第五話③ 名前はまだない
「でも、今日は普通にやりません」
俺は声を潜めたまま、制水室の中を指で切り分けた。
「入り口側の群れは、踏み込んだ瞬間に起きる。中央の本隊は、強い光か金属音で一気に崩れる。だから、全部を正面から受ける形にはしません」
「どうするの?」
シエルが小さく聞く。
「排水溝を使います」
俺は水門操作盤の脇に残る細い溝を示した。
「この部屋の水は死んでない。排水溝にも十分溜まってる」
「それを使う?」
「はい。シエルさん、水を霧にできますか」
「ある水を薄く広げるくらいなら」
シエルは頷いた。
「何もないところから大きい氷は無理。でも、この部屋にある水くらいなら操れる」
それで十分だった。
「群れが完全に動き出す前に、部屋の中を薄い霧で満たします。気づいて起きる頃には翼と体に水が乗ってる。そこで一気に凍らせる」
「翼を濡らして凍らせて、動きを止めるわけね」
ミラが言う。
「そうです。全部を止める必要はない。大部分が落ちれば、残りは捌ける」
「俺は?」
ノアが問う。
「前で受けてください。凍りきらなかった個体か、中央寄りにいてあまり霧を浴びなかった個体が来ます」
「了解」
「ミラさんは抜けたやつだけを落とす。追わないで」
「分かってる」
昨日の坑道とは違う。
ただ危険を見て引くんじゃない。
危険になる前に、危険の形そのものを崩す。
「シエルさん、できますか?」
「うん、それくらいなら」
シエルは杖を水面へ向けた。
排水溝に溜まった水が、糸みたいに細く持ち上がる。
それが一本ではなく、何本も。
床すれすれを這うように広がり、制水室の中を、ほとんど見えない薄い霧で満たしていく。
厚い壁じゃない。
防ぐための魔術じゃない。
この一室全体を、薄く、薄く濡らす霧だ。
「すごい」
思わず声が出た。
シエル自身も、少しだけ真顔で言う。
「ここまで綺麗に広がるの、やっぱり水場だと楽」
「濃くできますか」
「水がある限りは」
霧が制水室に満ちるにつれて、湿度が上がる。
やがて、天井の群れがざわりと揺れた。
「そろそろですね」
「凍らせる時、言って」
シエルが緊張した声で言う。
「抜けさせないから安心してよね」
ミラが細剣を抜き、ノアが盾を構えた。
俺は一度だけ天井中央を見上げる。
群れの先頭が羽ばたきを始め、入り口側の数匹が首を持ち上げた。
「……今です。凍らせてください」
「わかった」
シエルが杖を伸ばす。
「アイスダスト」
ぱき、と乾いた音がした。
次の瞬間、霧に濡れた群れの大半に薄い氷が走った。
翼の縁、胸元、爪の先。
完全に氷漬けにはならない。だが、羽ばたきの感覚を狂わせるには十分だった。
天井中央の本隊が、一気に崩れた。
入り口側の群れも、中央の本隊も、まとめて黒い塊みたいに床へ落ちてくる。
数にして五十はいた。
そのうち半数以上が、飛ぶ形を失って落ちた。
「シエルさん、灯りを!」
「わかった!」
シエルが灯石を低く、室内奥へ滑らせる。
落ちなかった個体のうち、中央寄りにいたものはそちらの明かりへ引かれた。
だが入り口側にいた数匹は、光より先にこちらへ飛び込んでくる。
「来る!」
俺が叫ぶより早く、ノアが前へ出た。
低く落ちた群れが盾へぶつかる。
縁で受け、流れを殺し、下へ叩き落とす。
そこへミラの剣が走った。
一匹目の喉。
二匹目の翼の付け根。
三匹目は刺さず、柄で弾いて床へ落としたところを踏みつける。
その後ろから、さらに数匹。
だが、さっきとは違う。
群れはもう群れの形を保てていない。
高度を失った個体。
霧を薄くしか浴びず、まだ飛べる個体。
床で暴れる個体。
動きがばらけている。
「右から三!」
「見えてる!」
ミラが一歩だけ踏み込む。
広くは斬らない。
抜けてきた個体だけを最短で落とす。
ノアも、殺すことより高度を殺すことを優先していた。
短槌で叩いて落とし、盾で流れを止める。
飛べなくなった蝙蝠は、それだけでもう脅威がなくなる。
「まだ来てる!」
シエルが叫ぶ。
天井近くに残っていた十匹ほどが、遅れてまとまってこちらへ滑り込んでくる。中央寄りにいて、霧を厚く浴びなかった連中だ。
