某高校生の災難
その日は何の変哲もない、ただの金曜日だった。
センスも才能もないけれど何となくで入部した美術部の活動で放課後を潰し、もうすぐ完全下校時間だという頃には鉛筆一本で仕上げた、男とも女ともつかぬ誰かの後ろ姿が描き上がっていた。紙の中に閉じ込められた後ろ姿は、怒っているような、それでいて泣いているような、変な感じがした。
「相変わらず変な絵しか描けないな」
幽霊部員ばかりの美術部で、まともに活動しているのは、部長と、同じクラスの幼馴染、それから俺だけ。今日は二人とも用事があって休んでいるから、俺の自虐に「そんなことはない」と言う人はいない。
……別に、言ってほしい訳じゃないけど。俺は心から、自分の絵が趣味の悪いものだって思ってるし。
「あ~ら、綺麗な絵じゃない。惚れ惚れしちゃうわぁ」
幽霊部員ばかりの美術部で、まともに活動しているのは、部長と、同じクラスの幼馴染のみ。今日は二人とも用事があって休んでいるから、俺の自虐に「そんなことはない」と言う人はいない、筈だった。
美術室の静寂を破った甘ったるい女性の声に、思わず顔を上げる。彼女は窓辺に佇んでいた。橙色に輝く夕日に思わず目を細める。しかし、その女性の奇異すぎる恰好は、逆光の中で俺に目を見開かせた。
まず第一に、髪が奇抜なピンク色だ。目がチカチカするような髪色に、頭の片隅で、そういえばストロベリーブロンドっていう天然のピンク髪があるんだっけ、なんてことを思い出す。でも、これは明らかに人工的な色だ。
そしてこれまた凄いのは、その服装だ。着ている白いワンピースは、元は清楚なものであっただろうに、赤、青、黄、と絵の具で汚したかのようにカラフルで、継ぎ接ぎだらけだ。油絵の作業着だって、ここまでは汚れないだろう。
つまり、どう考えても学校関係者ではない不審者だった。
「この影のある後ろ姿、スキよ。もうだぁ~いスキ」
「貴女、誰ですか」
やっと絞り出した声はとても硬いものだった。そんな俺を、彼女は焦点の合わない目で嗤う。――瞬間、ぞくりと寒気がした。
「アタシ? アタシの名前はアリッサよ。アリーちゃんって呼んでね」
「……アリッサさん、ですか。それで貴女はここに何の御用でしょうか」
「んもう、サン付けなんて固いわねぇ。でも、そうねぇ……強いて言うなら、悪者退治、かしら?」
「……悪者?」
俺が小首を傾げると、アリッサは「くふっ」と楽しそうな声を上げた。
「そう、悪者よ。そのコってばとっても悪いコなのよ。悪いことをしたことも知らずにのうのうと生きてるの。ねっ、悪いコでしょぉ?」
「……はあ、そうですね」
「ねえ、アタシ、そのコを探してるのよ。見つけたら主様のトコに連れ帰って、泣き喚いて犬みたいにプライドをなくしちゃうまで苛めて天誅を下すんだけどぉ。アナタ知らない?」
「さ、さあ……何ていう人なんですか、それ」
狂気じみた言葉に冷や汗が流れる。さっさと出て行ってくれないかな、と思いながら適当にそんなことを訊いてみると、アリッサは額に手を当てた。
「あらら?何だったかしらぁ?確か、あ、あ、あ……――そうだったわ、蒼井千隼ってコよ」
あおい、ちはや。
「アナタ、知ってるかしら?」
笑顔で問いかけてくる彼女。俺もそれに応えて笑った。
「さあ。やっぱり知らないですね。ああ、俺、もう行かなくちゃいけないんで。失礼します」
机の上に散らばった文房具を素早くペンケースに詰めながら早口で告げる。早くここから出ろ、と本能が警鐘を鳴らしていた。
この人は危ない。これ以上関わるべきではない人種だ。早く逃げろ。早く、早く――!
「あ~ら、駄目じゃない」
俺がバッグを肩に掛けて彼女に背を向けると、背中に声が突き刺さった。甘ったるい声なのに、それは剣呑さも含んでいて。恐る恐る振り返ると、そこに立っていた彼女は、
「嘘吐きは泥棒の始まり、っていうでしょぉ。ねえ、蒼井千隼クン?」
大きな斧を振り上げて、ニイ、と口角を吊り上げていた。
「っ!?」
その時感じたのは、心臓を鷲掴みにされたかのような感覚。この人は俺を捕食せんとする肉食獣なのだと直感した。
俺は無意識の内にバッグを捨てて美術室を飛び出し、そのまま廊下を駆けた。キュッキュッという上履きの底が擦れる音に紛れて、彼女の声が廊下に反響する。
「あ~ら、鬼ごっこ? イイわよぉ、アタシそういうのだぁ~いスキ! ああ、ゾクゾクしてきちゃったぁ……!」
恐ろしさでただ走ることしかできなかった。この女は何者だ。何故俺がこんな目に。理不尽さへの苛立ちすらも、恐怖に飲み込まれていく。
もつれそうになる足に必死に鞭を打ち、屋上へと続く階段を無我夢中で駆け上がった。
「くふっ、上へ逃げるなんて馬鹿なコねぇ、まるで袋のネズミチャンだわ!」
先程より彼女の声が近い。気のせいではない、確実に彼女は俺との距離を詰めている。このままではいずれ捕まる。捕まったら最後、俺は――
『見つけたら主様のトコに連れ帰って、泣き喚いて犬みたいにプライドをなくしちゃうまで苛めて天誅を下すんだけどぉ』
「くそっ……! なんでこんな目にっ……!」
ぎり、と奥歯を噛み締める。彼女の言う通り、このままでは追いつめられる一方だ。それでも、進む方向は上しかない。だから走る、上へ、上へ――!
音を立てて勢いよく屋上の扉を開け放つ。ここまで着てしまえば逃げ場はない。助けてくれる人もいない。もういっそ飛び降りてしまおうか。
――しかし、そこには少女がいた。
校舎内にも誰もいなかったから、屋上だって誰もいない筈だと思っていた。しかしそこには少女がいて、しかも彼女は、妙に浮世離れしていて。
だから。だから俺は、追われている現状も忘れて彼女に見入ってしまった。
「やっほー、初めまして」
風に吹かれるのは艶やかな黒い髪と、黒いローブ。
「鬼ごっこしてるんでしょ。私も仲間に入れてほしいなー、なーんて」
前髪の間から覗く細められた蒼い目は、間違いなく俺を見つめていた。