その手をつなぐ
消費期限切れの菓子パンを開く。
「…………」
母親の嬌声が、襖越しに聞こえてくる。
「おい……子供……聞こえてるんじゃねぇの……?」
「いいから……アイツ、追い出してもいいから……もっと……」
菓子パンを口に運ぶ。
生ゴミの饐えた臭いのするゴミ袋から、ゴキブリが這い出てきて、触覚をうごめかしながら消えていった。
「…………」
ひとり、冷たい床の上で菓子パンを食べる。
突然、襖が開いた。
「おい、お前、スノウだっけ? まぁ、なんでもいいや、とっとと出てけ」
肌の表面に汗をかいた男が、しっしっと手を払う。
ぎゅっと菓子パンを握り込んだスノウを見て、彼は、これみよがしに顔をしかめる。
「男に抱かれても良い女を見つけるのにどれだけ時間かかったと思ってんだ。見つかったら俺は殺される。とっとと出てけ」
「…………よ」
「あ?」
「家族は……一緒にいないとダメですよ」
スノウは、震える声で唯一の母の教えを口に出した。
「離れちゃダメですよ」
それは、まだ幼いスノウがどこかへ逃げるのを防ぐため。
自分が他の男や女のところへ出かけている際、ひとりで出歩いたスノウが警察に保護される厄介事を避けるため、母親がスノウにかけた呪いのひとつだった。
だが、その呪いは、自分が母に唯一かけてもらった『家族』としての大切な言葉として、スノウの奥底には深く残っていた。
「なに言ってるのかわかんねーよ!! お前んとこのアバズレ抱くのに忙しいんだよッ!! とっとと出てけッ!!」
男はスノウを蹴りつけ、小さな身体が転がる。
手加減はしているのだろうが。
母親の張り手にしか慣れていないスノウは、倒れたところを何度も足蹴にされ、頭をかばいながら涙をこらえる。
「家族は一緒……家族は一緒……家族は一緒……!!」
「バカが! ガキ、お前に家族なんていねーよ! お前んとこの母親は、頭足りてねーから、男なんぞを咥え込むしかなくなってんだよ! お前も、いずれ、そうなるってわかんねーのか!? あ!?」
交尾を邪魔された動物は凶暴になる。
男の力は、どんどん増していき――
「やめてよ!」
母親が男を止める。
「変に痕残ったら、また、変なおばさんたちに怒られんだから! 虐待とか言われたら、仕事取れなくなるじゃん! ほら、スノウ! 外! 外、行って!」
「…………」
「ほら、行けって! お母さんの邪魔ばっかりしないでよ! 行けっ!!」
母親から、黒い液体が残ったペットボトルを投げつけられて。
スノウは、外に出て玄関扉の前で三角座りをする。
「…………」
両耳を塞いで。
ひとり、母親の嬌声が止むのを待っていた。
*
闇の中で、意識が覚醒する。
「…………」
目を開いたレイは、鈍い痛みを胸部に感じる。
胸元へ手を入れて、彼女は、粉々になった思い出カメラを取り出した。
「……ふっ」
こんなところに入れたことすら忘れていた。
どんな確率なのか……どう考えても、払暁叙事の固有魔法による辻褄合わせだろう。一度、自分の呼吸は完全に止まっていた。周辺の瓦礫に押し潰された時に、偶然、胸部が圧されたショックで息を吹き返したらしい。
「……ぐっ!」
身動きが取れない。
なんらかの衝撃で乗っていた朧車が壊れ、その瓦礫に巻き込まれたらしい。
いずれにせよ重傷で、指先ひとつ力が入らない。
「…………」
脱出を諦めたレイは、ひとり、暗闇の中で懐かしさを覚える。
あぁ、まるで、迷子になった時みたい……周りが暗くなっていって、ひとりぼっちで……二度と、誰にも見つけてもらえないと思ってた……でも、いつも、迎えに来てくれた……どんな時でも……必ず……私を見つけ出してくれた……。
「……ぱぱ」
レイは、静かに涙を零し、もうこの世にはいない父を呼んだ。
「ぱぱ」
その瞬間――眩しい日の光が差し込んだ。
目が眩む。
まだ動く方の腕で目元を覆って……ゆっくりと、目の前の光景が戻ってくる。
傷ついて汚れた手。
その手は、レイに向かって差し伸べられる。
「レイ」
大好きな人の声が聞こえた。
「帰ろう」
嗚咽を漏らしながら、レイは、促されるようにその手を握る。
「はい……」
光の方へと引き上げられながら。
レイは返事をする。
「はい……はい……」
ぼろぼろで血まみれの兄は、笑いながら、薬指と小指が欠けた手でレイの手を握って引き上げてくれる。
「なんで」
これ以上、涙がこぼれないように抑えながら。
レイは、彼へ微笑みかける。
「なんで、私のことを見つけられるの……?」
「家族だから」
彼は、父によく似た笑みを浮かべる。
「家族だから……レイのことを置いて行ったりしないよ」
「ぁああ……っ!!」
レイは、力いっぱい兄を抱き締める。
「ぁあ……ぁあああ……っ!!」
泣いて。
泣いて、泣いて、泣いて。
ようやく泣き終わった後、こちらへ駆け寄ってくる人影が視えた。
「レイ様っ!!」
レイは、こちらの胸へ飛び込んできたスノウを抱き留める。
大切な家族と喜びを分かち合う。
「んじゃあ、まぁ」
死にかけの兄は、いつもと変わらない笑顔で言った。
「かえるか」
そして、さり気なく、スノウの手を握る。
一瞬、驚いた表情をしたスノウは、涙を滲ませてから思い切り兄へ抱き着く。
「だいすき」
兄の首へ縋り付いたまま、スノウはぽろぽろと涙をこぼす。
「だいすきっ!!」
「す、スノウさん……や、やめて……た、たぶん、お前が思ってるよりも……俺、重傷で……し、しぬ……」
いつも通りの光景を前にして。
レイは、思わず、涙を零しながら大きな声で笑った。
笑うだけ笑った後、三人、手を繋いで帰り道を歩く。
いつまでも、いつまでも。
この手が離れないようにと願いながら。




