幕間 記されなかった綻び
黒冠迷宮の第三外縁路は、以前より暗く感じた。
実際に灯りが減ったわけではない。先頭を行くアレスの灯石は十分に明るく、リディアの聖術も安定している。足元の危うさそのものは見えているはずだった。にもかかわらず、フェルンには通路の奥がひどく曖昧に思えた。
理由は分かっている。
細部の光が足りないのだ。
「次の分岐、右だったな」
アレスが振り返らずに言う。
フェルンは手元の簡略図を見た。
線は引かれている。方角も、分岐の数も、おおよそ間違っていない。だが書き込みが少なすぎた。壁面のひび、足場の沈み、反響の癖、通路幅の微妙な差。以前なら余白に当然のように書き添えられていたものが、ほとんどない。
「……右で合っています」
フェルンはそう答えたが、声に確信はなかった。
アレスは気づかない。あるいは、気づいても前へ進む方を選ぶ。勇者としては正しいのだろう。実際、この程度の層なら多少の粗さは実力で踏み越えられる。
問題は、その多少がどこまでか分からなくなっていることだった。
「水は?」
リディアが後ろから聞いた。
「まだ保つでしょう」
アレスが答える。
「でしょう、じゃ困る」
フェルンは思わず口を挟んでいた。
空気が一瞬だけ止まる。
先頭のアレスが、ゆっくり振り返った。
「何だ」
「残量確認を、さっきから誰もしていない」
「浅い層だぞ」
「浅い層でも、戻りで崩れたら話は別だ」
言ってから、フェルンは自分の声の硬さに気づいた。
アレスも、リディアも、少しだけ意外そうな顔をしている。
以前なら、こんな会話は起きなかった。
起きる前に、もう済んでいたからだ。
休憩のたびに、誰かが水袋を見ていた。
補充の順番が崩れていないか、予備灯石が何個残っているか、帰路のぶんを削っていないか。
聞かれもしないのに、いつの間にか整えられていた。
それが誰の役目だったかを、フェルンは今さら思い出していた。
「……確認するわ」
リディアが言い、後方の荷を確かめる。
「残量は、想定より少し減っているかもしれない」
「かもしれない、か」
フェルンは低く繰り返した。
曖昧な言葉ばかり増える。
それが、たまらなく嫌だった。
少し進んだ先で、通路の幅が不自然に狭くなっていた。崩れたわけではない。ただ、壁面の片側だけが削れて、以前より歩きにくくなっている。
アレスは気にも留めずに抜けた。リディアも続く。
フェルンはその場で一度立ち止まった。
「どうしたの?」
リディアが聞く。
「前は、ここまで狭くなかった」
「そんなに変わるもの?」
「黒冠なら」
だが、それを証明する材料がない。
以前の記録には、こういう細かい変化が残っていた。
どの壁面に擦過痕が増えていたか。どこで足音が鈍く返ったか。進路を狭めるような地形の変化が、何層ぶん前から始まっていたか。
今、フェルンの手元にあるのは、そこまで届かない簡略図だけだった。
「先に進むぞ」
アレスが言う。
「……ああ」
フェルンは歩き出しながら、強い違和感を飲み込んだ。
部隊そのものは、まだ強い。
アレスは前に立てる。リディアの聖術は安定している。自分の魔術も通る。
だから進めてしまう。勝ててしまう。
だが、勝てることと削れないことは違う。
戻る道で、灯石を一つ無駄にした。
道を間違えたわけではない。ただ、分岐の直前で誰も確信を持って進路を決めきれず、照らし直すために余分な光を使っただけだ。
たったそれだけのことだった。
たったそれだけのことなのに、フェルンは妙に息苦しくなった。
以前なら、こんなところで灯りは減らなかった。
以前なら、ここで迷いはしなかった。
以前なら、誰かがもう少し前に「ここだ」と言っていた。
遠征を終えて探索庁へ戻ったあと、アレスはいつも通り報告を簡略化した。
「第三外縁路、小規模接敵二回。異常なし」
「異常なし?」
フェルンは思わず聞き返した。
「何だ」
「灯石を余計に一本使った。水の消耗確認も曖昧だった。通路幅の変化も、記録に残すべきだ」
「その程度で報告を重くする必要はない」
アレスは即座に言った。
「大勢に影響はない」
その言葉を聞いた瞬間、フェルンの脳裏に静かな部屋の机が浮かんだ。
余白のない地図。
小さな注記。
誰にも求められずに書き足されていた細部。
大勢に影響が出る前に拾うための、あの文字列。
「……そうか」
フェルンはそれ以上何も言わなかった。
言えば空気が悪くなる。
この部隊は、それを嫌う。
いや、違う。嫌っていたのではない。そうなる前に、誰かが整えていたのだ。
報告室を出たあと、フェルンは人気のない廊下で一度だけ立ち止まった。
強いまま、少しずつ雑になっていく。
勝てるまま、少しずつ精度を失っていく。
その中心にぽっかり空いた穴の名前を、もう彼は知っていた。
「……レイン」
口に出してみても、誰も答えない。
ただ、ようやく分かったことがある。
あれは荷物持ちでも、ついでの書記官でもなかった。
この隊が壊れないための、最後の余白だったのだ。




