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蒼い死神の日常

 ヒュプノス・キャッスル。それは空間の狭間にひっそりと佇む死神の砦。死を象徴する漆黒の古城。

 そこに所属する死神達は日々、彷徨える人々の御魂を天へと導く……つまり、生を終えた魂を回収するという職務をこなしている。

 週休零日。暇なときはとことん暇だが、忙しいときは超過酷労働を一ヶ月ぶっ通しの月もある。長期休暇は申請すればもらえるが、色々な要素を総合して鑑みても、割に合わない。死神に人間の労働法は適応されないのだ。

 そして、人の住む世から近くて遠い場所、空間の狭間に存在するこの黒い古城には、今日も一仕事終えた社畜、もとい死神達が報告のために集まっていた。


「死神番号()、アーソルド、報告します! 本日午前八時三十二分、日本にて、交通事故で亡くなった東野光博の魂、無事回収したっす!」

「ご苦労。今回、お前の担当地区は先進国が多いから事故も必至だ。これからも仕事が増えるだろうが頼むぞ」

「うっす!」


「死神番号(はち)、エフィー。報告致します。新疆ウイグル自治区の暴動で死亡したアラファト・ジランの魂、無事回収しました」

「エフィー、お前はここ数日本当によく働いてくれた。ゆっくり休め」

「ありがとうございます」


 大広間、『眠りの間』の最奥の玉座に膝を組んで座る男に、次々と報告をする死神の同僚達。

 次は私が報告する番だ。男の足元に跪き、忠誠の証に両手を組む。


「死神番号()月読つくよみかざり、報告します。本日十一時……くらいに……イランだったかイラクだったか、えっと……あ、すみません、ちょっと確認させて下さーい」


 断りを入れてから、支給されている死神専用黒衣の懐に手を突っ込み、手帳を取り出す。栞の挟まったページを開き、今日の任務内容を確認する。最近は物忘れが多くてどうもいけない。今日起こったことと昨日起こったことが、全てごっちゃになる。


「えっと……あ、はい。大丈夫です、思い出しました。ごほんっ、では改めて。死神番号()、月読かざり、報告します。アメリカ合衆国のチャーリー・アレクサンダーさんの魂を無事回収です」

「そうか、それは何よりだ」


 直後、物凄い勢いで固いものがぶつかる音がする。見ると、私がつい先程まで跪いていた大理石の床、ちょうどその位置に目掛けて漆黒の死神の鎌が振り下ろされていた。敷かれていたワインレッド色の高そうな絨毯は、ざっくりと切れてしまっている。私がとっさに後退するのがあと少しでも遅ければ、お陀仏だった。


「おい、まだ下がって良しとは言っていないぞ」

「うわー、陛下酷いですね。跪いて忠誠を誓ってる無防備な部下に向かって刃物を向けるなんて」

「お前が無防備な部下なら、今頃生きてないだろう。報告も満足に出来ない落ちこぼれが」


 ふん、と鼻を鳴らし、その美しい顔を歪ませる彼。彫像のような顔の造形も、性格の悪さが出てしまえば台無しだ。


「というか、この絨毯っていくらくらいするんですかねー? もったいなくないですか、陛下?」

「少なくともお前の給料二十九倍分の価値はあるな。それより何度言わせる?僕の名はチェーザレだ、陛下はやめろ」

「うっはー、そんなもんに穴空けられるなんて陛下金持ちですね。あ、そうだ。今度どっかに連れてってくださいよ、驚愕ドンキーっていうファミレス気になってるんですよねー」

「ほう……僕に奢らせるつもりか」

「かざりさん、御辞めなさいな。チェーザレ様、申し訳ございません。かざりさんはチェーザレ様に構っていただきたく、困ったちゃんになっているのですわ」

「はいそこー、捏造しないでくれるかな、エフィーちゃん」

「なんだかざり、構ってほしいのか」

「はいそこー、冗談に乗らないでくださいますか陛下」


 輝かしい笑みで陛下を諌めるエフィーちゃん。エフィーちゃんの言葉に、にやにやしながらこちらを見る陛下。どちらも気に入らないことこの上ない。冗談に乗るというか、調子に乗るなよお前等。このかざりちゃんをからかうなんて千年早いわ。


