その手の先へ
教室の後ろには、生徒たちの父母が並ぶ。
この日を待ち望んでいたレイは、後ろへ振り返り母の姿を見つけて手を振る。
化粧をしているキレイな母は、こちらへと手を振り返してくれた。
しかし、父の姿はない。
「はい、では、今日は皆さんに書いてきてもらった『将来の夢』を読み上げてもらおうと思います。読める人〜?」
はいはいはーい!!
教室のクラスメイトたちが盛んに手を上げる中、首と背を伸ばして後方を窺っているレイは父の姿を探し求める。
前向いて、前。
そうささやきながら、微笑んでいる母はレイへとジェスチャーをする。
その微笑ましい光景を眺め、レイの母の両隣にいた父母たちは微笑を浮かべた。
「お父さんは……?」
「後で来るから大丈夫。ちょっとお仕事で遅れてるって」
「本当に来てくれる?」
「来る来る、だいじょーぶ、だいじょーぶ」
一番後ろの席だったレイは、不安を隠せずに後方の母と会話を交わした。
授業参観中に娘と大っぴらに会話するわけにもいかないレイの母はささやき声だったが、まだ幼いレイにその辺りの道理はわかっても実行に移すことは難しい。
「藤原黎さん」
戯けた様子で、黒板の前の先生はレイを呼んだ。
「今から、チヒロちゃんが作文を読むからおしゃべりは禁止です。お母さんとのおしゃべりは、お家に帰ってからゆっくりしてね」
「す、すみません、すみません……!」
「あ、いえ、お母様というかレイちゃんに」
顔を赤くして謝るレイの母と先生のツッコミを受け、教室中が笑い声で包まれる。
頬を膨らませたレイは前を向いて、両足をぶらぶらとさせながら「ごめんなさい」と謝り先生は「はい、では、チヒロちゃんの作文を聞きましょう」と授業を進行する。
窓の外には、青い空が広がっている。
開け放たれた教室の窓からはそよ風が入り込み、窓の近くに座っている子どもたちの後ろ髪をそよそよと揺らした。
「しょーらいの夢! 一年A組、あんどうちひろ!」
大きな声で、ハキハキと作文が読み上げられる。
作文の音読が終わった後、拍手の音が教室を包んだ。
「じゃあ、あとふたりに読んでもらおうかな……読みたい人〜?」
はいはいはーい!!
我先にと、子どもたちは立ち上がらんばかりに(一部の子どもは立ち上がり)前のめりになって手を挙げる。
ちらりと、レイは後ろを見た。
父の姿はない。
「…………」
くしゃりと、レイの手の中で作文用紙が折れ曲がる。
「じゃーあ……一番、早かったアルバちゃん! 大きな声でお願いします!」
「やったー!!」
机に両手をつけてぴょんぴょんと跳ねながら立ち上がり「しょーらいの夢!! わたしのしょーらいの夢は!!」と叫んだアルバちゃんに対し、慌てて先生は「あ、お名前! お名前を言わないとダメだよ!」と制止して、またもや教室は笑い声に包まれる。
「おとーさん、読んでいーい!? だいじょーぶ!?」
「先生に聞きなさい、先生に! お父さんに聞かないで! 前だよ、前! 前向いて読むんだよ!」
アルバちゃんとその父の大きな声のやり取りに、笑い声はさらに大きくなった。
その様子を見て、レイはくるりと振り返る。
「ぉかーぁさん……!」
「レイ、レイ! アルバちゃんの発表始まるよ! ほら、前向いて!」
両目に涙を溜め今にも泣きそうな我が子を見て、ぎくりとしたレイの母は懸命にレイの意識を逸らそうとする。
「…………」
汗ばんだ手の中で、原稿用紙がよれよれになる。
下唇を噛んだレイは「おとーさん、ぜったい、来るって約束した……!」と口に出して言い、隣の席の友人が「レイちゃん、おとーさんまだ来ないの? うちのパパとママに電話してもらう?」と気遣いを口にする。
また、レイは後ろへ振り返る。
寄り添いあったアルバちゃんのお父さんとお母さんは、どこかハラハラとしながらも柔らかい笑みを浮かべていて「上手だなぁ」「だって、練習してたもの」「おっきくなったね」「うん、あっという間」と声を交わしながら頷いている。
「……おとーさん、来ない」
レイは、ぐしぐしと手の甲で目元を擦りながらつぶやく。
「おとーさん……来なぃ……」
溜まった涙が零れ落ちそうになり――拍手の音に混じって扉が開いて、汗だくになったレイの父はキョロキョロとしながら入ってくる。
扉の近くにいた子どもたちは、急に現れた新しい大人へと振り返る。
教室の後ろに並んでいた父母たちも、それとなく遅れてきたレイの父へ注意をやった。
何度も頭を下げながら、レイの父はレイの母の横へと並ぶ。
「遅いよ! 何回も電話したのに!」
「いや、電車の中だったから」
「ずっと前から、授業参観のお知らせあったでしょ! レイ、楽しみにしてたんだよ!」
「わ、わかってるよ……でも、斎藤さんが病欠になっちゃって。技師が他にいなかったんだ。長いこと育休も使わせてもらったし断れないよ」
「それ何回も言うけど! 育休って何年前の話!?」
「ほんとにごめん! ほんとにごめん!!」
ささやきながら、怒声を浴びせる母と平謝りの父。
レイの父母の両隣に並ぶご両親たちは、聞こえないフリをしながらも犬も食わないやり取りを聞いて微笑む。
「レイ……! レイ……っ!!」
授業中に話しかけないの!
