閑話 休みの日
《灯火の羅針盤》と名乗るようになってから、三日ほど経った。
その日は珍しく、迷宮に潜らない日だった。
朝の南区は、依頼へ向かう探索者と、夜勤明けの荷運び人足が入り混じっていて、普段より少しだけ騒がしい。そんな通りを眺めながら朝食を取っていると、ミラが湯気の立つ椀を置いて言った。
「今日は買い物に行きましょう」
「買い物?」
シエルが先に反応した。
「何の?」
「親睦会がてら、必要なものを見て回るの」
ミラは当然みたいに言う。
「名前も決まったんだし、迷宮の中だけ整ってても仕方ないでしょ。外でも少しは隊らしくしておいた方がいいわ」
「親睦会と買い物が同列なんだ」
ノアがぼそりと言う。
「同列よ」
ミラは真顔で返した。
「隊として動くなら、そういう時間も必要」
「異論はない」
「ノアがすぐ乗るの珍しいね」
「革紐を替えたい」
「ぶれないなあ」
シエルが笑う。
そこでミラの視線が、すっと俺に向いた。
「レインも来るのよ」
「……俺もですか」
「あなたが一番必要」
「なぜ」
「その格好」
即答だった。
俺は思わず自分の上着を見下ろした。別に破れているわけじゃない。けれど色は少し褪せているし、袖口も擦れている。街を歩くぶんには困らないが、気を遣って選んだ服でもなかった。
「まだ着られます」
「着られるかどうかの話じゃないの」
ミラは少し呆れたように言う。
「あなた、自分のことになると後回しにしすぎ」
「図星だね」
シエルがにやっとした。
「うるさい」
でも否定はしづらかった。
記録紙やインク、保存用の油布や紐なら迷わず買う。必要だと分かっているからだ。だが、自分の服や靴となると、まだ使える、まだ大丈夫、と後へ回してきた覚えがある。
「仕事着みたいなのばっかりだと、休みの日まで休んだ気がしないし」
シエルが言う。
「普段着と迷宮用を分けた方が長持ちもする」
ノアまで続けた。
三対一だった。
「……分かりました」
「よろしい」
ミラが満足そうに頷いた。その表情が少し柔らかくて、俺はそれ以上何も言えなくなる。
そうして俺たちは、南区の市場通りへ出た。
石畳の両脇に並ぶのは、探索者向けの店と、働く人間向けの実用品の店ばかりだ。仕立て屋、革細工屋、魔道具店、小物屋、保存食の露店。通りのどこを歩いても、革と油と乾いた香草みたいな匂いが漂っていた。
最初に入ったのは、派手な飾り気のない仕立て屋だった。
吊るされた服は地味だが、布はしっかりしている。肩が動かしやすいように縫い目が工夫され、内ポケットの位置も考えられていた。迷宮に潜るための装備ではないが、働く人間の服としては信用できそうだった。
「レインはこれ」
ミラが迷いなく一着抜いた。
深い紺色の上着だった。厚すぎず、でも安っぽくもない。街で着ても浮かず、椅子に座って記録を取る時にも邪魔にならなさそうだった。
「似合いそう」
シエルが覗き込む。
「地味すぎないし、ちゃんとして見える」
「それに、この色はレインによく似合う」
「……よく見てるんですね」
思わず言うと、ミラが少しだけ眉を上げた。
「何その言い方」
「いえ、意外だなと」
「失礼ね。私だって服くらい見るわよ」
「かなり見てるよね」
シエルが笑う。
「前に靴の革色だけで一週間くらい迷ってたし」
「シエル」
「事実でしょ?」
「……長く使うものだから、ちゃんと見てただけよ」
そう言ってミラは少し視線を逸らした。その横顔が、妙に可笑しくて、少しだけ可愛かった。
結局、俺はその上着と、灰白色のシャツを買うことになった。試着してみると、今まで着ていたものよりずっと軽い。布がちゃんと体に合っている感じがして、妙に落ち着かない。
「どう?」
シエルが聞く。
「変じゃ、ないですか」
「変なわけないでしょ」
ミラが言う。
「むしろ、なんで今までそうしなかったの」
「言いすぎだ」
ノアが口を挟む。
「だが、俺もそう思う」
「ノアまで」
三人とも少し楽しそうで、俺はため息をつきながらも、それ以上は言い返さなかった。
ただ、店を出る時、ミラが俺の袖を軽くつまんだ。
「ほら」
「え」
「裾、少し曲がってる」
