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第一話 黒髪の少女


 その少女は、あまりにも小さく、儚く見えた。

 夕暮れ時の古い孤児院。その裏手に回る細い路地で、男の怒鳴り声が木霊していた。

「いいから来い! 里親になってやるって言ってんだよ。お前みたいな親なしを雇ってやってる施設にも、俺はちゃんと寄付金を払うつもりなんだからな」

「あの……すみません。でも、園長先生を通していただけないと……っ」

 下卑た笑いを浮かべた初老の男が、少女の細い手首を強い力で掴み上げている。少女は痛みに耐えるように眉をひそめ、必死に手を振り払おうとしていた。

 背中まで届く、豊かで艶やかな黒髪。それが夕日を浴びて、ゆらゆらと揺れる。

「うるせえ! 固いこと言うな。ちょっと車で話を聞くだけだろ?」

「やめてください……!」

 力任せに引き寄せられ、少女が悲鳴をあげた。

 俺——まもるは、考えるより先に身体が動いていた。買い出しの帰りにたまたまこの路地を通りかかっただけだったが、その光景を見過ごすことなんてできるはずもなかった。

「おい、離せよ!」

 俺は両手の荷物を放り投げ、男の胸元を力任せに突き飛ばした。

「な、なんだお前は!」

 不意を突かれた男はよろめき、たたらを踏んで手首を離した。俺はすぐさま少女と男の間に割り込み、少女を背中に庇う。

「嫌がってるだろ。警察を呼ぶぞ」

 俺がスマートフォンを取り出す仕草をみせると、男は舌打ちをひとつ鳴らし、こちらを忌々しそうに睨みつけた。

「ちっ……クソガキが。余計なおせっかい焼きやがって。覚えてろよ」

 捨てゼリフを残し、男は逃げるように路地の奥へと走り去っていった。

 男の足音が完全に遠のくのを確認してから、俺は深呼吸をし、ゆっくりと後ろを振り返った。

「……大丈夫だった?」

「あ……はい。ありがとうございます……」

 少女は胸の前で小さく手を握りしめ、安堵したように息をついた。

 間近で見ると、息をのむほどに綺麗な顔立ちをしていた。白い肌に、少し泣き濡れた大きな瞳。そして何より目を引くのは、腰のあたりまで惜しみなく伸びた、夜の闇のように深い黒髪だった。

「僕、まもるっていうんだ。近所に住んでるんだけど、君は……?」

「糸巻、いとまき まゆです……孤児院で、子供たちのお世話をしながら暮らしています」

 消え入りそうな声で、彼女はそう名乗った。糸巻繭。その可憐な姿にあまりにも似合っている名前だった。

「糸巻さん。あの男、また来るかもしれない。何かあったらすぐ誰かを頼るんだよ」

「はい……。あの、守さん。助けてくださって、本当にありがとうございました」

 繭はぺこりと深頭を下げた。

 その瞬間——彼女がうつむき、豊かな黒髪がさらりと肩から滑り落ちたとき。

 ——ぞくっ。

 唐突に、背筋を氷でなぞられたような猛烈な悪寒が走った。

 理由のわからない恐怖。首筋の皮膚が総立ちになる。

 まるで、自分の目の前にある「何か」ではなく、彼女の頭の後ろ……うつむいた後頭部を覆う黒髪の隙間から、**鋭く冷徹な「誰かの視線」**に射抜かれたかのような感覚。

「……守さん?」

 固まった俺を心配したのか、繭が顔を上げた。

 そこにあるのは、どこまでも無垢で、守ってあげたくなるような少女の瞳だけだった。

(……気のせい、か?)

 男を追い払った緊張のせいだろうと、俺は自分に言い聞かせた。

「……ううん、なんでもない。孤児院の玄関まで送るよ」

「ふふ、ありがとうございます。守さんって、とっても優しいんですね」

 ふわりと咲くように微笑む繭。その笑顔を見た瞬間、俺の胸の中には、言葉にならない強い感情が芽生えていた。

 親もおらず、理不尽な大人たちに脅かされながら生きているこの可憐な少女を、僕が守ってあげたい。

 僕が、彼女の盾になろう。

「きみをまもる」という誓いを胸に抱きながら、俺は彼女とともに孤児院の門をくぐった。

 ——この時の俺は、まだ何も知らなかったのだ。

 あの男が、その日の夜に執念深く孤児院へ忍び込んでくることも。

そして、俺が助けたはずの「守るべき少女」の背後に、どんな怪物が潜んでいたのかも。


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