というレイの母の注意を他所に、服の袖で汗を拭いながらレイの父はレイに声をかける。
「読んだか? お父さん、間に合った?」
「…………」
「レイ……レイ……?」
コレでもかと、頬を膨らませているレイは怒りのためにわざと無視する。
おろおろとうろたえているレイの父は「な、なんで無視するんだ?」とレイの母に尋ね「わかるでしょ」とすげなく返される。
「レイ……レイ、ごめん……次の土曜日、パフェ食べに行こう……レイが食べたがってた桃のヤツ……ごめんな……ホントにごめん……今日の夜、ボードゲームもやろう……お母さんにお願いして、少し夜ふかししても良いようにするから……」
「…………」
「レイ、ごめぇん……レィイ……!!」
「レイちゃんのおとうさ〜ん? 授業中ですよ〜?」
青筋を立てた先生に注意され「すいません!」と声を上げるなり、レイの父は背筋を伸ばした。
「はい、では、最後! 誰か読みたい人〜?」
たくさんの手が挙がる。
原稿用紙を握ったまま、レイはくるりと振り返り父を見つめた。
見つめられた父は、笑いながらこくりと頷く。
「うーん、誰にしようかな〜?」
小さく手を挙げている子や後ろの席の子を見逃さないために、歩きながら生徒たちを確認し始めた先生は声を張り上げる。
「…………」
前を向いたレイは、震える手を挙げようとし――下ろした。
「じゃあ、ユミちゃん!」
自分の両親の視線を背中に感じながら。
俯いて背を丸めたレイは、机に刻まれている一本線の傷を見つめていた。
*
「作文、読みたかったんじゃないの?」
「…………」
「お父さんに聞かせてあげるんだ〜って、張り切ってたじゃない? 良かったの?」
「…………」
授業参観の後。
家に帰ったレイは、心配そうな母に何も言えずに黙り込む。
「レイ」
隣に座った父は、優しくレイの頭を撫でる。
「作文なんて、読んでも読まなくても良いんだ。重要なのは、レイがなにをしたいかと思い考えて行動することだからな。だから、レイが選んだことであれば、お父さんはそれで良かったと思ってるよ」
「…………」
「作文、読みたくなかったか?」
「…………読みたかった」
消え入りそうな声でレイはそうつぶやき、ちらりと父の顔色を窺う。
「なら、なんで?」
「…………なまえ」
瞬間、父と母はぎくりと身体を凍らせる。
「なまえ……『さんじょう』なのか『ふじわら』なのか……どっちが正しいのかわかんないから……この間、来た人、『ふじわら』って言ったら、すんごくおこってた……まちがえたら……先生におこられるかなって……」
「…………」
「…………ごめんなさい」
父は、そっとレイを抱き寄せる。
うっ、うっと、嗚咽を漏らしたレイの背をぽんぽんと叩きながら父はささやく。
「……レイの好きな方で良いんだよ」
ガタリと音を立てて立ち上がり、なにか言おうとした母を父は制止する。
そして、父はレイの両肩に手を置いて目を見つめる。
「次の授業参観では手を挙げて、自分が選んだ名前を言いなさい」
「……良いの?」
「あぁ、それで良い」
「あなた……」
涙ぐむ母へと父は微笑みを向ける。
「三条も藤原も、この子には関係ない。いずれにせよ、そろそろ決めなければ」
「でも……」
父は母に向かって首を振る。
再度、父はレイへと向き直った。
「レイ、よく聞きなさい。将来、レイが大きくなった頃には、お父さんもお母さんもレイの傍にはいられないかもしれない。もし、レイが迷子になっても、お父さんもお母さんも探しに行ってあげられないかもしれない。辛いことや酷い目に遭った時、薄暗くてジメジメとしたところでレイはひとりぼっちになってしまうかもしれない。誰も、レイのことを助けてくれない時が来るかもしれない」
