第五話② 光へ寄る群れ
旧南導水路の中は、思っていたより静かだった。
足元を流れる水は浅い。足首を濡らすほどもないが、石床の上に薄い膜を作っている。ところどころに苔が張りつき、踏みしめるたび靴裏がわずかに滑った。壁は湿り、天井は低い石造アーチになっていた。継ぎ目には黒ずみが溜まり、ところどころに古い吊り金具や鎖受けが突き出している。
その上半分に、影が溜まりすぎていた。
灯りを一つ持っているのに暗い。
つまり、あそこに光を食うだけの塊がある。
「止まってください」
俺が小声で言うと、先頭のミラがぴたりと足を止めた。
「見えた?」
「ええ。二十……いや、三十近いかもしれません」
「そんなに?」
シエルの声も自然と落ちる。
俺は顎を少しだけ上げた。
石造アーチの継ぎ目と、突き出した吊り金具に逆さに張りつく小さな影。羽を畳んでいるせいで輪郭は曖昧だが、白い糞の量と爪のかかり方で、おおよその数は読める。針羽蝙蝠は一体一体は大きくない。だが群れると厄介だ。特に光へ落ちてくる時は、ためらいがない。
「起こさず抜けられる?」
ミラが聞く。
「全部は無理です」
俺はアーチの端寄りを指した。
「でも、最初に反応する数は選べます」
三人の視線がそちらへ集まる。
中央の鎖受けの周りには黒い塊が重なっていた。対して端の継ぎ目にいる数匹は、間隔を空けて張りついている。
「あの端の五匹、見えますか」
「……いた」
ノアが目を細めた。
「離れてるな」
「あれが見張りです。本隊より先に、気配と弱い光に反応する」
「じゃあ、放っておいても最初に起きるのはあいつら?」
シエルが聞く。
「はい」
俺は足元の石床と、その先の細い通路を見た。
「このまま進めば、たぶん先で起きます。でも、この先の方が足場が悪い。橋の手前か、滑る継ぎ目の上で不意に来られるより、まだ立つ場所を選べるここで落とした方がいい」
ミラがすぐに頷いた。
「先に見張りを外すのね」
「それと」
俺は続ける。
「どの程度の音と光で、本隊まで起きるかを見ます。制水室の前でそれを知らないままは危ない」
ノアが盾を持ち直す。昨日のうちに巻いた革が、縁を鈍く覆っていた。
「つまり、処理しながら観測する」
「そうです」
シエルが灯石を胸元へ寄せた。
「で、どう起こす?」
「灯りを少しだけ絞ります。布を一枚」
「はいはい」
受け取った薄布を灯石へ半分だけ巻く。明るさが落ち、そのぶんだけアーチの端が見やすくなった。
「前の五匹が反応します」
「五匹で済む?」
「本隊に強い光を当てなければ。あと、大きく響かせなければ」
ノアが小さく鼻を鳴らす。
「鳴らすな、ってことか」
「はい。小さい水音や足音なら、上は首を起こす程度で済みます。でも高く響く金属音と、上向きの急な光はまずい」
「だから盾に革を巻いたのか」
「準備しておいて正解でした」
ミラが細剣の柄へ手を添える。
「私は?」
「振らないでください。刺して落とす」
「了解」
準備が整う。
俺は足元の小石をつまみ、水面へ落とした。
ぴち、と小さな音。
それだけで、アーチの端にいた影がいくつか震えた。首が持ち上がる。羽がわずかに緩む。だが中央の塊はまだ崩れない。
「来ます」
俺が手で合図し、シエルが灯りを右へ細く振る。
その瞬間、端にいた五匹だけが光へ引かれて剥がれた。
黒い影が落ちてくる。
ノアが盾を斜め上へ向けた。急降下してきた三匹が革張りの縁へ叩きつけられる。鈍い音。高くは響かない。針のような嘴が革を引っかき、水滴が細かく散った。
「今」
俺の声に、ミラの剣が走る。
振るのではなく、刺し抜く剣だ。最短距離で一匹目の喉元を裂き、返す刃で二匹目の羽の付け根を断つ。三匹目は体勢を崩したところを、ノアが盾の角で水面へ押し落とした。
ばしゃ、と浅い水が鳴る。
その音に、天井の群れがざわりと波打った。
アーチの裏で何匹かが羽を半ばまで開く。起きかけている。だが、まだ一斉には飛ばない。
「灯りを上げないで」
