2億5432万3162を超えて
静。
すべての音が止んでいる。
暗。
すべての光が沈んでいる。
無。
すべての気が死んでいる。
「…………」
意識を失っていた。
いや、陽の阿尾舎法によって顕現(再現)されていた俺は、唐突に彼女との接続が切断されたことで『一時的に記録映像が途絶えていた』状態になっていたと表現した方が正しい。
「…………」
当然ながら無傷。
この世界での実体はもたず、飽くまでも、払暁叙事に蓄えられた記録を視ていただけに過ぎない俺の身体には傷ひとつない。
「……クソが」
己の全身を検めた俺は、暗がりの中で舌打ちする。
もう少し早く気がつくべきだった……陽は既に払暁叙事の自然開眼に成功していた……払暁叙事の強制開眼は血の色が混じるので緋色……それに対し、自然開眼を遂げた払暁叙事は血が混じらない綺麗な燈色になる……三条家が秘匿してきた自然開眼の条件を満たし、魔眼に収められていた固有魔法を発動してしまったのだろう。
あの一瞬。
あの一瞬で、陽は恐らく払暁叙事の固有魔法を発動した。
そして、同時にライゼリュートの権能である平行時空仮構論もまた発動していた。
固有魔法の暴発? その余波による破壊か?
俺は、落ち着き払っていた陽の表情を思い出す。
――ありがとう
いや、あの表情、まるでアレは……。
たった数十秒の反芻、けれども、正気を取り戻した俺は周囲を見回し――呆けた。
「…………コレは」
水。
水が満ちている。
「なんだ……?」
先程まで、眼前に広がっていた火は水へと変わっている。
自身の足首を埋めている水面は、さざ波を立てて、くるぶしを撫でながら去っていく。
「…………」
視界を埋めていた建造物は消え、人々の悲鳴と喧騒もまた失せている。
どれだけの時間、俺は意識を失っていた……いや、別の場所へ飛ばされたのか……?
俺の推測は、明確な証拠を前にして崩れ去る。
「櫻……」
枯れ落ちた櫻の大樹。
100メートルから200メートルはあろうかという巨躯をもつ櫻の樹……陽と屍たちが開花を切望していた三本の櫻は、寄り添い合いながら実在し、未来、三条櫻と呼ばれることとなるその大樹はココが平安京であると記していた。
――『平安異京』か
アルスハリヤの言葉が蘇り、俺の全身がぞくりと粟立った。
――鬼門の数が多すぎるとは思ってたが、こんなことになるとはねぇ
「現界と異界の重ね合わせ……」
――彼奴、藤原以外の人間を滅ぼすつもりらしい
道長が……道長が狙っていたのはコレか……なぜ、道長が平安京に六柱の魔人を集めたのか……根本的な考えを誤っていた……アイツは、現界と異界の重ね合わせのために六柱の魔人をすべて集めたんじゃない……『どの魔人が現界と異界の重ね合わせを行えるかわからなかった』から、すべての魔人を京に集めたんだ……。
――日月神隠しでもなければ、現界と異界の重ね合わせは悲劇しか生まないということか
道長は、現界と異界の重ね合わせを行うことの出来る魔人が日月神隠しだとは知らなかった……いや、原作通り、認識することすら叶わなかったのか……そして、現界と異界の重ね合わせを容易とする『大量の鬼門がある』という前提条件のみが満たされ……道長以外の誰かが重ね合わせを実行に移し失敗した……。
「その結果が……」
現異の重ね合わせに破綻し、人も物も溶け落ちた静謐を前に俺は言葉を失った。
「長和六年の禍か」
誰が、その所業を行ったのかは明白だ。
――やはり、ライゼリュートはセンスがないな
魔人、ライゼリュート。
――ありがとう
しかし、あまりにもタイミングが……だとしても、なぜ、そんなことをする必要があるんだ……なぜ……。
「な、ない……どこにもない……どこ……どこぉ……?」
長和六年の禍の衝撃で負ったらしい頭の怪我には目もくれず、ライゼリュートはひとり、地面に手を這わせてなにかを探している。
そこで、俺は、ようやく正気を取り戻した。
「レイ!!」
がむしゃらに、俺は、妹の姿を追い求める。
程なくして、屋外で気を失い半ば水中へ没していたレイを見つける。
当然、俺と同様に過去を視ているだけのレイに命の危険はない。
「…………」
そこで、ようやく、俺は雨が降り始めていることに気が付いた。
ぽつぽつと、雨が降っている。
黒い。
黒い雨だ。
燃え続ける平安京から巻き上げられた泥、埃、煤を吸い込んだ雲は、ぽつぽつと粘り気のある大粒の黒い雨を降らした。寝たきりの老人が最期に漏らした絶息を思わせる雨粒は、ぼたぼたと大地を穢し、何時しかザーザー振りの豪雨へと変わる。
黒い。
黒い、黒い、黒い。
なにもかもが黒く染まっていく。
天は白。
地は黒。
