第四話 迫る影と小さな刃
あの日以来、俺は毎日のように孤児院へと足を運んでいた。
表向きは「髪の重さに悩む繭の手入れを手伝うため」。だがその真実は、彼女の後頭部に潜む「裏の顔」を俺の手で穏やかに宥め、その覚醒を防ぐための命がけの作業だった。
しかし、平穏は長くは続かない。
「失礼するよ。警察のものだが……」
昼下がりの孤児院に、二人の私服警官が姿を現した。
あの夜、繭の部屋から跡形もなく「消えた」里親候補の男。彼の家族から捜索願が出され、最後に足取りが確認されたこの施設に捜査の目が向いたのだ。
若い刑事と、鋭い眼光を持つ中年刑事。
園長先生が対応する中、たまたま居合わせた俺と繭にも話が及んだ。
「君が糸巻繭さんだね。いなくなったあの男と、行方不明になる直前にトラブルがあったそうだが」
中年刑事が、繭の前に屈み込み、圧迫感のある視線を向ける。
「あ……はい。でも、あの人は急にいなくなってしまって……私、何も知りません」
胸の前で小さく手を握りしめ、怯えたように揺れる繭。その姿はどこからどう見ても、哀れで無力な被害者の少女そのものだった。
だが、俺の背中には冷や汗が吹き出していた。
繭の後ろ——腰まで伸びた黒髪の奥で、微かに「ドクン」と不穏な脈動が跳ねたのを察知したからだ。刑事を睨みつけるように、髪の隙間が小さく揺らめく。
(まずい……! この刑事がこれ以上、繭を追いつめたら……)
もし刑事たちがこの場で「消えて」しまえばどうなる?
痕跡が残らないとはいえ、警察官の連続失踪となれば孤児院は強制捜査を受け、繭は施設にいられなくなる。彼女の「無知な平穏」が崩壊してしまうのだ。
「刑事さん、彼女は本当に何も知りませんよ。あの夜、僕も近くにいましたが、男は自分でどこかへ走り去りました」
俺は咄嗟に割り込み、身を挺して繭と刑事の間に割って入った。
刑事を牽制しつつ、俺はこっそりと背中に手を回し、繭の頭の後ろ……黒髪の奥へとそっと指を滑らせた。
(落ち着け……怒るな……)
狂気に満ちた「裏の顔」の頬に指先で触れ、優しく撫でさすりながら、無言で許しを乞う。
俺の必死の宥めが効いたのか、背後の不穏な気配はかろうじて収まり、刑事に牙を剥くことはなかった。
「……ふむ。まあいい、何か思い出したら連絡してくれ」
不審そうな目を俺に向けつつも、刑事たちはひとまず去っていった。
危機を脱した安堵で、膝がガクガクと震える。
だが、試練はそれだけでは終わらなかった。
「なによ、いい気になって……!」
警察が去った直後。院内の廊下の陰から、繭を睨みつける一人の少女がいた。
繭より二歳年上の孤児、結衣だ。
彼女は以前から、綺麗で誰からも愛される繭に強い嫉妬を抱いていた。そして今日、警察に疑われ、さらに守に付きっきりで庇われている繭の姿を見て、抑えきれない悪意を爆発させたのだ。
「守さんも園長先生も、みんなアンタばっかり! なんなのよ、その気取った長い髪……!」
放課後の誰もいない作業部屋。結衣は繭を壁際に追い詰め、ポケットから裁縫用の大きなハサミを取り出した。
「嫌……結衣ちゃん、やめて……っ!」
「うるさい! その不気味な髪、あたしが短く切ってやるわよ!」
嫉妬に狂った結衣が、ハサミの刃をカチカチと鳴らしながら、繭の黒髪へ向かって刃先を突き立てようとする。
——その瞬間だった。
部屋の中の空間が、歪んだ。
激しい怒りに怯える繭の頭の後ろで、黒髪が大きく割れ、あの「苛烈な憎悪に満ちた顔」が、完全に開眼した。
結衣の手元——ハサミを握る腕の先から、すうっと存在の輪郭が薄くなり始める。
血も流れない。叫びも届かない。あの「無への消滅」が、結衣を呑み込もうとしていた。
(違う……! これは繭を守るためじゃない……!)
俺は叫びそうになる口を手で覆い、狂ったように駆け出した。
結衣が消されれば、繭は「友達を消した怪物」になってしまう。結衣の命を救うためではない。結衣という少女の嫉妬すらも一瞬で無に還そうとする「神の惨劇」を止めるために。
「やめろおぉぉっ!!」
俺は結衣を力任せに突き飛ばし、そのままの勢いで繭を抱きしめた。
結衣は床に転がり、ハサミを落として「な、なにすんのよ!」と怒鳴るが、自分が死の直前にいたことすら気づいていない。
俺は抱きしめた繭の頭の後ろへ、両手を力強く回した。
露わになった「裏の顔」の両頬を、震える手のひらで強く、けれどどこまでも愛おしそうに包み込む。
「繭……大丈夫だ……誰も君を傷つけさせない……! だから、鎮まってくれ……お願いだ……!」
俺の必死の抱擁と、裏の顔へ注ぐ慈悲の手。
顔は俺の胸元に押し付けられる格好になり、憎悪に満ちていた漆黒の瞳が、驚きに微かに揺れた。
やがて……結衣の腕の消滅がピタリと止まり、ゆっくりと元の状態へと戻っていく。
裏の顔は、俺の体温を感じ取るように小さく息を吐くと、静かに黒髪の奥へと沈んでいった。
「……守、さん……?」
俺の腕の中で、何も知らない表の繭が、不安そうに俺の服の裾を掴んでいた。
「ごめんね……恐い思いをさせて。でも、もう大丈夫だから」
俺は繭を抱きしめたまま、床に座り込む結衣を冷たい目で見下ろした。
——助けたのは、結衣じゃない。
——俺が守り抜いたのは、この可憐で恐ろしい、俺の愛しい少女の「平穏」なのだから。