俺はすぐに囁いた。
「まだ覚醒しきってません」
遅れて剥がれた二匹が右へ流れる。シエルの灯りへ寄ったその軌道へ、俺は投擲灯を側壁の低い位置へ転がした。光が二つに割れ、蝙蝠の進路もぶれた。
「ミラさん、左」
「分かってる」
踏み込みは小さい。だが、そのぶんだけ次が速い。
細剣がほとんど同じ軌道を二度走り、最後の二匹が水面へ落ちた。
天井では、なおも羽が擦れる音が続いている。群れ全体が浅く目を覚ました気配はある。だが、暗さと冷気の底にまだ留まっていた。強い光か、もっと大きな反響がなければ、本隊は崩れない。
「……五匹で済んだ」
シエルが小さく息を吐く。
「済ませました」
俺は答えながら、落ちた個体の位置を確認した。
「でも次はもっと早い。もう上は眠りが浅い」
ノアが盾を下ろす。
「で、観測結果は?」
「見張りは弱い光でも落ちる。本隊は小さい音じゃ飛ばない。でも起きかける」
「強い光か、大きな音で一気に来る?」
「そのはずです」
ミラが小さく笑った。
「昨日より状況が分かりやすい」
「昨日より、先に形が見えてるからです」
「それを分かりやすいって言うのよ」
そこから先は慎重に進んだ。
導水路は緩やかな下りで、左右に細い点検路が走っている。途中、石床の継ぎ目が黒く沈んでいる場所が何度かあった。俺が止めるたびに、ノアが盾の縁で軽く叩いて強度を確かめる。中身の抜けた石は鈍い音を返し、シエルは灯りを低く保ったまま、アーチの継ぎ目に溜まる影の密度を見ていた。
昨日の反省が、そのまま動きになっている。
問題は、第三制水室の手前にある石橋だった。
橋といっても大仰なものじゃない。流路の上に板石を二枚渡しただけの簡素な足場で、片側の縁が少し欠けている。浅い水の流れがその下を細く走り、滑れば体勢を崩すには十分な幅があった。
「これも、報告に書かないといけないな」
ノアが言う。
「そうですね」
俺はしゃがみ込み、橋の縁を指でなぞった。
「踏み切る位置が削れてる。急ぐと滑る」
「じゃあ一人ずつ?」
シエルが聞く。
「いえ。二人ずつです」
「二人?」
「片方が滑った時、もう片方が支えられるように。間隔を空けすぎると、見張りが動き出した時に切れます」
ミラがすぐに頷いた。
「最初は私とノアね」
「俺が外側だ」
「次に僕とシエルさん」
ミラとノアが渡り始める。二人とも歩幅は小さい。橋の中央でわずかに水が跳ねたが、足はぶれなかった。
その時、天井の奥から羽音がした。
小さい。だが、さっきより近い。
「レイン」
橋を渡り切ったミラが、振り返らずに言う。
「分かってます。今のは見張りです。制水室に近い」
「大群?」
ノアの声が沈む。
「たぶん」
俺とシエルも橋を渡る。足元の板石は思ったより冷たく、削れた縁が靴裏へ嫌な感触を返した。落ち着いていれば渡れる。だが、後ろから群れに追われた状態なら、ここで崩れる。
全員が向こうへ渡り切ったところで、通路沿いにアーチ状の入り口を持つ石室が見えた。通路よりわずかに高くなっていて、水位は床の手前で途切れている。見える限りでは、石室の床までは濡れていない。
中には古い水門操作盤。錆びた鎖。壁の高い位置へまとわりつく黒い塊。
さっきの五匹どころではない。数十。いや、もっといる。
しかも、ただ密集しているんじゃない。
室内中央の天井に固まっている群れ。
見えづらいが、入り口側の隅に固まっている群れ。
配置が分かれている。
追い立て役と、出口封じ役だ。
俺はその瞬間、途中撤退が続いていた理由を理解した。
ここは、入る時より出る時に噛みつかれる。
「……どうしたの?」
シエルが小声で聞く。
「制水室へ入った瞬間、入り口側の群れが先に起きます」
「じゃあ中に閉じ込められる?」
「すぐに抜けられなければ」
俺は水門操作盤の脇に残る細い溝へ目をやった。古い排水溝だ。水は十分溜まっている。
つまり、まだ水を使える。
「でも、今日は普通にやりません」




