9.焔
燭台に置かれた蝋燭が揺らめき、フリエッタの横顔を照らした。冬の森は場所柄か分厚い雲に遮られ日光は滅多に届かない。時刻は昼前だというのに底冷えする闇が這いよるかのような礼拝堂にあって、かすかな灯りに照らされた少女の影は動くたびに陰影を濃くしてゆく。それはそのままイルミナと、フリエッタとの距離を表しているかのよう。
「ねぇ、お姉様……?」
彼女は彼岸の住人なのだ。ある意味ではイルミナにこうやって触れることの出来る距離にあり、そしてどこまでも決定的に違うもの。
「取り込まれるな」
先ほどザックが言った言葉がイルミナの脳内で繰り返されるが、内容までは届かず、ただ流れてゆく。例えるなら核を形成するためのアルファベットだけがするりと耳朶にもぐりこむ、そんな感覚。
「私の目を見て」
イルミナの手を握り、優しく撫でながらフリエッタは言う。
「私に全て委ねてください」
委ねる。
ティー・オー・エイチ・・エル・ワイ・ジー・アール
それを言葉として認識することが出来ないのだ。
しかし。
イルミナははっきりと認識していた。これが取り込まれるということだと。
イルミナははっきりと認識していた。これに抗う術はないということを。
イルミナははっきりと認識していた。これが誰かが言っていた世界そのものだということを。
イルミナは――「こほん」
うろんな視線をたった今咳払いをした音へと向ける。
非難のいろを帯び咎める……いや、それ以上にはっきりとした憎悪の焔を向けられた男は、狼狽したように両掌をイルミナに向け後じさらんばかりの勢いだった。ロメオである。
「……マーキス?」
エム・エー・アール・キュー・ユー・アイ・エス
正しく発音することにより、イルミナは目を見開き、今まで愛おしそうに握っていたフリエッタの手を離す。体温が抜け落ち、つららのようなそれが途端に怖くなった。認識。
「いったい、何。何なの、これは?」
古代語でごちるように言うイルミナ。いつの間にかフリエッタが鼻先が触れそうなほどの距離にいる。近くで見ると、翠玉の瞳は驚くほど大きく、そして魅力的に見える。吸い込まれそうな感覚が襲ってきて、イルミナは頭を振って少女から距離を取った。
「何もクソもそういう事ですわよ、イルミナ姉様」
棺に頬杖を突き、当然、古代語で返すフリエッタ。
ロメオは怯えた瞳でイルミナとフリエッタを交互に見る。ザックはいつものように腕を組んでいるが、瞑目していない。そればかりかフリエッタをはっきりと睨み付けていた。先ほどのイルミナより単純計算で十倍以上のもの。それを横目で見ていた、付き合いのないロメオにもはっきりと怒りが伝わるほどだった。
イルミナの視線に気づいたザックは、ばつの悪そうな顔をして慌ててを俯く。
彼が感情を表に出すのにも驚いたが、それどころではなかった。取り込まれるな。ザックは確かにそう言ったし、イルミナだってフリエッタに対して異常な危機感を持っていた。なのにそれは抗うことすら無駄だと言わんばかりに、イルミナと溶け合いひとつになっていた。
少女の言葉はイルミナの耳朶を心地よく撫で、脳髄にへばりつくが如く、ゆっくりとしかし確実に浸食してきた。死者の言葉。なんと蠱惑的なものだろうか。
「姉様、先っちょだけで良いから舌をそのお口の中に挿れさせてもらえません?」
「……こんな事ってあり得るのね」
フリエッタの言葉を無視して、イルミナがようやくの思いでそれだけを必死に絞り出すと、何がおかしいのか少女は、くつくつと笑う。
「ええ、そうですわ。これが彼岸を見たものの言葉。死という概念はこちらとそちらでは大きく違いますわね。神の御使が連れてゆくなんてロマンチックなものではありません。そういえば極東のとある島国ではどちらも『シシャ』と発音するそうで。死者と使者。なかなかに含蓄がありますわね」
ディー・イー・エー・ディー
エム・イー・エス・エス・イー・エヌ・ジー・イー・アール
エス・エイチ・アイ・エス・エイチ・ワイ
それらの単語を公用語で呟くことで自身を認識できた気がして、ぞっとする。地を踏みしめる事に感謝する日が来ることになるとは思いもしなかった。
公用語と古代語。
生者と死者。
彼岸と此岸。
その二つが交わる事が危険なのだ。本来は接地しないはずの点と点。それらを繋げるものこそが『埋葬』であり、イルミナとザックなのだ。
「もういいだろう!」
思考の沼に沈みかけたイルミナの手を引き戻したのは、またもロメオだった。
「もういいだろう。この儀に費やせる時間は有限だと説明を受けた。今日という日はぼくと彼女の再会と離別の時なんだ。彼女と……フリエッタと話をさせてくれ」
「あるいは破壊と再生ともなり得ますわね」
フリエッタはロメオの懇願すらも混ぜ返すかのように微笑む。その笑みだけは表現のしようもないほどに美しく、だからこそ、少女の持つ闇を感じさせられる。何故かフリエッタ・キャビューレと、過去に一度だけ会った殺人鬼が重なって見えた。釦の掛け違いがあれば、彼女も世紀の犯罪者になっていたのかもしれない。
だが、そんな想いを持つのは双方を知るイルミナだけだった。ロメオは昨日イルミナに言った言葉よりも遥かに情熱的にフリエッタへと愛を語り続けている。もちろん、フリエッタだって同様に。それを通訳するイルミナの気持ちなどお構いなし――それどころか、彼らは既にイルミナを認識すらしていない。二人の世界などと言うと綺麗に見えるが、実際は回転木馬のような台詞回ししている演劇を見せられているだけだ。
通訳の途中ちらりとザックを見やってみるが、先ほどの激高はどこへやら、いつものように長椅子に腰を下ろし腕をくんで俯いている。手伝いをしろとまでは言わないが、せめてこのえも言えぬ気持ちの共有くらいはしてほしいものだった。
ロメオの声は礼拝堂じゅうに響き渡り、その熱が沸点まで届かんばかりになると、いつしか彼は跪いてフリエッタの手を取っていた。涙と洟と涎でいよいよ言葉すらも怪しくなってきたが、フリエッタは直接聴いているかのように彼の言葉に頷き、優しく頭を撫でている。遥か太古から伝わる、聖母と従者といった絵ではあったが、内容は聞くに堪えないものだった。
何のことはない。先ほどから情熱的なのは声音だけで実は愛とセックスのことしか話していないのだ。その愛すらも性欲と同義になってきていた所で、それまで相槌を打っていたフリエッタがゆっくりと語りかけた。
「それはまぁそれとして、お母様はきっちりと殺してくれたんでしょうね、ロメオ兄様?」
次回は殺人に関する直接的な描写があります。苦手な方は読まれない方が良いかと思われます。ご注意ください。




