4.聖書
「まだかかりそうかしら?」
肘置きにもたれ、優雅に足を組んだイヴェルナが言う。今日は薄紫のドレスを着ていた。腰が絞られていて、裾が広がっているドレスは最上級の素材を使っているのだろう、燭台の蝋燭に照らされるたびに怪しく光っている。予定日を「私はこの日じゃないと無理、こう見えて忙しいのよ」との鶴の一声で早め、「部下の仕事をたまには見ておかないとね」と嘯いて前日に乗り込んできたとは思えない物言いだったが、イルミナは無視して準備を進める。
既に彼の遺体は礼拝堂に運び込まれていた。百合の花に囲まれて窮屈そうに棺に収まった男は、生前見たままに顔色が悪く、痩せこけている。元より死人のような彼だったので、こうやって死化粧が整えられると眠っているようにしか見えない。知っているからこそ、少し――ほんの少しだけ感傷的になった。
「何か気掛かりでもあるの?」
そんなイルミナを目ざとく見咎めたイヴェルナが、何が楽しいのかニヤニヤして見ている。
「それは……知人ですし」
少し言い訳がましくなった気がして、イルミナは棺から視線を剥がした。
「あら、随分と優しいのね」
「優しい? 当然なのでは?」
「そんな事ないわ。この仕事を続けると、人は誰もが死に対する認識を改めるものだから」
「認識……?」
「そう、いつか訪れる確実な死に対する感情が変化するの。畏怖なのか許容なのかは人それぞれなんだけれど。人は変わるものなのよ。言わばこの死体安置所は内面を見通す鏡みたいなものね」
――それは、前任者のことを言っているの?
そう言いかけてイルミナは黙った。彼女が答える訳もないし――彼が遺した言葉は、イヴェルナに気軽に聞かせるものではないと考えたから。別に咎められる訳でもないだろうが、彼女の瞳は内面を見透かされるような気がしてつい顔を逸らしてしまう。
イヴェルナはゆっくりと立ち上がると、イルミナの隣に並んで今回『埋葬』される彼の――ジョン・フォートナーを見た。その瞳が何故か悲しげに見えて、イルミナは眉を顰めた。それも一瞬で、彼女はいつもの顔に戻ると、肩を震わせた。
「ここは寒いし部屋に案内してちょうだい」
「いや、来た道を戻れば死体安置所ですけど」
「そんなもの覚えている訳ないでしょ、早くして風邪ひいちゃうわ。どうしたの、いつも以上に変な顔しているけど?」
「絶句しているんです、あと何ですかいつも以上とか失礼な」
煙に巻かれた気がしないでもなかったが、彼女をこの場に置いておいた方が精神衛生上良くない気がしてイルミナはあからさまなため息を吐いた。こんな時こそ何か言ってくれそうなザックは、今ごろ図書館で書物をまとめているのだろう。肝心な時に役に立たないんだから。
「こっちです。凍死したくなければさっさとしてください」
イヴァルナは何が楽しいのやら、優雅に微笑んでゆっくりと歩み出した。
翌日。
イルミナは欠伸をかみ殺して、礼拝堂に持ち込まれた書物の確認を始める。今回は幸いにも呪書を使わない。古代語と公用語で書かれた辞書に、『埋葬』の手順を記した魔導書、宣誓に必要な神の御使が記した(という体の)聖書――それにジョンが記した日記帳もこっそりと懐中に忍ばせてある。
「随分と眠たそうだけど大丈夫なのかしら?」
目ざとく見つけてきたイヴェルナが呆れたように言う。今日の彼女は裾にかけてグラデーションのように薄い青が広がるドレスを着ている。イルミナたちが『埋葬』時に普段から身につけている『宵闇の寝具』と呼ばれる外套の濃い青に合わせたのだろう。宝石を埋め込んでいるかのように、膝下が輝いている。前世紀のデザインをしているが、イミテーションではなく本物に違いない。
誰のせいだと思っているのか。彼女は客室に戻った後も「喉が渇いた」だの「部屋が乾燥している」だのと事あるごとに礼拝堂へと戻ろうとしたイルミナを呼びつけ、あれこれと小間使いかのように命令し結局全ての準備が終わったのは今朝方になった。
「誰かさんのおかげで、大変に充実した一日を過ごせましたからね」
「あら、それは良かったわ」
いつも通り、貴族の相手をするように――イルミナは明け方にベッドに潜り込むと、そんな事を唱えながら僅かばかりの仮眠を取ったというのにこのザマだった。イヴァルナはイルミナを苛つかせる天性の才能を授かって産まれてきたと言われても納得する。
何か言い返そうと口を開きかけた瞬間、ザックの咳払いが聞こえた。「その辺にしておけ」という事だろう。
「そうね、時間は有限だしそろそろ初めてちょうだい」
ザック語を理解しているのか、イヴェルナは聖書を手に立ち上がった。『埋葬』の前に必ず行われる宣誓のためだ。
要約すると、「我々儀式の参列者は死者に対して尊敬を持ち、真摯に向き合い、この場であった事を決して口外しない旨を天にまします我らが父に誓います」といったもの。創世記の一節である信用と尊敬――右手を差し出した聖デグンダを使徒が認める例の部分――をイヴェルナが誦じている。
――果ては遠き、しぐれの使徒をかき抱く。明日を言葉へ灯火の隋に。
イルミナも音には出さず、唇を動かした。敬虔な信者と言う訳ではないが、幾度となく口にした文言だ。とうに暗記している。
「天にまします我らが父よ、彼此を繋ぎし我らが罪を赦されますよう、畏申す」
これから行われる儀式を、我らは罪とは認めているのだ。そうまでして彼岸と繋げる意味が果たしてあるのだろうか。イルミナはいつも考える。もちろん御父様は答えない。ひょっとしてこの此岸に繋がれている、これこそが罰なのでは?
そんなイルミナの思考を吹き飛ばすように、ザックが力強く一歩を踏み出した。
「これより、ジョン・フォートナーの埋葬を始める」
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