悪の味方
踏み出した俺の前に霧雨が立ちはだかる。
咄嗟に刀を振ると、ひらりと躱した彼女は宙空へと身を投げる。
「おっとっと、こわいこわい」
両手をポケットに突っ込んだまま落下していった霧雨は、画から現れた仏像の掌に乗って浮上する。
「霧雨……」
俺は、キリウを見つめる。
「お前、何時から陽と示し合わせてた」
「ぼかぁ、悪役が語る悲しい過去ってのがきらいでねぇ……なにしろテンポが落ちるでしょぉ? 現在の世代は、わかりやすいカタルシスだけを求めていて、だらだらと長くて堅苦しい脇役の過去編なんてものは望んじゃいないんですよぉ」
つまんだゼリービーンズをしげしげと眺めながら、キリウはぼそぼそとしゃべる。
「悪は悪、それで良いじゃないですかぁ。理解なんてのは不要だぁ」
「解するのを諦めた人間は、いずれ、思考を止めて奴隷へと成り下がる。そんなの人の好き好きだが、俺は、丹念に過去編を読み込んだ上で百合カップルの成り立ちから浸るタイプだ。恋より◯くの中で、各キャラクターが歩んできた過去を匂わせるシーンとかあるけど、そういうのもめっちゃ良いよね……」
「ひとりで、シッチャカメッチャカしゃべるのやめてくださりますぅ? あんた、人に自分の好きを押し付けるタイプでしょぉ?」
己を語ろうとしないキリウは、俺の表情を覗き込みクツクツと笑う。
「おんやおや、顔面に疑問符が浮かんでいるぅ……人間を人間たらしめる好奇と疑惑が入り混じった絶妙な表情だ」
胸ポケットからマルボロを取り出し。
トントンと箱の尻を叩いて、飛び出してきたタバコを咥えた彼女は微笑する。
「坊っちゃんの次の問いかけを予測しましょう……『なんで、お前に陽が視えてる?』、『なぜ?』、『どうして、払暁叙事を持たない徳大寺のお前に陽が視える?』。くくっ、なぜなぜなぁぜって、疑問が心奥から踏み出している。大プリニウスの命を奪ったのは、ウェスウィウス山が起こし給うた自然現象を求めた好奇心……Helter skelter, hang sorrow, care'll kill a cat, up-tails all, and a louse for the hangman」
煙を吐きながら、彼女は朗々と暗誦する。
「Curiosity killed the cat」
俺は煙に向かって、笑いながら切り返す。
「But satisfaction brought it back」
一瞬、表情の動きを止めたキリウは口元を片手で隠し楽しそうに笑う。
「坊っちゃん、やはり、あんたはそういう類の人間だ……あんたぁ、猫と同じようにして藤原陽も生き返らせるつもりで?」
「…………」
「そうだ、あんたの思う通り、そんな好都合は存在しなぃ……この世界はありとあらゆる人間でひしめき合っている。普段は視えてはいない。けれど、河原の石を引っ剥がして、その裏側に蝟集しているダンゴムシを見つけた時のように、ふっと、意識して視た瞬間に世にはこんなにも大勢の人間が潜んでいたのだと気付かされる。自分は、自分の大切な人間は、人類という大きな枠組みの下では、あまりにもちっぽけでちんまりとしてちんけな代物に過ぎないのだと、この世界は数多の人たちの意思で廻る歯車式で、個々の意志ひとつで廻る歯車の数はたかが知れているのだと」
指と指の間で、緋色のゼリービーンズが押し潰される。
「だから、だからねぇ、坊っちゃん、ぼかぁ、思うのですよ。全てを犠牲にすれば、たった一人は救えるのではないかと。他人の意志であったり生命であったり権利であったり……そういった他者が持ち得る尊厳をなにもかも無視すれば、棄却すれば、生贄にすれば、たった一人を助けるのは非常に簡単なことなのではないかと」
黙り込む俺の前で。
自身の吐いた白煙で、顔面を隠した徳大寺霧雨は両目を見開く。