「ちょっとちょっとアーソルド君よ。キミからも何とか言ってよ。この人達、勘違いも甚だしいんだけど」

「……っえ?オレっすか?」


 私はとりあえず、横で惚けていた死神の後輩である少年に話を振ってみる。

 彼はぱちぱちと瞬きを繰り返した後、馬鹿丸出しの顔でにへらと笑った。


「んー、みんな仲いいっすよね!」


 そんなこと訊いてないし、仲良くもないんだよ、脳筋馬鹿野郎くん。

 ああ、もう。私は人をからかうのは大好きだが、人にからかわれるのは死ぬ程大嫌いだ。という訳で、こういう時はさっさと退散するに限る。


「あー、気分悪いな。主に陛下のせいで。だからかざりはもう帰ります。んじゃ、そういうことなのでさよーなら」


 私は形だけの心の籠らない一礼をして、『眠りの間』を去ろうとする。すると、


「かざり、僕に構ってほしいんじゃないのか。遊んでやらないこともないぞ?」


 ……ほう。陛下の分際で私を挑発するとは、なんて命知らずな。


「陛下こそ、友達がいないからって私と遊ぼうとしないでくださいよ? あ、勿論ババ抜きは一人では出来ないんでお付き合いしますよ?」


 横目で陛下のこめかみがピクピクと痙攣しているのを確認してから、私はしたり顔で、今度こそ『眠りの間』から出て行った。やはり、人をからかうのは最高に楽しい。





 チェーザレ・ナイトメアフォード。私が陛下、という愛称――あくまで愛称だ、馬鹿にしている訳ではない――で呼んでいる彼こそ、ヒュプノス・キャッスルの死神達を取り仕切る、偉大なる死神の王だ。

 俺様何様死神様という問題アリの性格な上に、何処の王子ちゃまでちゅかー?と訊きたくなるような独裁者だが、一応、私こと月読かざりが下に付いても良いと思えるくらいには、優秀な死神である。でなければさっさと革命なり下克上なりしているだろう。

 普段は陛下に対して礼儀もへったくれもない態度で接している私だが、流石に彼を本気で怒らせてはいけないことぐらいは弁えている。

 死神達に恐れられつつも敬われる黒い城の主、それがチェーザレ・ナイトメアフォードなのである。……勿論、私も敬っている。ほんと、敬ってるよ。

 さて。私自身、自覚がある程のおざなりさだったあの報告(それが常)から一夜明けたその日、私とアーソルドは陛下からの呼び出しを受け、『眠りの間』への召集を命ぜられていた。


「おはようございます! かざりセンパーイ、オレっす、アーソルドっす!」


 早朝二時四十分。私の部屋の扉をノックしているのは、死神番号()、アーソルドだ。

 ベッドでごろごろと過ごしていた私は、遠慮無いノック音と呼び掛けに溜息を吐いた。朝っぱらから馬鹿でかい声で、近所迷惑もいいとこだ。とは言っても、空間の狭間にあるヒュプノス・キャッスルに近隣する建築物などないし、この近辺に部屋を持つ死神達は既に、任務をこなすために出掛けているのだが。


「ねえちょっと先輩! いるんでしょー! 召集に遅れたらチェーザレ様が怒っちゃうじゃないすかあ!」


 それにしても、陛下からの特別任務だかなんだか知らないが、かったるい。このまま今日は、自分の部屋から一歩も出たくない気分だ。

 

「お呼びになった部屋の主は現在、部屋から出ることができませーん」

「いやふつーにいるじゃないっすか。出て来てくださいよ!」

「お呼びになった部屋の主は現在、部屋から出ることができませーん」

「ちょ、なんで、」

「お呼びになった部屋の主は現在、貴方とお話したくないそうでーす」

「かざり先輩オレのこと嫌いなんすか!?」


 扉の向こうから聞こえてくる叫び声が、段々と涙声へと変わっていく。男のくせに情けない奴だとは思うが、少し可哀想だしそろそろ頃合いだろう。ということで、部屋の扉を開けてやった。

 そこに現れたのは癖っ毛でぴょこぴょこ跳ねている日に焼けた髪と、くりっとした愛嬌のある二重の目を持つ少年。十六という外見年齢の割に童顔だが、髪と同じ色の眉は意外にも凛々しい。そのあどけない表情には、喪服のように黒い死神の黒衣はアンバランスだ。


「もーっ、やっと開けてくれたっすね。改めておはようございます!」


 がばっと勢いよく頭を下げる体育会系死神、アーソルド。


「おはようって、さっき朝礼で会ったばかりじゃなかった?」


 深夜零時に行われるにも関わらず朝礼と呼ばれるその集まりは、毎日『眠りの間』で行われるものだ。総勢十人の死神が集結し、陛下から任務の指示を受ける。任務中でヒュプノス・キャッスルを離れている死神以外は全員、出席を義務付けられているものだ。

