第五話 二人だけの夜と、消えた邸宅
孤児院の老朽化した屋根の補修工事と、連日の警察の聞き込みによる騒々しさから逃れるため、園長先生の許可を得て、俺は繭を自分の家に一晩預かることになった。
「守さんのお家にお邪魔するなんて、なんだか緊張しちゃいます……」
小さな手提げバッグを抱え、控えめに玄関をくぐる繭。
二人きりの室内。可憐な少女が自分の部屋にいるという甘やかな情景のはずなのに、俺の胃は吐き気がするほどの緊張で固まっていた。
この家で、一晩。俺は彼女の「無知な平穏」と、その背後に潜む「神」の双方と向き合い続けなければならない。
夕食を終え、リビングで温かいお茶を飲んでいた時だった。
突然、玄関のインターホンが鋭く鳴り響いた。
ドアを開けると、そこには先日孤児院に来ていたあの若い刑事が立っていた。彼は俺の顔を見るなり、周りを警戒するように声を潜めた。
「糸巻繭ちゃんのことで、少し話がある。彼女には聞かせられない話だ」
俺は繭に「少し外で話してくる」と告げ、ドアの外へ出た。
「あの男の捜査の過程で、15年前の奇妙な未解決事件に突き当たったんだ」
刑事は古い事件ファイルをスマートフォンで表示し、俺に見せた。
「15年前の深夜、郊外の高級住宅街にあった資産家の邸宅が、一夜にして痕跡もなく消え失せた。建物も、家具も、中にいたはずの母親も……すべてが更地になったんだ。火災や爆破の跡すらなく、ただ空間ごと削り取られたように」
俺の心臓が跳ね上がる。
「……そして、その更地の中心にぽつんと取り残されていたのが、生後間もない赤ん坊——糸巻繭だった。現場には血痕すら一滴も残っていなかった」
刑事は神妙な面持ちで俺の目を見た。
「あの男の失踪と、15年前の惨劇。……あの子の周りでは、何かが『消える』。君も、深入りしすぎないほうがいい」
刑事が去ったあと、俺は玄関の前でしばらく立ち尽くしていた。
消えた母親。無に還された邸宅。
赤ん坊だった繭を産み落とした実の母親でさえ、彼女を殺そうとしたか、あるいはその異形に恐れをなして触れた瞬間に……「無」へと還されたのだ。
愛されるはずだった母親すら消し去ったという、残酷すぎる原初の惨劇。
「守さん……? 寒くないですか?」
部屋に戻ると、心配そうに繭が駆け寄ってきた。
俺は静かに首を振り、彼女を安心させるように微笑んだ。
「ううん、大丈夫だよ。……繭さん、少し髪を梳かそうか」
「あ……はい! お願いします」
布団を敷いた四畳半の部屋。繭は俺に背を向けて座った。
俺はそっと、夜の闇のように深い彼女の黒髪に指を差し入れ、左右に掻き分ける。
現れたのは、あの憎悪と悲哀を湛えた「裏の顔」だった。
俺は両手で優しくその白い頬を包み込み、ゆっくりとマッサージするように指を動かす。
(母親すら消したとしても……俺は逃げない。君を一人にはしない)
胸の中で誓いを立てながら、慈悲を込めて撫で続ける。
すると、いつもなら静かに目を細めるだけの裏の顔に、異変が起きた。
さらり、と濡れた黒髪が揺れる。
裏の顔がゆっくりと薄い唇を開き、かすれた、しかし確かな声で——
『……ま……も……る……』
俺の名前を、紡いだ。
(な……っ!?)
息が止まる。
言葉を発したのは、間違いなく目の前の「裏の顔」だった。
防衛本能としての怪物ではなく、俺の体温と愛撫に応えようとする、明確な「意思」がそこに生まれ始めていた。
「……あれ? 守さん……?」
前を向いている表の繭が、首をかしげて自分の口元に手を当てた。
「今、なんだか不思議な感覚がして……私、声を出してないのに、守さんの名前を呼んだような気がしました……」
「……っ!」
表の繭と、裏の顔。
二つの存在の境界線が、少しずつ、けれど確実に溶け合い始めていた。
「……気のせいだよ、繭さん。疲れてるんだ。横になろう」
俺は声を震わせないよう必死で隠し、繭を布団へ横たわらせた。
深夜。
隣に敷いた布団で、繭はすやすやと穏やかな寝息を立てている。
しかし、俺は一睡もできなかった。
月明かりが差し込む暗闇の中。
寝返りを打った繭の頭の後ろで、黒髪が優しく割れていた。
そこから覗く「裏の顔」は、眠る表の繭とは対照的に、パッチリと目を開けていた。
漆黒の瞳が、至近距離で横になる俺の顔を、じっと見つめている。
首筋に吹きかかる、冷たく静かな吐息。
逃げ出せば、一瞬で「無」へ消されるかもしれない。
けれど俺は、布団の中から静かに手を伸ばし、暗闇の中で裏の顔の頬にそっと触れた。
裏の顔は、俺の指先にすり寄るように、小さく目を細めた。
恐ろしい。けれど、愛おしい。
消された母親、迫る警察、そして溶け合い始める二つの人格。
崩壊へ向かって加速する日常の中で、俺は命がけの「添い寝」を続けながら、朝の訪れをただ祈っていた。




