聞かなかった。
採取道は、土を盛って作られた細い道だった。左右は浅い水溜まりになっていて、一見すると危険は少ない。けれど霧が濃くなると、水面の反射と葦の揺れで、何でも動いて見える。
「前進」
ミラが言う。
「いる」
俺が返す。
「いる」
シエル。
「いる」
ノア。
その短いやり取りだけで、隊の位置がはっきりした。
最初の道標は、少し傾いていた。
足元の杭が緩み、白布の目印が泥で汚れている。
「これか」
ミラが言う。
「これです。ここで目印を見失うと、戻りで左へ外れやすい」
「左?」
シエルが聞く。
「風下だから霧が流れる。人は見えやすい方へ寄ります。でもそっちは踏み固められていない」
「つまり、道じゃないのに道っぽく見える?」
「そうです」
ノアが手袋を握り直した。
「嫌な崩れ方だな」
「でも、嫌な崩れ方は覚えやすいです」
道標を立て直し、さらに進む。
少し歩いたところで、霧の向こうに人影みたいなものが揺れた。
背の高さ。立ち止まり方。肩のような輪郭。
一瞬だけ、人に見える。
ミラの肩がわずかに前へ出た。
「待って」
俺はすぐに言った。
全員が止まる。
「人じゃない?」
シエルが小声で聞く。
「たぶん、違います」
「どうして」
「動いてないからです」
俺は目を細めた。
影は揺れている。でもそれは霧と葦が揺らしているだけだ。水音がしない。呼吸の気配もない。高さも、人の肩より少しだけ低い。
「道標です。布が裂けてる」
「……分かる?」
ミラが聞く。
「たぶん」
近づいてみると、やはりそうだった。
杭の上の白布が半分千切れ、霧の中で人影みたいに見えていただけだ。
「うわ」
シエルが息を吐く。
「これ、見間違えるね」
「見間違えます」
俺は頷いた。
「しかも敵だと思って突っ込むと、隊列がずれる」
そこで、今度は左の浅瀬から低い水音が三つ続いた。
ちゃ、ちゃ、ちゃ。
影より先に、そっちが気になった。
「来ます」
「どっち」
「左の浅瀬。三体」
言い終わるより早く、葦の根元から黒い影が飛び出した。
湿地犬だ。大きくはないが、低い姿勢で滑るように来るせいで視界の下から入り込む。
ミラが動くより先に、ノアが前へ出た。
盾が低く鳴る。
一体目を正面で受け、その跳ね返りで二体目の軌道もずらす。湿った足場でも重心がぶれない。
「右、抜ける!」
俺が言う。
ミラの細剣が一度だけ走る。
広く払わない。低く入り込んだ個体の首筋だけを、最短距離で裂く。残る一体はノアの短槌が横から叩き、浅瀬へ転がした。
「シエルさん、霧を下げて」
「やる!」
シエルが杖先を傾ける。
周囲の白靄がすっと低く引き、地面すれすれに薄く流れる。霧そのものを消したわけじゃない。だが、膝より下の輪郭だけが少し見えやすくなった。
「そこ!」
俺が指した先、水面にもう一つ影が走る。
遅れていた四体目だ。
ミラが半歩だけ踏み込み、今度はためらわずに突き込んだ。湿地犬はその場で崩れ、浅い水に伏せる。
静かになる。
「今の、助かりました」
俺が言うと、シエルは少しだけ肩をすくめた。
「こういうのなら、たぶん得意」
「十分です」
第二の道標は、杭ごと倒れていた。
しかも、そこから左へ浅い足跡がいくつか伸びている。
「採取人ですね」
俺がしゃがみ込んで言う。
「戻れたのかな」
シエルが言う。
「戻れていればいいです。でも、この跡の付き方は焦ってる」
「何で分かる」
ノアが聞く。
「間隔が狭い。歩幅が崩れてる」
その先まで追う必要はない。
でも、報告には残すべきだ。
俺は外套の内側から小さな記録札を出し、短く書きつけた。
第二道標付近、左側へ逸脱跡あり。霧濃時、人影誤認の可能性。
そういう小さな文字が、次の怪我を減らす。
今はもう、それを迷わず信じられた。
更新まで間が空いてしまい、申し訳ありません。
お待ちくださった皆様、ありがとうございます。




