ネズミのよまいごと
白髪の少女が立っていた。
彼女は、庭園に植えられた一本の櫻の樹を見上げている。
「今年は咲きましたか?」
侍衛頭として任命されて早二年、眼前にいる白髪の少女……三条屍に拾われた恩を返すため、家族を持たず自由も捨てて、ただひたすらに出世に邁進した彼女はその後姿へと声をかける。
「…………」
枯れ落ちた櫻を見ながら、カバネは首を振った。
「今日は冷えます。中に入られては……」
「ネズミ」
カバネは、侍衛頭のことを『ネズミ』と呼んだ。
カバネの古い知己に『ネズミ殿』と呼ばれる男がいて、その男にどこか似ているということが理由だった。
カバネがネズミを見る目には、様々な感情が宿っている。
その眼差しに籠もった情動は、好意的なものではなく嫌悪的なものに近かった。
本来であれば、ネズミとカバネには謁見すら許されない身分の差がある。にもかかわらず、カバネがネズミに身の回りの世話をさせて付き人扱いしているのは、カバネが核としている妄執によく似た感情を身から離さないためなのではないかと、その視線を感じる度にネズミは思っていた。
「おれは、辿り着けるだろうか」
目には視えない櫻の花びらを、手のひらで受けるかのようにして。
眼の前に手のひらを差し出し、カバネはつぶやく。
「おれは……おれは、三条を手に入れるために全を犠牲にした……おれに恨みを抱く人間を数えればキリがないだろう……何人殺して何人苦しめたのか、最早、罪の意識を感じることすら出来ない……時を経る度に鈍り削られ麻痺していく……未だに、おれは『ひいろ』を待っている……約束を遂げる時を……待ち望んでいる……」
風が吹いた。
起立するカバネは目を見開く。
「夜半、目が覚めて想う……おれがしてきたことは、すべて間違いだったのではないか……誰よりも、自分たちを道具として使う人間を恨み憎んできたにもかかわらず……現在、おれは同じことをしている……妹ひとり救うためだけに、それ以外のすべてを道具として見做し使い捨ててきた……」
振り返ったカバネは、ネズミを目の中に収めて言った。
「この道の先で……櫻は咲いているのか……幾度も……幾度も引き返す機会はあったのに……愛してくれた妻を悪逆無道の下へと嫁がせ無惨に死なせた……生まれたばかりの赤子に毒をもって殺した……賊たちが親切にしてくれた若夫婦を犯し殺すところを見過ごした……『カバネ様』と呼び慕ってくれた子どもたちが焼き殺される姿を肴に仇と酒を飲んだ……すべて……すべてすべてすべて……三条のため……妹ひとりを救うため……辛酸を嘗め苦渋を呑み血反吐を漏らした……けれど想う……未だに想うのだ……『大昔に死んで、最早、顔貌すら憶えていない妹のことなど忘れれば幸せになれる』と……そう想った時、ハッキリと視える……払暁叙事のないおれでも視えた……」
右腕を失ったカバネは風を受け、その右袖がぱたぱたと揺れる。
「おれへと伸びてくる妹の手が」
失った物を数えるかのように、カバネは喪失した右腕の残像を見下ろす。
「顔や姿はぼやけても、その手だけはくっきりしている……だから、おれは辿り着かなければならない……そして、見つけなければ……おれの妹を……あの手を……あの手を握るのだ……そのために……おれは……」
「私は、貴方に大恩があります」
ネズミは言った。
「私を拾ったのは、ただの気の迷い……いや、貴女が忘れつつある過去を思い出すための道具として使うためだったのかもしれない。けれど、私は、食べる物も着る物も貴方にもらった。三条という家をくれた。私を野鼠から家鼠にしてくれたのは貴方だ。だから、私は、この命を三条に費やす。貴方が幾千を殺し幾万を虐げたとしても、最期の最期まで、この命を三条に捧げましょう」
一匹のネズミは、与えられた軒下で笑みを浮かべる。
「貴方がその手を握るその時まで……私が道具として使い潰される最期まで傍におります」
