たったひとりのあなたへ
「お前……何分……いや、何時間、強制開眼を続けてる……?」
声が聞こえた。
呆けていた陽は、ようやく、自分が元の時間軸へ戻ってきたことを知った。
払暁叙事の自然開眼によって、視ていた遠い未来の出来事……そして、その未来への干渉を終えて。
藤原陽の視る世界は、彼女のよく知る世界へと戻っていた。
「…………」
別人へと生まれ変わったかのような気分で。
陽は、彼への想いを口にする。
「これでもう大丈夫」
心底の気持ちを、彼女は目の前の彼へ伝える。
幾千万の並行世界を渡り歩いてきた陽は知っている……ココで調和六年の禍を起こして藤原の大半を消せなければ、屍が三条を手中に収めることは叶わず、『三条燈色』は誕生せずその存在ごと消え失せる。
「兄でもなく父でもない……たったひとりの貴方へ」
だから、彼女は眼に宿った固有魔法を発動させる。
たったひとりの彼と出逢うために。
たったひとりの貴方を救うために。
「ありがとう」
こちらへ手を伸ばす彼を視て。
陽は眼を閉じた。
*
黒い雨が降っている。
「…………」
曇天を見上げた陽は、死につつある己を自覚していた。
コレで良い……コレで良かった……あの人は、陽との約束を守ろうとしてくれた……逢いに来てくれた……縁もゆかりもないひとりのために……辛く険しい道を選んで、ありとあらゆる傷を負った……兄様は救えなかった……けれども、もう、それで良い……これで……良い……。
手が重なった。
いや、手が重なったような気がした。
だから、陽は、彼が来たことを察知し口を開く。
「しきがみさん……」
息を吸う度に軋む肋骨、潰れてかけている肺から息を吐いた。
「ふ、ふつぎょうじょじのしぜんかいがんのじょうけんは……で……しぜん……ひつようなときにひらきまする……だいじょうぶ……ようがひらきましたから……もうすこしで……しきがみさんはかえれますよ……おうちへ……」
ちゃんと、陽の声は届いただろうか?
あの人は、なにか言っているのだろうか?
もう、なにも聞こえはしない。
ゆっくりと、眠気が訪れて、陽は暗い空を見上げながら微笑む。
「しきがみさん……ようは……」
その瞬間、眼が開いた。
「陽様、どうかしましたか?」
「陽ちゃん、どしたの~?」
「急に受け答えをしなくなったなァ……?」
「陽姫、だいじょぶ!? 陽姫!?」
「陽ちゃぁん?」
「…………え?」
視えている景色が様変わりする。
あたたかな日の光が差している中、柔らかな下草に引かれた茣蓙の上に五人が座っている。
屍、星、夭、ライゼリュート……そして、見慣れない少女。
反応を示さない陽に驚いているのか、彼女らは、こちらを見つめ目を丸くしている。
「カバネが変に気合い入れて、手料理なんか食べさせたからじゃないの~?」
「いや、セイ、お前が頭に手刀なぞ入れるから」
「押し付け合いはやめろォ……みっともなィ……」
「みっともないみっともない!!」
セイのちょっかいにカバネが慌てる。
その横でヨウは呆れて、見覚えのない小さな女の子が囃し立てる。
視えている光景が一瞬で切り替わり、目を見開いた陽は呆ける。
コレは……この光景はなんだ……陽はもう死ぬ筈で……死ぬ間際に視る幻……違う……まるで現実のようで……コレは……。
「光、ほら、食べなさい」
「はい、あにさま!!」
驚愕で。
陽は、びくりと反応する。
見覚えのない小さな女の子は、カバネに『光』と呼ばれ返事をしていた。
「そ、その御方は……」
陽の両眼に涙が滲む。
「その御方は……光というお名前なのですか……?」
「そーだよ! 陽姫のおともだち!!」
「ンフーフッ、陽ちゃんはうちのお友達ですねぇ」
「本当に、陽様はいかがしたのか……頭にお怪我がないか確認を……」
「やめんしゃい」
元気に光は返事をし、ライゼリュートが対抗する。
カバネは事さらに心配し、頭にセイの手刀を受けている。
「あ、兄様……」
「あ、兄様……? 陽様、なぜ、おれを兄などと……?」
涙声で、兄を呼んだ陽を見つめカバネは困惑する。
「良いじゃないかァ……陽は光と同い年だしなァ……」
「てかさぁ、カバネももう『様』付け要らないって言われてるじゃん! 陽って呼んでみ!! 陽って!!」
ヨウとセイに煽られ、カバネは戸惑いながらも名を呼んだ。
「陽」
「はい……」
涙で滲む光景へ、陽は返事をする。
「はい……はい……」
何時までも何時までも、溢れる涙を何度も何度も拭って。
震える声で、陽は問いかける。
「兄様は……現在……幸せですか……?」
笑顔で、彼は答える。
「えぇ、とても」
風が吹いた。
どこからか飛んできた桃色の花弁は、そよ風を受ける度にきらきらと光を零しながら回る。
陽は、花びらの行く先を目で辿る。
「ほら、陽、見てご覧」
笑いながら、カバネは頭上を指差した。
「満開だ」
その指先に応じ、頭上を見上げた陽の眼に光が映った。
強烈な光。
思わず、目元を庇った陽は目を細め――開き――視界いっぱいに桜色が広がった。
どこまでも、どこまでも広がっている白に滲んだ桜の花弁。
真ん中の櫻に寄り添うようにして、横へ傾いている左右の櫻は枝葉を広げている。