 私とアーソルドは先刻、その場で陛下から命を受けたのだ。


『死神番号()、アーソルド・カリーニン、死神番号()、月読かざり。以上の二名は午前三時、再びここに集まること。それまでは自室で待機だ』


 あの陛下のことだ、とんでもなく面倒な任務を課してくるに違いない。ああ、社畜はつらいよ。

 しかし、いくら面倒でも、私がヒュプノス・キャッスルに属する死神である以上、役目は果たさなければならない。


「……はあ、面倒だな」

「なっ、そんなこと言わないでくださいよかざり先輩!」

「大丈夫大丈夫、心配しなくても準備するって」


 あー怠い。怠過ぎる。怠いけど、行くしかない。私は基本ちゃらんぽらんで不真面目を絵に描いたような奴だが、割り振られた仕事すらしない馬鹿には成り下がったりしない。不真面目であっても、愚かであってはいけないのだ。

 私は振り返って自分の部屋を見渡した。物で溢れて雑然としている部屋の中から、ある物を探し始める。

 探し始める、のだが、


「……あっれー」

「どうしたんすか?」

「いや。私、死神の黒衣何処にやったかなーって思ってね」


 朝礼に着て行って、帰ってベッドに寝転がった時にぽん、とその辺に置いた筈だ。


「ちょ、ちょちょちょ、かざり先輩?」

「どうかした?」

「どうかするっすよ! あの黒衣って、死神の証である大切な物じゃないっすか、失くしたらチェーザレ様に怒られますって! もしかして死神追放かも……!?」

「まっさかー、また作ればいいでしょ」

「作る!? つ、作れるんすか!?」

「作れるよ。黒い布を買ってきてちょきちょきちくちくすればいい」

「んなアバウトな!」


 まるで自分が追放されるかのように焦るアーソルド。彼はこう言っているが、黒衣を失くしたくらいで追放されるなどあり得ない。悪魔やら天使やら、敵対勢力と揉めて黒衣が切れたり燃えたりするケースはいくらでもあるのだから。

 陛下が告げた召集時刻は午前三時。今から黒衣を探せば、それには遅れてしまう。……が、


「ま、探してもいっかなー。顔面真っ青のアーソルドを見てるのは面白いし」


 物だらけの私の部屋を必死に漁るアーソルドの後ろ姿を見て、そう呟いた。




「……ってゆーのが、召集に遅れた主な要因ですかね」


 所は変わって『眠りの間』。私はアーソルドがベッドの布団に紛れていたのを掘り出してくれた黒衣を身に纏い、陛下にそう告げた。ちなみにアーソルドは、私の後ろでぜぃぜぃと肩で息をしている。


「っ、はぁっ……かざり先輩の部屋、汚過ぎるっすよお……」

「むっすー。失礼だね、女の子の部屋を汚いだなんて」

「安心しろ。誰もお前を女子とは扱っていない」


 紅い目に同情の色を湛えてアーソルドを見つつ、断言する陛下。どいつもこいつも失礼だ。

 陛下は嘆息してから、壁に掛けられた大型時計にちらりと目をやって「さて、」と仕切り直した。


「遅れたといってもたった二分だ、不問としよう。ただし、朝礼には絶対に遅れるなよ。特にかざり、お前は一番の古株で、僕の右腕だとかなんとか騒がれてるんだからな」

「さっすが陛下、海より広いお心で」

「茶化すなかざり。但し、これから課す任務を必ず成功させるようにな」

「で、その任務って何やるんですかね?」


 私が尋ねると、陛下は表情を少し硬くした。どうやら深刻な話らしい。アーソルドが緊張するのは勿論、私ですら居住まいを正した。陛下の纏う雰囲気には、そうさせるような力があった。そして、陛下が放ったのは――


「罪なき罪人の御魂を救う」


 そんな、矛盾のある言葉だった。


「……はい?」


 真っ先に首を傾げたのは私である。


「陛下、それおかしくないですか?罪のない人のことを罪人呼ばわりって。冤罪ってことですか?」


 隣から「えんざいってなんすか?」と訊いてくる阿呆は置いといて話を進めることにする。


「冤罪……ということになるな、僕達から見れば」


 僕達から見れば。それはつまり、他勢力と関係してくる問題であるということだ。数ある勢力の中で三大勢力として挙げられるのは、天使、悪魔、そして私達死神である。

 悪魔という生き物は、実に狡猾で打算的だ。言葉巧みに人間を騙し、その魂を奪い、そして喰らう。

 一方天使は、清き魂が生まれ変わる手助けをし、穢れた魂に天誅を与える者達である。

 こう言えば聞こえはいいが、天使とは油断ならない連中だ。

 天使の使命は、迷える御魂を救い生まれ変わる手伝いをする私達死神と一見似ているように思えるが、実はその信条は対極のところにある。

 清き御魂も罪深き御魂も、双方に安らかな眠りを得る権利はあると考える、一言で言えば博愛主義の死神と、罪深き魂には転生の資格はない、と輪廻のサイクルから外そうとする天使。