「あぁ、視えるよ……」
微笑んだカバネは、苦しそうにつぶやく。
「あの子の手が……視える……」
屋敷の中へと入っていったカバネを見送った後。
ネズミは、ひとり、枯れ落ち死んでゆく櫻の樹を見上げていた。
*
意識が――戻る。
朧車の座席に寝かせられていたレイは、瞬きを繰り返して眠気を遠ざけ、自身の両手足が縛られていることに気付いた。
「お目覚めですか」
カバネが『ネズミ』と呼んでいた侍衛頭から声をかけられ、レイは身じろぎしながら口を開く。
「……ここは?」
「弐号車の中です。30分ほど意識を失っておられました」
「……お兄様」
ぼんやりとしていたレイの意識が、兄の姿を思い描いた瞬間に覚醒する。
「お兄様は!? 私、キリウ、カオウ、お兄様、全員がひとつの車両に集められて、その後、直ぐにライゼリュートを使ってキリウがお兄様を攻撃し始めて……ど、どうなったんですか……!?」
「ご安心ください、ヒイロ様はご無事です。私も同じ車両に潜んでおり一部始終を拝見しておりましたが、運良く……というより、神がかり的にヒイロ様はライゼリュートからの急襲を回避いたしました。ヒイロ様とキリウ様は数手交えた後に朧車の上へと上がり、エイデルガルトはカオウ様を回収、私はレイ様を保護させて頂きました」
「保護……」
兄が無事であることを知って人心地がついた途端、レイは自身の状況を顧みて苦笑交じりに両手足を揺らした。
「コレが保護ですか? ご当主様の飼いネズミは冗談もお上手とは芸達者なことで」
「やむを得ない処置です。縛り上げなければ、貴女様はヒイロ様を追って自ら死地へと飛び込むでしょう?」
「……スノウをさらったのも貴女ですか?」
「信じてもらえないかもしれませんが関わりなきこと……カバネ様が死に、私はまた野鼠へと戻りました。今更、三条のために出来ることは限られている」
「なるほど」
なぜ、ネズミが自分を縛り上げたのか。
理由を察したレイは、自分を縛っている魔道具らしき縄を座席の座面に擦り付ける。
「三条のためですか。お兄様を次代の三条家当主にするため、敵対している私の身柄を拘束し無力化した。巫蠱継承の儀に参加していない貴女が私を殺しても儀の効力は発揮されない、だから、生かしたまま拘束しお兄様に私を殺させる案を検討中……といったところでしょう?」
「聡明な御方だ」
「貴女は、聡明とは程遠いようですけれどね」
レイは、眼前の敵を見据えてせせら笑う。
「お兄様が私を殺すとお思いですか?」
「思いませんよ。しかし、ヒイロ様が貴女をレイ様だと判断出来なかった場合、もしくは、なんらかの事故で貴女の殺害に加担してしまった場合はどうでしょうか? 例えば、現在、貴女が乗っている朧車を無人だと勘違いし破壊してしまった……とか」
思わず、レイは動きを止める。
マズい……気を失っていた時間が長過ぎた……私なのかカオウなのか、分家の連中の手口、列席者の空き枠にねじ込まれていたのか……巫蠱継承の儀の舞台となる平安異京に空き枠を介しての潜入、三条以外の参加者を害することを目的としていたのは確実……キリウ、カオウ、私、各々に対する排除方法を事前に考案していた筈……とはいえ、侍衛頭の権限では儀が始まる前に朧車に仕掛けを入れることは不可能……ともなれば、私を拘束した後、準備を推し進めたと考えるのが自然……30分……なんらかの仕掛けを入れるには十分過ぎる時間……!
顔色を読まれたのか、ネズミは微笑を浮かべる。
「では、お達者で」
「待ちなさい!! ぐっ、待ってッ!!」
レイの制止の声を聞くわけもなく。
立ち上がったネズミは、参号車へと向かって貫通扉を開き――眼前に立っている少女を見て、ぴたりと動きを止める。
大量の汗を流しながら、開いた扉の先にいたミュールは斜め上方向へ視線を向ける。
「「…………」」
ゆっくりと、ミュールは扉を閉めた。