父は微笑む。
「そんな時は手を挙げて」
父は。
ゆっくりと、おおきく、片手を上へと挙げる。
「授業参観の時みたいに、おーきく、手を挙げる。そして、自分の名前を言うんだ。思い考えて行動に移す。レイ、お前はレイなんだよ。神様だろうと仏様だろうと、世界の支配者であろうと、レイがレイであることを妨げることは出来ない。辛くて泣きそうな時、挫けそうな時にはこのことを思い出して手を挙げるんだ。
そうしたら――」
涙を滲ませた両目、震える声で父は言った。
「絶対に……お父さんとお母さんはレイを見つけてみせる……たとえ、お父さんたちが、どんなところにいようとも……レイがレイである限り……お父さんたちの娘である限り……必ず……レイのことを見つけるよ……だから……」
父の声が響く。
「手を挙げて」
*
朧車の残骸の中から。
一本の手が伸びる。
血で汚れ、指が曲がり、爪が剥がれた、お世辞にも綺麗とは言えない手が。
ガラガラと音を立てながら瓦礫は崩れ、その只中から、血と汗と埃でまみれた全身がよろけながら立ち上がる。
気配を感じ、倒れ伏していたネズミは視線を動かし――眼前の光景に目を見張る。
切れた頭からは出血し、黒い長髪の半分は赤色に染まっている。
ズタズタに敗れた衣服から覗く肌は青紫色の挫傷で染まり、細かい切り傷から出てきた赤黒い血の凝固が始まっていた。
反対方向に折れた左腕の肘からは、肉を突き破り橈骨がはみ出している。
小刻みに震える両足のうちの左足首は捻じ曲がって使い物にならなくなり、片足立ちの姿勢になりながら懸命に立っている。
満身創痍の少女。
手が――挙がっている。
割れた窓から射し込む日の光を浴びて、真っ白な光の中で青白い手が浮かぶ。
「…………」
顔が上がる。
この傷だらけの中、不自然なくらいに綺麗な顔が世界へ浮かび上がる。
「…………」
懐かしい夢を見ていたレイは、涙を零しながら光の中へと微笑みかける。
「………はいっ」
光に射されて、彼女は返事をした。
残骸の下から引っ張り出した陽炎を杖にし、ひょこひょこと、捻じ曲がっている足首を庇いながら。
ひとり、立ち上がる。
「やめておけ、死ぬぞ……そこまでしてなんになる……すべてが終わるまで残骸の中で寝ておけ……ココで貴女が立ち上がろうと立ち上がらまいとなにも変わらない……なにも変わらないのに……ッ!!」
ネズミは、顔を歪める。
「なぜ、立った……!?」
血を流し、ふらつきながら、レイはネズミを見つめる。
「意味があるとか意味がないとか関係ない……道行く人に親切をしたからといって世界は変わらない……今更、仲睦まじく過ごしたとしても、三条、徳大寺、西園寺、藤原の妄執が消えることはない……授業参観で手を挙げても挙げなくても……きっと、私の両親は死に三条に預けられ人形として生きることとなる……なにひとつとして……なにひとつとして変わることはないのでしょう……でも……ッ!!」
歯を食いしばりながら。
彼女は、閉じ込めていた内心を吐露する。
「これからすることが無意味だとしても、なにひとつ意味を為さないとしても、私がすべきだと思うからそれをすべきなんだ……世界がどれだけ変わろうとも、どこの誰であろうとも、私が私であることを妨げることは出来ない……だから……ッ!!」
叫声の中で、ひとつ、挙がった手が握り込まれる。
「私は、手を挙げるッ!!」
光に見守られながら、大きな声でハキハキと――
「三条黎ッ!!」
私は言った。
「参りますッ!!」
その視線の先、遥か彼方で魔人と相対している兄へと――彼女は微笑んだ。