 実際のところ、私達は悪魔より天使と対立する方が多い。

 しかし、個人的な意見を言うと、私は悪魔の方が嫌いだ。同族嫌悪というやつである。言葉で煽るのも唆すのも、悪魔より上手くやれる自信がある。

 そして、今回は恐らく、


「天使絡み、でしょ、陛下?」

「――ああ。あの鳥頭達がまた騒ぎ出してな」


 鳥頭……ああ、天使は翼があるから、鳥なのか。

 陛下は天使を嫌う。曰く、私たちの対立は何百年か何千年か前に、陛下が天使と大喧嘩したからだとかそうじゃないとか。つまり陛下はねちっこく恨みを忘れないタイプということだ。


「それで今回、お前達に保護してもらいたい人間がいる」


 陛下はそう言うと、羽織っていた上着の内ポケットから四つ折りにされた一枚の写真を取り出した。

 それを受け取り広げると、写真には学生らしき少年が収められている。身体的特徴から見るに、東洋人だろうか。少し気怠い表情で友人と語らいながら歩いていた。歳の割に大人びた顔をしている。


「この人っすか?というかそもそも、これ何処の写真ですか?」

「中国か、韓国か、日本とか?」

「え、なんで分かるんすか?」


 またもや頭の弱い発言をするアーソルドに、私は懇切丁寧に説明をする。


「この手の人種はまぶたに蒙古ひだとかって呼ばれる覆いがあるんだよ。それからアジア系の中でも服装の傾向とかで大体は特定できる。多分この人は、日本人かな」

「へえ~、凄いっすねえ、そこまで分析できるんすか」


 何年死神やってるんだ、お前は。

 呆れを交えた視線でアーソルドを見ていると、ふと、その横顔に懐古の色があることに気付いた。

 そういえば、彼は日本と縁のある死神だった。つまり、死神になる以前の人間だった頃、日本で暮らしていたのである。だというのに何故、母国の民の見分けがつかないのかという点について、私はもう突っ込まないことにした。


「アーソルド……お前は他に比べれば新参だが、一応死神になって六十年くらいは経っているだろう」

「え?あ~……そうっすね、七十年は経ってるかも、あは、あはは……」


 乾いた笑いを上げるアーソルドを冷視する陛下。ちなみに、九人の死神と、トップに君臨する陛下ことチェーザレで構成されるヒュプノス・キャッスルの中で、陛下を除けば私が一番の古株になる。逆に、アーソルドは一番の新参者だ。


「良い加減学習しろ」

「は、はい、善処します……」

「ふん。――で、話を戻すが。写真の男は蒼井あおい千隼ちはや十七歳」

「あ、オレより一つ上っすね!」


 早速話の腰を折るアーソルドを陛下がもうひと睨み。アーソルドは萎縮して小さくなった。


「……続けるぞ。日本の関東地方にある某高校の二年生。彼は前世でとある罪を犯した。それも大罪級の。が、その御魂が天使によって裁かれることはなかった。僕等死神によって天へと導かれたからな」

「それが天使が蒼井クンを狙う理由、って訳ですか」


 罪を犯した御魂が生まれ変わり、のうのうと生きている。天使からしたら面白くない状況だ。彼らは魂の大粛清だ! とかいうスターリンも真っ青な野望に燃えているのである。


「そういうことだ。前世に犯した罪など蒼井千隼自身は預かり知らぬこと。彼を天使の手から保護、へヒュプノス・キャッスルへ連行する、それが今回の任務内容だ。何か質問は」