そう言いながら、彼女は指先で布を整える。ほんの一瞬のことなのに、妙に近くて、俺は言葉を失った。
「……ありがとうございます」
「そのくらいで固まらないで」
ミラは何でもない顔で言ったが、耳が少しだけ赤かった。
シエルが隣で、にやにやしている。
「何ですか、その顔」
「別に?」
店を出てしばらく歩いたところで、ふと懐の重みを思い出した。
勇者遠征隊付きだった頃の報酬。追放されても、規定ぶんはきっちり支払われていた。大金ではないが、記録紙や宿代に使っても、まだ少し残っている。
手元に残してはいた。だが、自分のために使う気にはなれなかった。
あの場所で得た金は、俺にとってどこか借り物みたいだった。俺が受け取っていても、俺自身のために使っていいものには思えなかった。
でも今日は、不思議と別の気持ちが湧いていた。
市場通りの先、小さな魔道具店の前でシエルの足が止まる。
「気になる?」
ミラが聞く。
「……ちょっとだけ」
シエルは店先の棚を見たまま言った。
並んでいるのは大仰な杖ではなく、小さな耳飾りや指輪、髪留め、首飾り。日常にも馴染む補助具ばかりだ。
シエルの視線は、その中の一つに吸い寄せられていた。
小さな銀の耳飾り。青灰色の石が雫みたいな形で下がっている。
店主の老婆がそれに気づいて、棚からそっと取り上げた。
「水を扱うのかい?」
「……分かるんですか」
シエルが目を丸くする。
「分かるさ。目の留まり方でね」
老婆は耳飾りを手のひらに乗せた。
「既存の水を掴む時の精度を少しだけ上げる。派手なことは難しい。けど、薄く広げるとか、細く操るとか、そういうのはやりやすくなる」
「小細工をする分には十分ですね」
俺が言うと、老婆は頷いた。
「そういうことさ」
シエルはしばらく何も言わなかった。
欲しいのだと分かった。でも、それを口にするのを少しためらっているのも分かった。
金貨一枚。魔装具としては安くもないが、高すぎるほどでもない。
ただ、今の俺たちにとっては少しだけ背伸びのいる値段だった。
「欲しかったんですね」
俺が言うと、シエルは少しだけ肩を跳ねさせた。
「え」
「顔に出てます」
「そんなに?」
「ちょっとだけ」
シエルは耳飾りを見たまま、小さく笑った。
「……欲しかったよ。こういうの、ちょっと憧れてた」
その言い方が、妙に胸に残った。
迷宮で使えるかどうか。役に立つかどうか。そういう基準だけじゃない、ただ欲しかったもの。そういうものを口にできるのは、たぶん悪いことじゃない。
「なら、買います」
俺が言うと、今度は三人ともこっちを見た。
「レイン?」
ミラが聞き返す。
「これ、俺が出します」
「え、いや、でも」
「《灯火の羅針盤》になった記念です」
財布を取り出しながら言う。
「高いものは無理ですけど、これくらいなら。……今の仲間のために使うなら、たぶん一番いい」
口にしてから、ようやく自分でも腑に落ちた。
自分のためには使えなかった金でも、今の仲間と歩く今日のためなら使える。そう思えたことが、少しだけ嬉しかった。
シエルは少し黙ってから、耳飾りを見て、それから俺を見た。
「……ありがとう」
その声は、本当に嬉しそうだった。
魔道具店を出たあと、シエルは鏡代わりに店の窓へ顔を寄せて、耳飾りをそっとつけてみせた。
「どうかな」
「似合ってる」
俺が言うより先に、ミラが答えた。
「すごく」
「えへへ」
シエルが笑って、くるりと一回だけ回る。
「レインはどう思う?」
「うん、似合ってる」
「やった。ありがと」
振り返ったシエルの顔は、少し赤く見えた。
「じゃあ今日はこれで歩こっと」
その素直さに、なんだか俺まで嬉しくなる。
今度は革細工の露店でノアが立ち止まった。
見ているのは、手袋の留め具と革帯、それに盾革の補強具ばかりだ。相変わらず実用品しか見ていない。
「自分で修理するんですね」
俺が言うと、ノアは棚から視線を外さずに答えた。
「直せる方がいい」
「……ノアさんらしい」
ノアの手が止まっていたのは、小さな鉄留めのついた厚手の革帯だった。盾の持ち手側にも、荷袋にも使えるらしい。地味だが、何度も見比べているあたり、欲しいのだろう。
