11.讃美歌
生と死、彼岸と此岸――そもそも我々王国に生きる民たちにとって、ルビコンとはどちら側を意味すると言うのだろうか。イルミナはとある宗教を思い出していた。彼らにとっても『サンズ』という川を隔てて生と死を分つと聞く。川――というよりも水が宗教的には重要なのだろう。件の教えをほとんど知らないイルミナだったが、その辺りはなんとなく理解できた。生者と死者の線引きとは、水によって隔てられなければならないのだ。
「彼我の差なんて、あってないようなものですわよ、イルミナ姉様」
そうフリエッタは悪戯っぽく笑った。
彼岸を旅している彼女が言うことだったら間違いはないのだろう。ただこちら側にいるイルミナにそれを理解しろと言うのは無理からぬことだった。
生と死の境は、いつも以上に薄く感じられる。それはイルミナと繋がろうとしたフリエッタのせいかもしれないし、正気と狂気を器用に行き来しているかのようなロメオのせいかもしれなかったし、いつも以上に言葉が少なで、まるで膜があるのような距離感を保つザックのせいかもしれなかった。
世界は狂っている。イルミナはそう思っていたが、もしかしたら正気との境目は、思った以上に薄いのかもしれない。何せ、目前のことすらも信用ならないのだ。何を信ずるべきなのか、そう思ったイルミナに誰かが囁いた。「さっき握ったぎざぎざの手の温もりだけ信じれば良いんだよ」
ロメオが語る愛の言葉――というよりもセックスそのもの――が途切れた瞬間、礼拝堂に静寂が満ち、イルミナにもようやく今回の『埋葬』がある程度理解できてきた。これは鎮魂歌なのだ。フリエッタやロメオ、アリアだけでなくモンジュー家や、残された名も知らない弟君への餞なのだ。
「初めは断罪と思っていました。でも、これは弟さんへの遺書……いいえ、道標だったんですね」
イルミナの言葉を聞いて、ロメオは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「そんなに良いものでもないさ。これはぼくの最期の我儘みたいなものだよ、管理人殿」
ロメオの弟はきっと聡明なのだろう。全てを説明された上でイルミナは未だ全容を掴んだとは言い難い。しかしロメオは弟君がこの僅かなヒントから正答を得るだろうと確信しているし、事実その通りになるに違いない。
今度のロメオの言葉にフリエッタは何も言わなかった。ただ優しく微笑んでいた。きっと彼女も(本来の意味で)弟を愛していたのだろう。
「さて、と」
フリエッタが両手を天に衝き上げる。
「もうそろそろ時間ですわよね……ええっとザックお兄様」
「ああ」
短く返事をしたザックの顔が見たことのない表情をしていた。それが何となくおかしくて、いつかザックに「お兄様」と呼んでやろうと、イルミナは微笑む。
「マーキス、もう間も無く『埋葬』、その時が尽きます。何かありますか?」
「いや、今日の続きはぼくがルビコンを渡ってからにするとしよう」
もう一つ『埋葬』があり、その後に自死する男とは思えないほど、彼は満ち足りた表情をしている。先ほどフリエッタが言ったように、この死体安置所、そして『埋葬』という儀式下においては彼我の線引きなどあってないようなものなのだろう。イルミナはこの森に住まう自分が生と死の狭間にいると考えてきたが、実際のところそれに一番近いのはロメオではないだろうかとふと考える。
「フリエッタからは?」
「私からも特にありません。強いて言うなれば、イルミナお姉様は処女のままなるべく早めにこちらへいらしてくださいね」
まるで歌うように、天使のような微笑みを浮かべ悪魔のような台詞を吐く少女に、イルミナは曖昧な笑みを返すだけにしておく。そんなイルミナを見て満足そうにフリエッタは頷いた。
「それでは、ロメオお兄様、後ほどお会いしましょうね」
「ああ、すぐに行くよ」
言葉を額面通りに切り取れば何気ない挨拶だっただろうが、全てを知っているイルミナからすれば、それは呪いとも言えた。それ以上は何も言わず、ただニッコリと微笑み、フリエッタは横になる。ロメオは名残惜しそうに少女の手をいつまでも握り続けていた。
彼女が愛した色とりどりの花が敷かれている棺に収まると、フリエッタは儚さをたたえた、美しい少女の遺体に戻った。それは誰が見ても完璧な遺体だった。
フリエッタの唇に一粒の涙が零れた。紅玉で彩られた化粧が僅かに滲む。ロメオはそれを拭おうとした素振りを見せたが、数瞬思案するとそのままにしておこうと思い至ったようだ。彼の背中は、少女の美はその程度では揺らぎはしないとでも言いたげだった。
イルミナは何故かその背中を見続ける事が不敬であるような気がして、窓の外へと視線を移す。風はなく厳かに雪が降り積もる様は、天までもフリエッタ・キャビューレという少女を悼んでいるんだな――そう思えた。
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