「はーい、質問です」


 手をひらひらと振り、私は陛下に疑問をぶつけた。


「今回の任務、どうして私とアーソルドのタッグなんですかー」

「お前等が一番暇そうだからだ」

「むっかー。酷いですね、私にだって都合くらいありますよ」


 軽口を叩く私を、陛下は面倒臭そうに見やった。


「おい、質問はそれだけか? だったらさっさと行ってこい」

「えー? じゃあ最後に一つ。蒼井クンが前世に犯した罪、ってなんなんですか」

「機密事項だ」

「……へえ、さいですか」


 ――陛下は本当に隠し事が好きですねえ。

 嫌味の一つでも言いたかったがやめておいた。ただ、本音を言えば、任務の全容が明かされないことへの不満はある。コマ扱いされるのは不愉快だ。

 全てを一人で考えて、指示だけを下す。その独断が気に入らない。……まあ、どうせいつものことだけどさ。

   私の物言いたげな視線に陛下は気付いていたが、何も言ってはくれなかった。


「……あのっ、先輩、チェーザレ様? どうかしたんすか?」


 アーソルドの心配そうな色を含んだ声音に、少しだけ溜飲が下がる。

 いけない。こんな下らないことで一々気を立てて、後輩の前で本性を剥き出しにするのは良くない。


「……いっやー、何でもないよ。ねえ、陛下?」

「……ああ。ともかく、そういうことだ。分かったら任務に向かえ。場所の詳細なメモを渡しておく」


 陛下も空気を読み、私と同じく何事もなかったかのように振舞ってくれた。だから私も、引き続き何事もなかったかのように、メモを受け取る。


「はいはーい、んじゃ――行って参ります、我が主よ」


 形式的な挨拶を済ませると、隣でアーソルドも慌てて跪いた。

 なんだか今日は、いつもにも増して任務が怠い。かったるい。やりたくない。

 こんな風に思うのは、きっと良くないことが起こる前触れだ。……いや、実際はただ本当にやる気が出ないだけなんだけどさ。





 空間の狭間にあるヒュプノス・キャッスルの周りは、いつも薄暗い。それは太陽が存在せず、光源は常に浮かんでいる二つの月のみだからだ。

 黒い城をぐるりと囲む立派な城壁は、二つの月に頼りなく照らされて、その存在感を主張していた。仰ぎ見てやっと天辺が見える程の高さである、暗くても存在感は強烈だ。


「うわあ……やっぱいつ見てもおっきい門すよねえ」


 唯一の出入り口、目の前に聳え立つ石造りの門を見上げて、アーソルドは感嘆の声を上げる。


「大きくなくちゃいけないんだよ、ここは。いつ、悪魔や天使が襲撃してきても大丈夫なようにね」


 こいつはここに来て何十年経ってるんだっけ……と無邪気なアーソルド反応を、遠い目で眺めながら解説をする。陛下の心労が少し理解できた瞬間だった。

 気を取り直して門に向き直り、短い呪文を詠唱する。


「“の称号を以て命ずる。開け”」


 辺りが一瞬だけ白く発光したかと思うと、巨大な門は低く轟き、十秒以上掛けてゆっくりと開いた。

 その先に広がるのは、水面に紅と蒼の月が映し出されている光景。そして、近くには小さな舟が数隻停まっている。その手漕き舟は、この空間から別世界へと行き来するための唯一の手段だ。

 昔とある人物に聞いたのだが、空間の狭間のみから見える、あの紅い月はヒュプノス・キャッスルの主であるチェーザレ・ナイトメアフォード――つまり陛下を。

 蒼い月は陛下の右腕と謳われる、蒼い死神の鎌を持つ者を象徴しているらしい。この蒼い死神の鎌というものは現在、全死神一番のの古株である私が継いでいる。よって私は蒼い死神、というイタイ異名をとっている訳だが、


「うっわー、ないわー……」


 なに仲良くお空に浮かんじゃってるんですか。陛下の隣に自分の象徴とか、何それキモチワルイ。


「かざり先輩」

「ん、何かなアーソルド後輩」

「何で虚空に向かって軽蔑の視線送ってるんすか……」

「あっれー、顔に出てた?」


 それ以前に、アーソルドが虚空なんて熟語知ってたことが一番の驚きだ。


「まっ、どうでも良いから舟出してよ」

「お、オレがっすかっ?」


 意外そうな顔をするアーソルド。いや、意外でも何でもないから。こいつは先輩に舟を漕がせる気か。


「当ったり前でしょ。いたいけな女の子に雑用させる気なの、キミは」

「またまたぁ! 先輩はオレは勿論、エフィー先輩とかジェッツ先輩よりも強いじゃないですかってうわっ!?」


 あははー、と能天気に笑うアーソルドの膝を軽く蹴って岸から突き落とす。よろめいたものの湖から落ちることはなく、舟へと前のめりに倒れ込む。アーソルドの顔面にぶつかったせいで、オールががたた、と音を立てた。落水しなかったのは非常に残念だ。


「はいはーい、何言ってるかちょっと意味分かんないからね。ほら、さっさと漕いでよ」

「お、横暴っす……」

「うっさいなー。とにかく、早く任務に行かないと天使サマ達に先こされちゃうの。そこんとこ分かってる?」

「分かってるっすよ。――じゃ、気を取り直して、行きますか! いざ、しゅっぱぁーつ!」


 結局は私に従い、素直にオールを漕ぐ後輩を見て、思った。やっぱりこいつは単純で使いやすい。

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