白色の煙の中から、緋色の目玉が覗き込む。
「もし、全を救い個を見捨てることを正義と言うのであれば、個を救うために全を見捨てることを悪と呼ぶのでしょう。で、あれば」
それは、まるで、贄の血を吸って艶めいている断頭台のように視えた。
「ぼかぁ、悪の味方で在りたい」
いつの間にか、燃え尽きていたタバコの燃えカスが空を流れる。
キリウは、鳥が羽ばたく準備をするみたいにして両手を広げる。
バタバタと、音を立てながら。
強風に吹かれたスーツの両袖が揺れながら音を立てる。
「巫蠱継承の儀は次代の三条を定める儀式……イカれちまったライゼリュートは、最早、『三条』の言う事しか聞かない。藤原陽の望みすら叶えてはくれない。だからねぇ、坊っちゃん、ぼくにはこの場が必要だった。長い長い年月を重ね、雌伏し、苦悶しながら耐え忍んできた。なぜか、なぜか、なぜかぁ……実にシンプルな回答をこの場にて提示しましょう」
指が一本。
疾風の只中で、俺ひとりを指した。
「お前だよ、正義の味方」
俺は、無言で、彼女の緋色の瞳を見つめる。
――正当な藤原の眼を持っている貴様らがぁ
徳大寺霧雨は、藤原の魔眼である払暁叙事を持ってはいない。
だとしたら、どうやって、彼女は払暁叙事が再現している陽との対話を行っていたのか?
――現代の三条家には『払暁叙事を簡易的に再現するレンズ』が存在していました
そうか、コンタクトレンズ……レイが言っていた『払暁叙事を簡易的に再現するレンズ』を使って、キリウは陽と出逢い協力関係へと至った。
「ぼかぁ、あんたを倒すために現在へと至った」
「おいおい、随分とお熱じゃねぇかよ、キリウちゃん。なんで、そこまで俺にこだわってる? わざわざ、俺に三条家の成り立ちを見せ、屍が絶望し陽が死ぬ姿を見せつけた理由は? 三条の血を継いでいる俺の存在が巫蠱継承の儀に必要だったとしても、儀の最中、サイコロ状に俺を斬り刻んだ瞬間に『巫蠱継承の儀に勝利し三条を継ぐ』という目的の一端は達成出来てた筈だ。レイを強制開眼させて、俺が体験した再上映に同行させ、『俺が生きている世界』へと平行移動させる必要はなかった……どころか、三条燈色を殺して儀に勝利するという目的に反している筈だ」
「なんとなく理由はわかるでしょぉ?」
「いいや、わからないね。ライゼリュートの『理から外れている三条燈色を利用し愛を知る』という目的に反しているからとも思ったが、イカれちまっているアイツは、最早、本来の目的を見失って暴走している。お前と協力関係にある陽の躊躇いが生んだ結果とも思ったが、あの場に陽がいなかったってことは恐らくお前ひとりの独断専行……ともすれば、その理由はお前の心奥に潜んでいる」
彼女は、ゆっくりと口角を上げる。
そして、空を見上げた。
この異界に空いた漏斗状の穴の先、その先にしか視えない快晴を。
「……ぼくとあんたは似ている」
その口から、つぶやきが漏れる。
「あまりにも似過ぎている。だから、見過ごせない。あんたの心を折る必要があった。真の意味で、正義の味方を倒す必要があった。そうでなければ。そうでなければ、ぼくは……ぼかぁ、その先へ進めない」
ゆったりとした動作で。
彼女は、真っ青な空へと中身のタバコごと空箱を放り捨てる。
次から次へと。
徳大寺霧雨は、ポケットの中に仕舞い込まれていたお菓子も捨てていった。
そして、最後に。
緋色のカラーコンタクトレンズを外した彼女はそのレンズを放った。
風に乗って。
二枚のレンズは宙空へと消える。
彼方へと――彼女の持ち得る全てが失せていって。
霧雨は微笑んだ。
「来いよ、正義の味方」
緩めたネクタイが風にさらわれる。
使い古された赤色のネクタイは、居所を求めどこかへと去っていく。
「ぼくとあんた、どっちが勝るか……運試しと行こう」
無言で。
俺は彼女へと――刃を向けた。