世界はモノクロへ変わる。
「…………」
立ち尽くした俺の視界に赤色が加わる。
眼前。
崩壊した家屋の下から、赤い赤い色が染み出してくる。
「うっ……あっ……あぐっ……」
屋根と梁で左半身が押し潰されている屍は、必死で千切れた右腕の根本を伸ばし続けている。
その先には、少女がいた。
「…………」
崩壊に巻き込まれ、首から下がぺちゃんこになった陽は口の端から血を流しながら空を見上げている。
「…………」
どんどんどんどん、命が流れ続けている。
「陽様……陽……よう……よぉお……っ!!」
血反吐で塗れた顔で血泡を吐きながら、カバネは懸命に存在しない右手を伸ばす。
「よぉお……よぉお……っ!!」
幾ら伸ばしたところで。
その先は存在しない。
虚しい努力は続いて、彼は死んでいく少女を見つめる。
「だ、だいじょうぶだ……お、おれが……あ、あにさまがたすけてやる……ぜ、ぜったいにたすける……お、おれは……おれは、もううばわれない……」
「……あにさま」
「さ、さくら……さくらをみにいこう……やくそく……やくそくしたから……」
「あにさま」
瓦礫から、へし折れた指先が覗く。
その細い指先が、痙攣しながら兄の方へと向いた。
「て……て……にぎって……あ、あにさま……さ、さむい……こわい……て……あにさま……ど、どこにおられるのですか……ひ、ひとりにしないで……かくれんぼ……み、みつけて……」
「ぉお……ぉおお……っ!!」
肉が剥がれる音が響く。
びちゃびちゃと音を立てながら、死に物狂いでカバネは切り株のようになった右の根本を伸ばし――反対側へと引きずり出される。
「まだ生きとるのがおったぞ! 助けてやれ!」
「もうひとりの女童はダメだ! 諦めろ!」
あたかも選別されたかのようにして、奇跡的に災禍を免れた二人組の男が一気呵成に人命救助へ励む。
「よせ、やめろっ!! やめろぉ!!」
暴れ回るカバネは瓦礫から救い出され、泣きじゃくりながら引きずられていく。
「よぉお!! よぉお!! みつける!! かならずたすけにくる!! お、おれが!! おれがこんどこそたすける!! なにをしても!! なにを犠牲にしたとしても!! おれが!! こんどこそ!!」
彼は絶叫する。
「おまえの手をにぎってやる!!」
声が遠ざかる。
また、世界は静まり返る。
「…………」
膝をついた俺は、陽の手に己の手を重ねる。
実体を持つ彼女と実体を持たない俺の手が重なることはない。
それでも、俺は、彼女の手に手を重ねた。
「しきがみさん……」
最早、目は視えていないのか。
デタラメな方向を向いた陽は、震えながら苦しげに息を漏らした。
「ふ、ふつぎょうじょじのしぜんかいがんのじょうけんは……で……しぜん……ひつようなときにひらきまする……だいじょうぶ……ようがひらきましたから……もうすこしで……しきがみさんはかえれますよ……おうちへ……」
「もうしゃべらなくていい」
彼女は微笑む。
「ふ……ふふ……ようは、さいしょからしぜんかいがんのじょうけんをみたしていた……まじんのむすめなどおおうそ……もっともたいせつな……ようは、もう、うしなっていたのですね……うしなったからもとめた……もうすこしで……もうすこしで、てにはいったのに……しきがみさん……ようは……」
そして、彼女は目を見開き――燈色――払暁叙事は開眼し、ゆっくりと少女は涙を流した。
「あ……あぁ……っ!!」
俺を見つめ、彼女は頭を振る。
「ど、どうして……どうして、そこまで出来るのですか……なぜ……なぜ、そこまでしてしまったのですか……あ、あなたは……あなたは……」
滂沱の涙を流しながら、彼女は両手を振り回した。
「ぁああ……ぁああああ……っ!!」
嗚咽を漏らし、その小さな手が地面を掻きむしり掴んだ。
「どうして……どうしてぇ……っ!!」
なにかを言おうとして、でも躊躇って。
それから、彼女は――ささやく。
「ありがとう……」
瓦礫に潰された、陽の小指の先端が揺れ動く。
「やくそく……まもってくれて……ありがとう……ようは……ようはどうぐじゃなかった……あ、あなたがおしえてくれた……あなたが……あぁ……ひいろ……」
目を細め、小さな女の子は天を仰ぐ。
「さくらは……さいた……」
静かに、ひとりの人間は動かなくなる。
最期に、俺へ『ありがとう』と伝えてくれた女の子は死んだ。
「…………」
降りしきる雨の中で。
俺は、ひとり、触れることの出来ない過去を握り続けた。
この話にて、第十六章は終了となります。
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