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追放された遠征書記官は、勇者パーティの敗因を知りすぎている  作者: 黒猫
第一章 失敗を拾う者たち

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幕間 記されなかった綻び

 黒冠迷宮の第三外縁路は、以前より暗く感じた。


 実際に灯りが減ったわけではない。先頭を行くアレスの灯石は十分に明るく、リディアの聖術も安定している。足元の危うさそのものは見えているはずだった。にもかかわらず、フェルンには通路の奥がひどく曖昧に思えた。


 理由は分かっている。


 細部の光が足りないのだ。


「次の分岐、右だったな」

 アレスが振り返らずに言う。


 フェルンは手元の簡略図を見た。

 線は引かれている。方角も、分岐の数も、おおよそ間違っていない。だが書き込みが少なすぎた。壁面のひび、足場の沈み、反響の癖、通路幅の微妙な差。以前なら余白に当然のように書き添えられていたものが、ほとんどない。


「……右で合っています」

 フェルンはそう答えたが、声に確信はなかった。


 アレスは気づかない。あるいは、気づいても前へ進む方を選ぶ。勇者としては正しいのだろう。実際、この程度の層なら多少の粗さは実力で踏み越えられる。


 問題は、その()()がどこまでか分からなくなっていることだった。


「水は?」

 リディアが後ろから聞いた。

「まだ保つでしょう」

 アレスが答える。

「でしょう、じゃ困る」

 フェルンは思わず口を挟んでいた。


 空気が一瞬だけ止まる。


 先頭のアレスが、ゆっくり振り返った。

「何だ」

「残量確認を、さっきから誰もしていない」

「浅い層だぞ」

「浅い層でも、戻りで崩れたら話は別だ」


 言ってから、フェルンは自分の声の硬さに気づいた。

 アレスも、リディアも、少しだけ意外そうな顔をしている。


 以前なら、こんな会話は起きなかった。


 起きる前に、もう済んでいたからだ。


 休憩のたびに、誰かが水袋を見ていた。

 補充の順番が崩れていないか、予備灯石が何個残っているか、帰路のぶんを削っていないか。

 聞かれもしないのに、いつの間にか整えられていた。


 それが誰の役目だったかを、フェルンは今さら思い出していた。


「……確認するわ」

 リディアが言い、後方の荷を確かめる。

「残量は、想定より少し減っているかもしれない」

「かもしれない、か」

 フェルンは低く繰り返した。


 曖昧な言葉ばかり増える。

 それが、たまらなく嫌だった。


 少し進んだ先で、通路の幅が不自然に狭くなっていた。崩れたわけではない。ただ、壁面の片側だけが削れて、以前より歩きにくくなっている。


 アレスは気にも留めずに抜けた。リディアも続く。

 フェルンはその場で一度立ち止まった。


「どうしたの?」

 リディアが聞く。

「前は、ここまで狭くなかった」

「そんなに変わるもの?」

「黒冠なら」


 だが、それを証明する材料がない。


 以前の記録には、こういう細かい変化が残っていた。

 どの壁面に擦過痕が増えていたか。どこで足音が鈍く返ったか。進路を狭めるような地形の変化が、何層ぶん前から始まっていたか。

 今、フェルンの手元にあるのは、そこまで届かない簡略図だけだった。


「先に進むぞ」

 アレスが言う。

「……ああ」


 フェルンは歩き出しながら、強い違和感を飲み込んだ。


 部隊そのものは、まだ強い。

 アレスは前に立てる。リディアの聖術は安定している。自分の魔術も通る。

 だから進めてしまう。勝ててしまう。


 だが、勝てることと削れないことは違う。


 戻る道で、灯石を一つ無駄にした。

 道を間違えたわけではない。ただ、分岐の直前で誰も確信を持って進路を決めきれず、照らし直すために余分な光を使っただけだ。


 たったそれだけのことだった。


 たったそれだけのことなのに、フェルンは妙に息苦しくなった。


 以前なら、こんなところで灯りは減らなかった。

 以前なら、ここで迷いはしなかった。

 以前なら、誰かがもう少し前に「ここだ」と言っていた。


 遠征を終えて探索庁へ戻ったあと、アレスはいつも通り報告を簡略化した。


「第三外縁路、小規模接敵二回。異常なし」

「異常なし?」

 フェルンは思わず聞き返した。

「何だ」

「灯石を余計に一本使った。水の消耗確認も曖昧だった。通路幅の変化も、記録に残すべきだ」

「その程度で報告を重くする必要はない」

 アレスは即座に言った。

「大勢に影響はない」


 その言葉を聞いた瞬間、フェルンの脳裏に静かな部屋の机が浮かんだ。


 余白のない地図。

 小さな注記。

 誰にも求められずに書き足されていた細部。


 大勢に影響が出る前に拾うための、あの文字列。


「……そうか」

 フェルンはそれ以上何も言わなかった。


 言えば空気が悪くなる。

 この部隊は、それを嫌う。

 いや、違う。嫌っていたのではない。そうなる前に、誰かが整えていたのだ。


 報告室を出たあと、フェルンは人気のない廊下で一度だけ立ち止まった。


 強いまま、少しずつ雑になっていく。

 勝てるまま、少しずつ精度を失っていく。


 その中心にぽっかり空いた穴の名前を、もう彼は知っていた。


「……レイン」


 口に出してみても、誰も答えない。


 ただ、ようやく分かったことがある。


 あれは荷物持ちでも、ついでの書記官でもなかった。

 この隊が壊れないための、最後の余白だったのだ。

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