柔らかな涼風を受ける度、寄り添い合った三つの櫻は仲睦まじく枝先を揺らし、甘い香りを撒きながら花弁の雨を降らした。
ざあっと音を立てながら、手前から奥へと枝葉末節が膨らみ、地面に敷き詰められていた花びらの絨毯が舞い上がる。
数千万の並行世界を探し求めても、終ぞ見つけられなかった光景。
三条櫻が咲いていた。
「なんで……なんで、櫻が咲い――」
ふと。
視線を感じた。
とてもあたたかな視線。
陽は顔を上げる。
視線と視線が絡み合う。
その瞬間――陽は理解した。
「あ……あぁ……っ!!」
払暁叙事に記録された情報が陽の理解を助ける。
少年と少女が共有している眼には、独り、世界を渡り歩く彼の姿が残されていた。
永い永い時の間、少年は世界を歩いた。
その眼に残る記録には、幾度も不幸へと陥り、絶望の淵で死にゆく自分の姿が映されていた。
何度も、そう何度も。
藤原陽は、三条燈色に看取られながら死んでいった。
枯れ落ちた櫻が花開くことなく、誰ひとり救われることはなかった。
少年は、幾度となく心折られ、幾度も打ちひしがれた。
でも、それでも。
少年は、膝をつき、倒れ、慟哭を上げても――前へ進んだ。
たったひとりの少女との口約束を守るために。
数千万の世界を探し歩き、ついに諦めた陽の代わりにこの可能性を見つけた。
2億5432万3162。
2億5432万3162の並行世界を渡り歩き、彼は、ようやく三条櫻が咲いている世界を見つけ出した。
そして、その可能性を並行世界移動させ――払暁叙事に実在した思い出として残した。
――やくそくを
たったひとりの少女へ。
――まもりにきたよ
咲いた櫻を見せるために。
「ど、どうして……どうして、そこまで出来るのですか……なぜ……なぜ、そこまでしてしまったのですか……あ、あなたは……あなたは……」
陽が死ぬ運命は覆せない。
カバネもヨウもセイも、そして光も。
きっと、この後、死ぬ定めにある。
全員が生き残る世界なんてものは、最初から存在していない。
これは、ただの光景。
払暁叙事が垣間見た、あり得たかもしれない幸福の一瞬。
三条燈色がどう足掻こうとも、終わってしまった物語をハッピーエンドに覆す方法などない。
「ぁああ……ぁああああ……っ!!」
滂沱の涙を流しながら。
嗚咽を漏らし、陽は地面を引き掴んで己の不甲斐なさを嘆いた。
「どうして……どうしてぇ……っ!!」
だから、彼は選んだのだ。
己が廃人になるほどの負荷を受けることになったとしても。
この光景を得るために。
生きている六人が、全員で、櫻を見上げるこの瞬間を得るためだけに。
少年は、2億5432万3162の世界を歩いた。
辛かっただろう、苦しかっただろう。
何度も。
何度も、諦めようと思った筈だ。
だって、救えないから。
この光景を得たところで、現在、笑っている全員は死ぬ定めにあるから。
死すべき人間になにかを与えてどうしようと言うのか。
でも、彼は諦めなかった。
気が遠くなるような時間の中、彼は、ひとり歩き続けた。
――約束しよう
その運命は覆せなくとも。
――俺が、君が帰る場所を作るよ
たったひとりとの約束を守り、誓った少女の笑顔を視るために。
――笑うんだ
三条燈色は、きっと、笑って進んだ。
「…………」
陽が、世界を照らしている。
そのあたたかな燈色を受け、やさしい彼の眼差しを感じながら。
涙をこぼした陽は、幸福を享受する。
その頭上で、満開の三条櫻は咲き誇る。
六人の家族は、この瞬間を共有し――陽の眼に追憶が流れ込む。
それは、遠い彼方の記録。
払暁叙事という眼を通して繋がれた家族の輪郭。
春が来て櫻が咲くと、家族を連れた彼はやって来る。
次の年も、その次の年も、その次の次の年も。
藤原、三条、徳大寺、西園寺……隔たりなく、彼の家族は揃って櫻を見上げた。
永い時が経って。
陽の眼は、ひとつの家族を視た。
陽に似ている女の子もいれば、屍の生まれ変わりみたいな男の子もいて、夭や星にそっくりな姉妹が追いかけっこをしていたり、ライゼリュートの人形を持った光に酷似した少女が椀に浮かべた櫻の花びらを眺めていた。
髪は白くなりシワだらけになって、車椅子に乗り、子や孫に連れられた老人が櫻の樹の下へやって来る。
彼は、眠っているようだった。
ぽたぽたと、涙滴が落ちる。
ぼやける視界の中、陽は、飽きることなくその姿を見つめる。
永遠に、この美しい光景を視ていたいと思った。
ふと、彼は眼を開ける。
眼と眼が合った。
綺麗な燈色の瞳と眼が合って――微笑んだ彼は、震える小指を立てる。
「ありがとう……」
声を震わせながら、陽は、立てた小指を伸ばす。
この眼にありありと残っている、たったひとりのあなたとの約束を辿るために。
「やくそく……まもってくれて……ありがとう……ようは……ようはどうぐじゃなかった……あ、あなたがおしえてくれた……あなたが……あぁ……ひいろ……」
この日、この時、この瞬間。
やさしい燈色の光に包まれ、2億5432万3162の世界を超えて――
「さくらは……さいた……」
この話にて、第十七章は終了となります。
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