第二話 黒髪の蠢き
その夜、俺は自室のベッドの上で何度も寝返りを打っていた。
昼間に助けた少女——糸巻繭のことばかりが頭を離れない。
あの男が去り際に吐き捨てた「覚えてろ」という捨てゼリフ。そして何より、彼女の黒髪の奥から感じた、あの説明のつかない不気味な悪寒。
(……考えすぎだ。でも、もしまたあの男が来たら?)
嫌な予感が胸を押し潰しそうになり、俺はたまらず家を飛び出していた。
夜の街を走り抜け、古い孤児院の敷地へと忍び込む。静まり返った木造の建物。繭の部屋は、一階の裏手にある小さな角部屋だと昼間に教えてもらっていた。
月明かりだけが頼りの薄暗い敷地を進み、彼女の部屋の窓へ近づいた、その時だった。
——カタリ。
小さな木ねじのしなる音が響く。
見ると、繭の部屋の窓枠がわずかに持ち上がり、そこから忍び込もうとする大きな人影があった。
昼間の男だ。
(な……っ!?)
男は音を立てないよう慎重に部屋の中へ滑り込み、ベッドへと近づいていく。
ベッドの上では、胸元まで布団をかけた繭が、すやすやと穏やかな寝息を立てていた。
男が下卑た笑みを浮かべ、眠る繭の可憐な肩へと手を伸ばす。
「待て……っ!」
俺は声を張り上げ、窓枠を掴んで乱入しようとした。
だが、俺の叫び声が男に届くよりも早く——部屋の中の時間が、ピタリと止まった。
ざわり。
風など吹いていない室内で、ベッドに横たわる繭の腰まで伸びた黒髪が、まるで水中で揺らめく海藻のように不自然に躍動した。
(え……?)
俺の手が止まる。
男もまた、その異常な気配に気づいたのか、伸ばした手をピタリと止めて固まっていた。
静寂。
何の音も作動しない。悲鳴も、打撃音も、骨が折れる音すら生じない。
ただ、男の身体が——爪先から、着ている服から、髪の毛の一本に至るまで、まるで最初からそこに存在していなかったかのように、すうっと暗闇の中へ溶けて消えていった。
あまりにも一瞬の出来事だった。
血が一滴飛ぶこともなく、男が持っていた懐中電灯すら床に落ちることはなかった。世界から「男」という情報だけが、そっくりそのまま削ぎ落とされたかのように。
「……ん」
男がいたはずの空間に向かって、繭が小さく寝返りを打つ。
彼女は何も知らない。今、自分のすぐ目の前で何が起きたのかすら気づかず、安らかな顔で眠り続けている。
俺は腰を抜かし、冷たい地面に手をついた。全身の毛穴から嫌な汗が吹き出す。
(消えた……? 男が……消えた……?)
息がうまく吸えない。
その時、月明かりが雲の隙間から差し込み、眠る繭の頭部を照らし出した。
寝返りを打った彼女の後頭部。
夜の闇のように豊かな黒髪が、ゆっくりと左右に割れていく。
その割れ目の奥、漆黒の毛髪に埋もれるようにして——
ぬるりと、黒く濡れた「何か」が、瞬きひとつせずに開いた。
それは、月光を反射して不気味に光る、人のものとは思えない眼球のように見えた。
「……ひっ」
喉の奥で悲鳴が押し潰される。
黒髪の隙間に浮かぶその「何か」は、窓の外で震える俺の姿を、じっと見つめていた。




