幾千万越しの万感
ゆっくりと、陽は振り返る。
目と目が合った光栄は、会心の笑みを浮かべ――その笑いは消える。
「なぜ」
お返しと言わんばかりに。
光栄の胸の中心に赤芭蕉の葉を叩きつけた陽は咒を唱える。
「ナモハキャバチ・ロタラヤ・シンナゴウハラヤ・サバビナエンカラヤ・サツバセツトロビナシャナヤ・オンカバラシツルシンナカバラブロ・ロトロキニョウハヤテイ・ソワカ」
ブシュッ、と音を立てて、赤芭蕉の葉が蒸発する。
瞬間、膝をついた光栄の穴という穴から血が溢れ出した。
苦悶の表情を浮かべた彼は、自分の息の根を止めるであろう少女を見上げる。
「……………なぜ」
「確かに、貴方様は陽の虚をつきました。けれども」
陽は、再度、振り返る。
その視線の先には、微動だにしなくなった黒い肉塊があった。
「魔人の虚はつけなかった。魔人の目的は、魔神に言いつけられた『ひいろ』を見届けること……つまり、陽自身による払暁叙事の自然開眼。ココで死なれれば困ることになりまする。然らば、陽の胸に『画』を開いて臓器の位置をズラすくらいはやってのける」
多少、肺は傷つけたのか。
再び、こふっと血を吐いた陽は、袖口で赤色を拭って言った。
「おさらば」
光栄は、ふっ、ふっ、と笑う。
最早、目は視えていないのか、あらぬ方向へと視線をやった彼は赤黒い目玉でささやく。
「いやはや……こうして、死を迎え入れる間際になってみると……なぜ、こんなことに躍起になってネズミのように駆けずり回ったのか……道を誤った道長を正し、藤原を乗っ取り、雲霞のごとき人々を救ってどうなると言うのか……そも、道行く民らの心には下らぬ下心しかあらぬ……誰それを貶したい……誰それを殺したい……誰それを犯したい……ネズミ……そう、まるで、喰い害し犯すネズミの群れと変わらんではないか……私が救おうとした全には……救う価値などあったのか……陽……陽姫……あなたも、近いうちに私と同じ道を辿るだろう……全の道具……人類の道具となって働いて……絶望の最中で死ぬこととなる……ふふっ、そうか……陰陽の術を扱う私にも今更ながらにわかったぞ……」
血を吐きながら、彼は嬉しそうに笑った。
「わたしは……おれは……のろわれていたのか……」
そして、哀れな男は最期の呪いを吐いた。
「だれのこころをよんでも、どこにもみつからなかった……にんげんの……ただしさに……さいごの……さいごまで……」
ゆらりと、上体が下がる。
絶命した光栄は、なんの表情を浮かべることもなく、瞳孔を開いたまま地を見据えていた。
「……陽は、同じにはなりませぬ」
唇を噛んで拳を握り込んだ陽は、焼け落ちた館跡から湧いてきたネズミに集られ始めた『鼠』の死骸へと吐き捨てる。
「陽は道具にはなりませぬ……魔神の道具にも……藤原の道具にも……そして、人類の道具にも……」
「陽様……」
ふらりと、ライゼリュートから下りてきたカバネは陽を抱き締める。
「よかった……本当に……よかった……」
おずおずと、陽も抱き締め返す。
数十秒の抱擁の後、陽の視線に促されたカバネは光の運んできた遺体をそっと彼女の前へと下ろそうとし――陽に留められる。
「冷たい地面に下ろすのは失礼に当たりまする……近くの家屋へ」
連れ立って、俺たちは焼損していなかった屋敷へと入る。
改めて、俺たちは床に下ろされた光を囲んだ。
「式神さん」
くるりと。
振り返った陽は、にっこりと笑った。
「お別れの儀と相成りました」
苦笑して、俺は、自身の首筋を撫でさする。
「大手を振るって、『藤原陽』を観賞させてもらったよ。ほぼほぼ、役に立てなくて悪かった。でも、もうお前はひとりで大丈夫そうだしな……これから、どうするんだ?」
「兄様と京を出まする。けれど、兄様が仕出かしたことが仕出かしたこと……如何にして償えば良いのか、嘘偽りのない心を吐露すればひとつも思いつきませぬ。これから、ゆっくり、考えていければと」
「あぁ、そうだな」
落ち窪んだ眼窩、爛々と光る眼でカバネは虚空を凝視している。
この後、彼は生きる『屍』となるのか、何時か、その身に受けた呪いの代償を払うこととなるのか……もしくは、彼と陽が望んだ『櫻』を共に眺める優しい時間が訪れるのかは彼女ら次第だろう。
俺が視ているのは、払暁叙事に蓄えられた記録の時間。
最初から最後まで、俺に干渉出来る時間帯は存在しない。
「極意書様が強制開眼した払暁叙事は、死という衝撃で開いたままになっておりまするが、何時、閉じてもおかしくはありませぬ。早速、始めまする……ライゼリュート」
飽くまでも、カバネの意志による虐殺を望んでいたライゼリュートは借りてきた猫のように大人しい態度で権能を発動させる。
人型に戻っていた魔人は、胸の中央に宿っている魔眼を開眼する。
刹那、ライゼリュートの全身がブレ始め――光の遺体と目を合わせた陽を経由して、払暁叙事を自然開眼させる方法を索引するための並行処理が始まる。
「数分もあれば、終わりますよぉ……」
「式神さん」
陽は手を差し出す。
笑って、俺は、その手を握った。
――握った。
「……お兄様」
かぼそいレイの声が心臓を叩く。
猛烈な。
嫌な予感に促されて、俺は、勢いよく顔を上げる。
そして、視た。
未だに払暁叙事の強制開眼を続けている陽を。
「陽」
俺は、ささやく。
「お前……何分……いや、何時間、強制開眼を続けてる……?」
燈色。
緋色ではなく燈色へ変わっている。
「…………」
あたかも、別人へと生まれ変わったかのようにして。
燈色の眼を開いた陽は、慈愛に溢れる微笑を浮かべてつぶやいた。
「これでもう大丈夫」
この一瞬で、大人びた彼女は言った。
「兄でもなく父でもない……たったひとりの貴方へ」
陽の両目は、神々しい払暁に包まれて――
「ありがとう」
俺は叫――ぶち撒けられた閃光と静音が世界を包み込んだ。