「もう一度!」
俺が言う。
シエルが残っていた霧をさらに持ち上げ、今度は少し高い位置へ広げた。
完全に止めるためじゃない。
飛行の線をもう一度乱すためだ。
「フリーズ」
細い冷気が霧を走る。
先頭の翼先が白く曇り、二匹、三匹と高度を落とした。
残りも軌道がばらける。
「上、四!」
俺が叫ぶ。
シエルが灯りを左へ振る。二匹がそちらへ引かれた。
残り二匹がまっすぐ落ちてくる。
一匹はノアが短槌で叩き落とし、もう一匹はミラが半歩だけ前へ出て喉を貫いた。
そこで、ようやく制水室が静かになった。
残るのは水音と、俺たち四人の荒い呼吸だけだった。
「……終わった?」
シエルが最初に言う。
「まとまってくる気配はありません」
俺は天井を見上げた。
「残りがいても、もう群れとしては動けない」
「十分だな」
ノアが盾を下ろす。
床を見ると、五十を超える蝙蝠が飛べずに折り重なっていた。
全部を殺したわけじゃない。
でも、群れの攻撃の形は壊した。
それで勝ちだった。
動けなくなった個体へ最低限のとどめを刺しながら、俺たちは制水室へ踏み込む。
標識板は無事に回収できた。
証明部位も足りる。
四人とも無傷。
しかも今回は、昨日より明確に危険な動きそのものを潰した実感があった。
導水路の外へ出たところで、ミラが長く息を吐く。
「今の、かなり良かったわね」
「ええ」
俺は頷いた。
「場所は違います。でも、昨日の坑道より明らかに上手くできました」
「しかも今日は、敵の数に呑まれなかった」
ノアが言う。
「正面から受ける前に、群れの形を壊せてた」
「それはシエルさんのおかげです」
「水があったからだよ」
シエルが杖先の滴を払う。
「何もないところでいきなり氷山出したり、爆発させたりは無理。でも、こういう場所なら結構やれる」
「十分です」
俺ははっきり言った。
「十分すぎる」
ふと、勇者遠征隊にいた頃のことを思い出した。
洞窟で休憩を取るはずだった日だ。
斥候が、天井に大量の蝙蝠がいるのを見つけた。そこまではよかった。
だが作戦を立てる前に、勇者隊の魔導士が爆発で散らした。
最初の数十匹は、それで吹き飛んだ。
けれど洞窟にいたのは、それだけじゃなかった。
爆音に驚いた残りが一斉に飛び出し、斥候の一人が逃げ遅れて死んだ。
さらに散らすために爆発を重ねたせいで、天井の一部まで崩れた。
その日の休憩地点も、補給の予定も、全部狂った。
派手な火力があること自体は、たぶん強い。
でも、今みたいに場所と群れ方を読んで、崩れ方そのものを先に潰す方が、よほどいい。
少なくとも、俺はそう思う。
王都へ戻り、依頼達成を報告すると、受付係は昨日以上に驚いた顔をした。
「また無事に?」
「無事に、です」
ミラが答える。
「標識板も回収してきたわ」
「ありがとうございます。これで旧南導水路の点検は一段落します」
依頼達成印が押される。
記録手当もついた。
報酬袋の重みは昨日より少しだけ増えている。
だが、それ以上に大きかったのは別のことだった。
次も四人で潜る。
その前提が、もう誰かの提案じゃなくて、自分の中でも自然になり始めている。
ギルドを出る時、シエルが何気なく言った。
「ねえ、そろそろ本当に名前決めたくない?」
「まだ早いんじゃない?」
俺が言うと、ミラが笑う。
「むしろ今だからよ。形ができ始めた時につける名前の方が、たぶん間違わない」
「候補は?」
ノアが聞く。
少しだけ考えて、俺は答えた。
「……まだ、分かりません」
「即答しないんだ」
シエルが笑う。
「でも、一つだけあります」
「何?」
「少なくとも、失敗を隠す名前にはしたくない」
三人が一瞬黙る。
それから、ミラがゆっくり頷いた。
「うん。それは私も嫌」
「俺もだな」
「じゃあ、ちゃんと考えよう」
シエルが言った。
「私たちらしい名前」
夕暮れの王都を、四人で並んで歩く。
名前はまだない。
けれどもう、昨日までみたいな寄せ集めではなかった。
次に必要なのは、たぶん証明じゃない。
この四人で進むと決めるための、名前だった。




