第三話 黒髪を梳かす指
第三話 黒髪を梳かす指
あの一夜から、俺の日常は完全に変貌していた。
男が一瞬で「無」へ消し去られた光景。そして、黒髪の隙間から俺を射抜いた、あの冷たく濡れた眼光。
恐怖で足が竦み、幾度も引き返そうとした。けれど、あの暗闇の中で静かに眠っていた少女の——どこまでも無垢で儚い横顔が、頭から離れなかった。
「あ……守さん! こんにちは」
翌日の昼下がり。孤児院の庭のベンチに座っていた繭が、俺の姿を見るなりぱっと顔をほころばせた。
日差しを浴びる彼女は、昨日と何ひとつ変わらない。可憐で、健気で、守ってあげたくなるような普通の少女だ。
「昨日は本当にありがとうございました。守さんのおかげで、昨夜はとても安心して眠れたんです」
「……そっか。無事で、よかった」
俺は引きつった笑みを返し、彼女の隣に腰を下ろした。
指先が微かに震える。昨日の出来事を覚えている素振りは微塵もない。彼女は本当に、何も知らないのだ。
「あの……守さん。実はちょっと、困っていることがあって」
繭が少し困ったように眉を下げ、足元に置いてあった木製の綺麗な櫛を取り出した。
「最近、なんだか頭の後ろがすごく重くて……。髪を梳かそうとすると、頭の後ろあたりで何か引っかかるんです」
「え……?」
「なんだか、硬いかたまりがあるみたいで。強く引っ張ると、頭の奥にズキッと激痛が走るんです……。ほら」
そう言って、繭は何気ない手つきで髪の裏側に櫛を差し込み、上から下へと滑らせようとした。
(待て……やめろ……っ!)
俺の脳裏に、昨夜の光景がフラッシュバックする。
あの黒髪の奥にあるのは、ただの毛玉なんかじゃない。目があり、鼻があり、口がある——「生きている顔」だ。
そこに木製の鋭い歯を持つ櫛を突き立てたら、どうなる? 激痛に耐えかねた「裏の顔」が怒り狂い、繭の意志とは無関係に暴走してしまうのではないか。
「痛っ……! うう、やっぱり駄目みたい……」
目の端に涙を浮かべ、頭を押さえる繭。
その瞬間、彼女の背後で腰まで伸びた黒髪が、ざわりと不自然に蠢いた。
(まずい……怒らせたら、繭自身がどうなるか分からない……!)
恐怖で心臓が破裂しそうだった。だが、俺は「きみをまもる」と決めたのだ。
逃げ出す足を踏みとどまらせ、俺は震える声を振り絞った。
「繭さん……その櫛、僕に貸してくれないかな」
「えっ……? 守さんがですか?」
「うん。自分じゃ見えない場所だから、僕がゆっくり梳かしてあげるよ」
繭は「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑み、俺に櫛を手渡してベンチで背中を向けた。
生唾を飲み込む。俺は意を決して、彼女の背後に回った。
間近で見ると、夜の闇のように深く、美しい黒髪。その根元に静かに手を伸ばす。
指先が髪に触れた瞬間、氷のような冷気と、**ドクン、ドクンという歪な「二人分の脈動」**が肌を通じて伝わってきた。
(落ち着け……息を整えろ……)
俺は慎重に、まるでガラス細工を扱うように両手で髪を左右に掻き分けた。
さらりと解けた黒髪の隙間から——現れた。
そこにあったのは、無傷で可憐な繭の表の顔とは対照的な、憎悪と悲哀に歪んだもう一つの顔だった。
閉ざされた瞼、固く結ばれた薄い唇。
皮膚は病的なまでに白く、その額には、先ほど繭が強引に櫛を通したせいで痛々しい赤い筋が入っていた。
(これが……この子の……)
恐ろしい。脚がガタガタと震え、背中に冷や汗が噴き出す。
だが、この「裏の顔」もまた、苦しみに耐えながら繭という少女の一部として生きているのだ。
俺は両手を軽く握り締め、そっとその顔へ手を伸ばした。
櫛は使わない。
代わりに、温かい自分の手のひらで、怒りに固まった裏の顔の頬を、そっと包み込んだ。
——ビクッ!
後頭部の顔が、驚いたように小さく震えた。閉ざされていた瞼がわずかに開き、漆黒の瞳が俺を捉える。殺意に満ちた圧迫感が押し寄せる。
けれど、逃げなかった。
俺は手のひらに心を込め、まるで傷ついた幼子をあやすように、優しく、優しくその顔をマッサージするように撫で続けた。
「……痛かったろ。ごめんな。もう大丈夫だから」
口の中で、声にならない声でそう語りかけた。
この異形の顔も、理不尽な世界から繭を守るために存在しているのかもしれない。
この顔だって……この恐ろしい神のような二面性だって、全部ひっくるめて「糸巻繭」という少女なのだから。
俺の熱が伝わったのか、あるいは生まれて初めて向けられた「慈愛の撫で方」に困惑したのか。
裏の顔は次第に緊張を緩め、うっとりと気持ち良さそうに目を細めると、ゆっくりと黒髪の奥へと沈んでいった。
「……あ」
前を向いたままの繭が、驚いたような声をあげた。
「守さん……すごいです。なんだか急に、頭がすごく軽くなって……重たくて痛かったのが、嘘みたいに消えました」
振り返った繭の表の顔は、これまで見た中で一番晴れやかな、満面の笑顔だった。
「ふふ、守さんの手って、とっても温かくて魔法みたいですね」
「……そうかな。よかった」
俺は冷や汗を拭いながら、力なく微笑み返した。
助けられたのは、僕のほうだ。
俺は確信していた。あの裏の顔を愛し、受け入れることこそが、彼女の無知な平穏を守る唯一の道なのだと。




