第七話① 名のついた朝
《灯火の羅針盤》という名前がついてから、初めての朝だった。
南区の冒険者ギルドは相変わらず騒がしい。掲示板の前には探索者が群がり、受付の前には依頼達成の列ができている。革鎧の擦れる音、金具の触れ合う硬い音、朝の冷えた空気に混ざる獣脂と鉄の匂い。昨日までと同じはずなのに、俺には少しだけ違って見えた。
前より視線の行き先が揃っている。
俺たちは四人で入って、四人で掲示板の前に立っていた。
「……あ」
シエルが小さく声を漏らした。
視線の先、依頼受諾済みの札を戻すための名簿板に、見慣れない名前が一つ増えていた。
《灯火の羅針盤》
昨日、紙の上で見たばかりの文字だ。
それが今日は、ギルドの木板にもう並んでいる。
「本当に書かれるんですね」
思わず口にすると、ミラが笑った。
「昨日登録したんだから、そりゃそうでしょ」
「でも、実際に見ると少し違います」
「分かる」
シエルが頷く。
「なんか、じわっとくるよね」
「大げさだ」
ノアはそう言ったが、いつもより少しだけ長く名簿板を見ていた。
掲示板の前では、もう何人かがこちらに気づいていた。
「……あれだろ、灰鐘坑道の」
「南導水路もやったって聞いた」
「《灯火の羅針盤》か」
まだ小声だ。
でも、名前で呼ばれるだけで少し落ち着かない。
「レイン」
ミラが札の列を見ながら言う。
「はい」
「今日は、うちの手に合う依頼を取りたいわ」
「うちの手に合う、ですか」
「ええ。大物狩りとか、見栄えのするやつじゃなくていい」
ミラは札の列から目を離さずに言った。
「今の四人で、何をどう潰せるか。それがちゃんと出る依頼がいい」
その言い方に、俺は少しだけ頷いた。
旧灰鐘坑道では崩れかけたところを止めた。
旧南導水路では、崩れる形そのものを先に読んで潰した。
だから次に必要なのは、同じことを別の場所でもやれると確かめることだ。
「派手じゃなくていいんですね」
「むしろ派手じゃない方がいい」
ノアが言う。
「崩れ方が見やすい」
「それに、いきなり大きい依頼へ行ってもたぶん面倒」
シエルが付け加えた。
「名前がついたばっかりだしね」
掲示板を眺めていると、一枚の札が目に留まった。
白靄葦原・採取道見回りおよび道標再確認
報酬:銀貨六枚
追記事項:濃霧時、視界不良による転倒・誤進多数。軽傷報告続き。
俺はその札の前で止まった。
「これです」
「早いわね」
ミラが横から覗き込む。
「理由は?」
「強敵じゃない。でも軽傷報告が続いてる。しかも転倒だけじゃなくて誤進も多い」
俺は札を見たまま言った。
「単に足場が悪いなら、怪我の種類はもっと偏るはずです。視界不良で見間違えたり、隊列がずれたり、焦って動いてる可能性が高い」
「なるほど」
ミラが頷く。
「視界不良で崩れる隊、ってわけね」
「たぶん」
ノアが腕を組む。
「白靄葦原か。大怪我は少ないが、面倒だけは多い場所だな」
「知ってるんですか」
「前に一度だけ通った」
「どうでした?」
「見えるのに見えない。嫌な場所だった」
「分かりやすいですね」
「分かれば十分だろ」
シエルも札を読んで、少しだけ眉を寄せた。
「霧ってだけで嫌だね」
「しかも採取道です。人の足跡と道の崩れ方が混じる」
「なおさら私たち向きね」
ミラが言った。
「じゃあ、これにしましょう」
札を受付へ持っていくと、奥の記録机からハロルドがこちらを見た。
「白靄葦原か」
「何かありますか」
俺が聞くと、ハロルドは短く答えた。
「死者はまだ出ていない。だが軽傷と迷い込みが妙に多い。視界不良の依頼は、強い隊ほど軽く見て崩れる」
「なら、なおさら受ける意味はあります」
俺が言うと、ハロルドは少しだけ目を細めた。
「……そうかもしれんな」
受付を離れて支度を整える。
ミラは細剣の位置を確かめ、ノアは手袋を引いて握り具合を見た。シエルは杖の石を指先で軽くなぞり、俺は記録札と鉛筆を外套の内側へ差し直す。
ギルドを出て、白靄葦原へ向かう道すがら、俺は先に一つだけ言った。
「影を見ても、最初から敵だと思わないでください」
「いきなり怖いこと言うね」
シエルが言う。
「視界不良で一番危ないのは、見えないことじゃありません。見えたものを、勝手に決めつけることです」
「分かった」
ミラが短く頷く。
「今日は斬るより、崩れない方を優先する」
「そうしてもらえると助かります」
「お前は?」
ノアが聞く。
「僕は、見間違えないように見ます」
「なにそれ」
シエルが思わず吹き出す。
「でも、レインらしいね」
「それで十分だ」
ノアが言った。
朝の光はまだ薄い。
けれど、葦原の方角にはもう白い靄が溜まり始めていた。




