2.狂気
常時雪が降り続ける冬の森。日課である死体安置所の点検を済ませ、自室に戻ったイルミナはそのままベッドに倒れこむ。瞳を閉じて、何故こうなってしまったのかを思考することも日課になっていた。この半月間ザックと会話をした記憶がない。思わず抱きついてしまった気恥ずかしさからではない。ザックが居るべき場所はここ、冬の森の死体安置所ではないからだ。
イルミナは知っている。ザックがイゼット・アンガーという依頼人と、プリエト・サンダーランドという臨時の助手を殺害した罪で拘留されていたことを。
イルミナは知っている。その両名を殺害した真犯人とやらが、被疑者死亡のまま王立裁判所に起訴され、ザックの誤認逮捕だったとヤードが発表したことを。
イルミナは知っている。そのどれもが嘘であることを。
それらの記事を見たとき、まず浮かんだのは殿下の柔和な笑顔だった。国家が管理している新聞だけでなく、ゴシップ誌などもヤードの杜撰さを責め立てた。かつての責任者はイルミナも知っている人物だ。いつも眉間に皺を寄せていた長身痩躯で禿頭の男は、警察機構というよりは軍人然とした雰囲気を持っていたっけ。相手が誰であろうと威圧してからでないと口を開けないような、見方によっては矮小とも言える男。名をミニシング・アドラーと言う。
ヤードと王家の確執などと言った刺激的な見出しを躍らせた紙面もあった。情報提供者が『王室関係者』と書いてあるがそんな人物は存在していないだろう。憶測だけで書かれた記事だったが、イルミナは笑い飛ばす気になれなかった。
イルミナはとある事件を通じて両者と接点を持っている。このゴシップ誌に踊る文章が決してデタラメでないと知っていた。些細な会話からでもある程度距離は測れるし、知りうる為の手がかりはそこかしこに存在していた。
この二人。
イシュバル・ミラク皇太子殿下とミニシング・アドラー公爵の間には確実に溝がある。
確執と言った表面的なものではない。もっと潜在的な何か。
それらを総合して考えると、殿下はアドラーを貶める為にザックを利用したのだろうと推測される。事実アドラーは、サンダーランド家嫡子の殺害事件、それにまつわる誤認逮捕でキングダムヤード総司令本部長を解任されている。後釜に座ったのは彼の傀儡と噂される男ではあったが。
イルミナにその辺りの機微は分からない。政治的な綱引きが行われていたということだけが確定事項だった。それに利用されたのがザックであり、哀れな被害者であるサンダーランドとアンガーなのだろう。
だが、殿下とザックの関係を知っているだけに、イルミナは何故こうなったのかを理解できない。どこかちぐはぐなのだ。彼女が知っている殿下の性格と今回の事件は大きな隔たり――言わば瑕疵がある。整合性など存在していないのだ。二度ほど会っただけだが、どうしても彼がこんな事をするとは思えない。
イルミナは物語に出てくる探偵ではない。だからこの考えが間違っている可能性の方が高いだろう。
だからイルミナはどうやってここに居たらいいのかが分からない。ザックが殺人犯だと否定された訳ではないのだ。いや、ある程度事情を知っていてここまで思考を巡らせることが出来るイルミナだからこそ、彼が犯人である可能性が高いと考えておかしくはない。それなのに、何故この冬の森へと留まっているのか。
その答えは明白、イルミナは自分が異常だと理解していたのだった。自身だけではない。ザックを含む、イルミナを取り巻く全てが狂っていると思っていた。狂気の渦に飲み込まれかけている彼女が、何もかもが億劫で、結論を導くことすらも煩わしいと判断しても不思議ではない。
目を開くと机の横にあるくず入れが目に入った。直径一フィートはある大きなものだが、反故で溢れかえっている。それらはイルミナが正気と狂気を繋ぎとめる儀式のようなものだった。
宛名を書いて正気だと世界へ喧伝し、それを幾重に重ね捨て去ることで狂気を手繰り寄せる。無意味だとは分かっていた。だからこそイルミナはそれだけをこの一年繰り返してきた。長いようで短い三百日を経たことで誰かが言っていた深淵へ近づいた気がしている。そうすることでこの冬の森と溶け合い相応しいものになれると、半ば以上本気で信じていた。冬の森は言い換えればザック・ノーガーそのものだから。
イルミナが持つ歪な感情は彼女が意識しないまま、狭間で綱渡りを続けていた。冬の森の死体安置所は安物の葡萄酒みたいなものだ。生者と死者、憎悪と赦し、名誉と矜持――果てには愛憎までを無造作に突っ込み、酩酊だけをくっきりと他は曖昧なまま、どうしようもない現実を突きつけてくる。
世界を覗いてしまったからだろうか? それよりももっと前、自覚をしたときから?
「ザックのばか」
驚くほど素直に出てきた言葉に安堵したイルミナは、それだけを大事に胸にしまったまま眠りへと落ちていった。
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