第六話 神の父、あるいは疫病神
静かな夜は、終わりを告げた。
翌朝、守の家を訪れたのは、警官の制服を着た男ではなかった。
長身で、高価なスーツを纏い、どこか冷徹な光を瞳に宿した男——名を「葛城」と名乗る人物だった。彼は孤児院の園長を説得し、俺たちの居場所を嗅ぎつけてやってきたのだ。
「久しぶりだな、繭。……いや、私の愛しい『神様』」
玄関先で、葛城は繭を見るなり、ゾッとするほど歪んだ笑みを浮かべた。
彼は繭の父親だという。15年前、妻が繭の異形に気づいて狂い、包丁を手にしたあの日、彼はたまたま仕事で邸宅を離れていた。そのため、唯一「概念消滅」を免れた生存者だったのだ。
「父……さん?」
繭は怯えたように後ずさる。俺はすぐさま彼女の前に立ち、葛城を睨みつけた。
「彼女に近づくな。あんたの目的はなんだ」
「目的? 決まっている。彼女の持つ『門』の力を、この世の理を塗り替えるために利用するまでだ」
葛城はポケットから、禍々しい紋様が刻まれた銀色の「拍子木」のような道具を取り出した。
彼がそれを地面に打ち鳴らすと、空気がビリビリと震え、繭の後頭部から黒髪がバサリと跳ね上がる。
「うっ……あぁぁぁっ!」
繭が頭を押さえて絶叫した。
髪の奥から、憎悪の化身である「裏の顔」が、苦痛に歪んだ表情で無理やり引きずり出されるように露わになる。だが、葛城の持つ道具の魔力に押さえつけられ、裏の顔は身動きが取れない。
——その時だった。
「……動くな。警察だ!」
家の背後に回り込んでいた、あの中年刑事が銃を構えて飛び出してきた。彼は長年の捜査で、15年前の更地事件と、繭の周辺で起きる不可解な消失を結びつける証拠を揃えていたのだ。
「その少女を離せ! 15年前の大量殺人事件の容疑者、糸巻繭の身柄を確保する!」
刑事の銃口が、震える繭へと向けられる。
それは、守りたかった「無知な平穏」の終わりを告げる決定的な瞬間だった。
「だめだ……っ!」
守が叫ぶ。だが、刑事に繭の事情など分からない。彼は引き金を引く構えを見せた。
「あ……あ……」
繭は混乱と恐怖でパニック状態に陥っていた。
彼女の脳内には、今、二つの声が響いている。
ひとつは、守が優しく語りかけてきた慈愛の記憶。
もうひとつは、裏の顔が吐き出す、世界すべてを焼き尽くしたいという憤怒の記憶。
その二つが、繭の中で強烈に混ざり合い、彼女の心に決定的な亀裂を入れた。
「……私のせいなの? 私がいるから、みんな消えちゃうの?」
繭が顔を上げると、その瞳は、もはやどちらが表でどちらが裏か分からぬほどに濁っていた。
葛城の魔具が砕け散る。
刑事が銃を撃つよりも早く、繭の後ろの髪が、部屋を埋め尽くすほどの漆黒の嵐となって吹き荒れた。
「あぁ……!」
刑事が、そして父親を名乗る葛城が、その「髪」に触れた瞬間、言葉を失って虚空へ還る。
俺は必死で繭の手を掴み、彼女を抱きしめた。
だが、今の彼女は俺の手温を感じていない。
背後の顔が、俺の首元で冷たく嗤っているのが分かる。
「ま……も……る」
それは、愛の言葉ではなかった。
俺をこの世界から切り離し、繭だけのものにするための、所有の宣告だった。
窓の外では、刑事の悲鳴も、葛城の傲慢な野心も、全てが消え去り、静寂だけが残った。
俺は、彼女を救ったのか、それともこの怪物をこの世に解放してしまったのか。
繭の長い黒髪が、俺の身体を蜘蛛の巣のように締め付け、離さない。
俺と繭、そして「それ」の、血塗られた逃亡生活が始まろうとしていた。




