8.正体
世界。その単語を耳にしたイルミナの奥底で何かが動いたような気がした。
名状しがたきそれは、少女の中で形作ろうとした瞬間にどこかへ飛散していった。わずかばかり残った欠片を必死にかき集めようとしたが、するすると、まるで綿埃のように掴む間もなく消えてゆく。
イルミナは何かを得たような、反対に決定的な何かを損なってしまったような感覚を、僅かな時の間に体験する。何故か見たこともないザックの笑顔が脳裏をよぎった。
フリエッタはそんなイルミナを愛おし気に見詰める。
――これは……この感覚はいったい何?
口にしないイルミナの疑問に、フリエッタが答える。
「それが繋がるということです、管理人様。我々……いえ、あなた方が言うところの『埋葬』、その先のステージ」
「ステージ?」
「舞台です」
「舞台……」
その二つの単語は同じ意味のはずなのに、全く違う響きに聞こえる。フリエッタが話しているのは古代語であるからそれも当然なのだ。だが、それ以前の……そう以前の問題なのだ。
普段通りの『埋葬』なのに、何かが決定的に違う。その違いをイルミナは言語化できない。ただ物事が間違っていると認識している。
間違っているのは最初からだ。
自身の『埋葬』を依頼する貴族。
その貴族と恋仲の妹。
そしてザックの傍らで禍々しい空気をまとっている呪書――あれは、あの書は何?――。
イルミナの脳を支配している混沌とした意識は数舜だった気もするし、数刻が過ぎている感覚もある。彼女は自身の感覚を信じられなくなってきていた。
何故か悲しくなってしまい、左目から涙がこぼれてきた。どうしようもないのだ。イルミナの瞳は涙を流すためだけに作られたものだから仕方がないのだ。震える指先は、涙を拭う為に作られたのだ。涙を流し続けると現実を見れないからその手は作られたのだ。現実?
「そう、現実だ」
イルミナの手を握る体温が現実を連れてきてくれた。木工細工としもやけのせいでかさついているその手は、少女が知りうる誰よりも温かく、力強い。
「ザック……?」
「取り込まれるな」
普段通り簡潔に、そして短く言うザックは真剣そのものの顔をしている。ぎざぎざした傷を認めると、イルミナは確認するかのように、ゆっくりと傷跡へ指を這わせた。驚いたザックがびくりとしたのが何故か面白くて、イルミナも笑みを浮かべたところで我にかえる。
礼拝堂だ。普段の、仕事場の、『埋葬』をするための、礼拝堂だ。
隣にいるザックはいつの間にかイルミナの手を離している。
少し離れたところでロメオがイルミナを不思議なモノを見るような瞳で後じさっている。
フリエッタは立ち上がると、ゆっくりとイルミナに手を伸ばし、そのままで固まっていた。
「もう少しだったのに」古代語で拗ねたように言うのはもちろんフリエッタだ。
「もう少し?」
「そ。もう少しでイルミナお姉様もこっちに呼べたのに」
神秘的な、何もかもを超越したような少女は、頬を膨らませている。それは年相応の仕草に見えて、何故か安心した。
「どういうこと……?」
「どうもこうもないわ。これが『埋葬』、そして古代語じゃない」
「フリエッタ?」
「そうですよ。私はフリエッタ。ロメオ兄様と、イルミナ姉様みたいな何も知らない初心な人間をぐちゃぐちゃにしたい欲望で生きていた可憐な享年十五歳」
「……マーキス。説明をお願いしても?」
公用語の響きですべてを察したかのようにロメオは立ち上がった。
「すまない、管理人殿。妹は悪戯が大好きで」
「悪戯?」
「……訂正しよう、歪んだ性癖を持っていて、それを実現しうる魅力と財力、それに家柄を持っている少女だ」
「たった今知りました」
「だろうね」
「深窓の令嬢と噂されていたのは?」
「男性はおろか、女性でもいけるフリエッタの本性を表に出さないためだね」
「列をなした貴族たちが卒倒しかねませんね」
「フリエッタと関係を持っている人間が大半だと思うけどね」
「……ちょっと待ってください、手紙には『ロメオ氏と添い遂げるため』と書かれていましたが、彼女の死因をお伺いしても」
「腹上死って知ってるかな?」
「噂には聞いたことが」
「それに近い。性行為の最中に首を絞めるといいとかいう話を真に受けたようで、それが行き過ぎたせいだと」
「ちなみにお相手はもちろんマーキス?」
「いいや、使用人の一人だよ」
紅潮してゆくロメオを見る限り、どうやらこの二人はお似合いのようだ。『埋葬』はいろいろな要因がある。もちろん性的な話もなかった訳ではない。だが、ここまであからさまなものは初めてだった。フリエッタは養子に出されたとはいえ、モンジューの血を持っている。体面を気にした現侯爵かアリアがが後ろで手を回したに違いない。ただでさえその可憐さで人気になった少女なのだ。人の口に戸を立てられないと知っているからこそ、幾重にも彼女の死因を糊塗して真実だけは表へと出さないつもりだったのだろう。いかにも貴族らしいやり方と言える。
ここまで壊れているとは思わなかったけれど――その言葉を飲み込み、イルミナはフリエッタへと向き直る。
「じゃあ、フリエッタ」
「なぁに、お姉様」
「まずそのお姉様ってのやめて。あと呼べたってどういう意味?」
イルミナは取り繕うのをやめていた。先ほどの感覚が必死に警鐘を鳴らしているのだ。彼女に合わせるのは危険だと。
「そのままの意味よ。ええっと。便宜上こちらを彼岸としましょう。そして姉様が立っているその場所が此岸ですわ。彼岸と此岸は思ったよりも離れていないの。隣り合っていると言ってもいいわ。つまりこっちとそっちの意識と言語を合わせると引っ張ることが出来る……ここまではオーケイ?」
「オール・ライト」
「引っ張ることでこちらに呼べる。しかもおあつらえ向きにイルミナお姉様は私と波長が近い。これは死んでみないと解らないわね……感覚的な問題だから言語化は不可能に近いの。近い人間を呼び込めるのはこちら側からだけですけどね。イメージとしては、一方通行の扉のようなもの。そしてイルミナ姉様とあんな事やこんな事を」
「ちょっと待って!」
「なぁに、お姉様」
「呼ぶ……ってもしかしてあのままだと、あたしは死んでたってこと?」
「もちろん」
イルミの頬に手を這わせながら、ごくごく自然にそう言うので、思わず頷いてしまいそうになった。
死者と生者の決定的な違いは思考――『埋葬』の手引き書には確かにそうあったのを思い出す。それなりに『埋葬』をこなしてきて、それには慣れたつもりではいたが、やはり違うものなのだと実感させるには充分なフリエッタの台詞だった。(中身は別として)彼女の見た目は愛くるしい少女なのだ。ロメオの存在を無視して「姉様」と熱に浮かされたように呟き、イルミナの頬を撫でるその指先は驚くほど冷たい。理解していたつもりだったが、やはりこれはおかしい。何もかもが。
イルミナは目前で次々と起こる物事たちに気を取られていたのだ。
だからこそ。
誰かが古代語で「やはりそうか」と零したのを気付いていたにも関わらず、脳裏の片隅にすら置くのを拒否していた。
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