「それ、気になってるんですよね」
「今すぐ必要ってほどじゃない」
「でも見てたじゃないですか」
「見ただけだ」
「じゃあ、見てたものを買います」
「勝手だな」
「たぶん今の俺、少し勝手です」
そう言うと、ノアは一瞬だけ黙ったあと、小さく鼻を鳴らした。
「……好きにしろ」
それは、断っていないのと同じだった。
「これも記念です」
代金を払うと、ノアは受け取った革帯を指先で確かめる。
「無駄にはしない」
「ノアさんらしい返事ですね」
「お前が勝手だからだ」
でも、その口調は少しだけ柔らかかった。
最後に足を止めたのは、小物と装飾を扱う店先だった。
ミラはさっきから、服そのものよりも留め具や髪紐、装飾の少ない革小物をよく見ていた。派手な色ではない。でも、ちゃんと似合うかどうかで選んでいるのが分かる。
深緑の革紐の前で少し迷って、値札を見て手を止める。
そのあともいくつか別の品を見て、結局最後に空色の組紐を手に取った。
「これにしようかな」
そう言うミラの目線は、まだ深緑の革紐の方へ残っていた。
そこで俺は、その深緑の革紐を手に取った。髪をまとめるためのものらしい。装飾はほとんどないが、留めの金具だけ少しだけ細工が入っている。
「ミラさん」
「何?」
「こっちの方が似合いそうです」
差し出すと、ミラは一瞬だけきょとんとした。
「……私に?」
「はい。記念の最後です」
「最後って、何よその言い方」
「三人分そろえたかったので」
「ついでみたいに聞こえるんだけど」
シエルが笑う。
「ついでではないです」
「そこはちゃんと否定するのね」
ミラは少しだけ困った顔をしたあと、革紐を受け取った。
指先で触れて、ほんのわずかに目を細める。
「……ありがと」
「そっちの方が似合ってて、可愛いです」
俺が言うと、ミラはわずかに視線を逸らした。
「そういうの、急に言うのやめなさい」
「すみません」
「謝ることじゃない」
シエルが楽しそうに言った。
そのまま店を離れかけたところで、ミラがふっと立ち止まった。
「……ちょっと待って」
そう言って、彼女は買ったばかりの革紐を袋から取り出した。
慣れた手つきで髪をまとめ直す。深緑の紐が、明るい茶の髪に静かに馴染んだ。
振り向いたミラと、目が合う。
「どう」
たった二文字なのに、少しだけ緊張しているのが分かった。
たぶん俺だけじゃない。シエルも、ノアも、一瞬だけ黙っていた。
「……似合ってます」
最初に言えたのは、それだけだった。
「すごく」
シエルがすぐに続ける。
「うん」
ノアまで頷いた。
ミラは一瞬だけ言葉に詰まって、それから前を向いた。
「そう」
短い返事だった。でも、耳が赤い。
俺の胸の奥が、少しだけ妙な速さで鳴った。
買い物を終える頃には、昼の光が石畳にまっすぐ落ちていた。
俺の腕には自分の服の包み。シエルの耳には小さな雫の耳飾り。ノアの手には新しい革帯。ミラの髪には、さっきの深緑の革紐が静かに馴染んでいる。
「じゃあ最後、ご飯食べに行こう」
通りの先で、シエルがぱっと振り返る。
「買い物の締めはご飯でしょ」
「結局そこに戻るのね」
ミラが笑う。
「否定はしない」
ノアが言った。
「俺も異論はありません」
「よし、全会一致」
三人の声を聞きながら、俺は歩調を合わせる。
迷宮に潜るための装備だけじゃない。
街で着る服も、日常で使う小物も、補助の魔道具も。
そういうものまで含めて、これからの俺たちを形にしていくのだろう。
それに、きっと大事なのは品物そのものだけじゃない。
欲しいものを口にしていいこと。
必要なものを選べること。
そういう時間を、四人で持てること。
その嬉しさを、まだうまく言葉にはできなかった。
でもきっと、こういう日が増えていくのは悪くない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
昨日は更新できず、申し訳ありませんでした。
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