07 絡まれる
「依玖」
振り返れば、そこには煉弥が立っている。
当初こそ周囲の注目を一身に集めていたものの、さすがに数日も経てば生徒たちも見慣れてきたらしく、今では廊下を歩いていても以前ほど騒ぎになることはない。
とはいえ、人目を引く整った容姿と堂々とした佇まいまでは消えるはずもなく、依然として目立つ存在であることに変わりはなかった。
「この後、校内を案内してくれないか。二人でゆっくり話したいしな」
「あの──」
「そちらのクラスのクラス委員に頼めばいいだろう」
にこにこと近づいてくる煉弥に私が返事をするより早く、隣にいた汐凪が当然のような顔で会話へ割り込んでくる。
その動作があまりにも自然だったせいで、思わず口を閉じてしまった。
「別にお前へ用はない」
「奇遇だね。俺もだよ」
煉弥はわずかに眉を動かし、汐凪もまた微笑を浮かべたまま視線を逸らさない。
「そもそもお前、依玖に近くないか」
「婚約者だから普通に話しているだけだけど。婚約者だから」
「随分と必死だな」
煉弥の口元に浮かんだ笑みは穏やかなものだったが、その声音にはわずかな揶揄が混じっていた。まるで汐凪の言葉の端に隠された意図を見抜いたと言わんばかりの視線が向けられ、二人の間に流れていた空気が、先ほどまでとは違う意味で張り詰めていく。
私は思わず二人の顔を見比べた。
「必死、とは心外だな」
汐凪は静かに言い返しながら、自然な動作で私の隣へ一歩寄る。その距離は決して不自然なものではない。けれど、先ほどまでより明らかに近い。
「ただ、依玖の時間を無駄にしてほしくないだけだよ」
「無駄かどうかを決めるのは、お前じゃないだろう」
煉弥の返答は穏やかだったが、その言葉には鋭さがあった。
「俺はただ、久しぶりに依玖と話したいだけだ。昔から知っている相手と少し時間を過ごすことの何が悪い」
「悪いとは言っていないよ。ただ、俺の婚約者との時間を大切にしたいと思うのも、当然だと思わない?」
互いに声を荒げているわけではない。表面上はあくまで冷静で、周囲から見ればただの会話にしか見えないだろう。けれど、言葉のひとつひとつに込められた意味は隠しきれていなかった。
「なるほど。そうやって牽制してくるわけか」
「牽制じゃないよ。事実を言っているだけだ」
「そういうところが必死だと言っているんだがな」
「そっちこそ、わざわざ指摘するあたり気にしているんじゃないかな」
互いに笑みを浮かべながら、全く引かない。なぜか二人の視線がぶつかり合って火花を散らしたのを幻視した。
「……なるほど」
「分かった」
何が分かったのか全く分からない。だが当人たちの中では何かが通じたらしい。
次の瞬間、煉弥が口元に笑みを浮かべた。
「勝負だな」
「わからせてやる」
非常に嫌な予感しかしない会話だった。
私が口を開く暇もなく、二人は当然のように踵を返し、そのまま並んで歩き始める。
遠ざかっていく二人の背中を見送りながら、私はぽつりと呟いた。
「私は……?」
返事をする者は誰もいない。というより、返事をする余裕がある者がこの場に残っていなかった。
先ほどまで遠巻きにこちらを眺めていた生徒たちは、いつの間にかざわめきを大きくしながら、煉弥と汐凪が去っていった方向へ視線を向けている。二人が何をしようとしているのか、それを正確に理解している者などいないはずなのに、不思議なほどその場にいた全員が同じ結論へ辿り着いたようだった。
誰かが一歩踏み出すと、それにつられるように別の誰かも歩き出し、気づけば廊下にいた生徒たちはぞろぞろと二人の後を追っていく。まるで突然始まった催しを見逃すまいとする観客のようで、私はその光景を呆然と眺めるしかなかった。
残された私は、広くなったように感じる廊下の真ん中で、一人立ち尽くす。
……追いかけたほうがいいのだろうか。発端は私だが、結論は私ではなかったような気もするのだが。
小さく息を吐き、二人の消えた方向へ歩き出そうとしたその時、不意に背後から声がかかる。
「随分といい気なものね」
私は足を止めた。
というか、止まらざるを得なかった。無視したら余計に面倒なことになるので。
ゆっくり振り返ると、案の定、そこには予想通りの人物が立っていた。
艶のある長い髪を丁寧に結い上げ、隙なく整えられた制服を纏った少女は、こちらを見下すように顎を引きながら、鋭い目元へ強気な光を宿している。
その姿には名家の令嬢らしい華やかさと気位の高さが滲んでいた。
「……何か御用ですか?」
内心で溜め息を吐いた。ちょっと漏れていたかもしれない。
できれば関わりたくなかったので、わりと真面目に帰りたい気持ちを込めて尋ねたのだが、彼女は気にした様子もなくこちらへツカツカと歩み寄ってくる。
「二人の次期斎祀から取り合われて、さぞ楽しいでしょうね」
「いや別に取り合われたくて取り合われてるわけでは……」
「白々しい」
ぴしゃりと遮られる。私は天を仰いだ。こういう流れになる気はしていた。
「調子に乗らないことね」
低く抑えられた声だったが、その分だけ感情の鋭さが際立っている。
「あなたが今の立場にいられるのは、星読みと五行の相性と、その他諸々の運がたまたま重なっただけでしょう。実力でもなく、努力でもなく、家柄でもなく。ただの、運」
否定はしなかった。事実だと思っているから。
「火能様の言うことも一理あるわ。星に選ばれたからといって、それで人としての格が備わるわけじゃない。立場相応の実力が必要なの」
彼女は一度言葉を切り、それからまっすぐ私を見た。
「水筑様の隣に立つなら、もっと相応しい相手がいる」
もちろん、私だって努力をしていないわけではない。婚約が決まってから七年、それなりに励んできた自覚はある。
それでも、「では誰が最も婚約者に相応しいか」と問われれば、彼女の方が完成されているのは事実だろう。
彼女──式海晶佳は水筑の分家のお嬢様だ。それも私より余程本家に近い、良い血筋のご令嬢。
彼女は小さい頃から汐凪の婚約者の筆頭候補として謳われており、本人もその立場を本気で望んでいた。
それなのに横から私のようなものに掻っ攫われて、以来度々こうして絡んでくる。
「婚約者の座を空けたら、次は私が埋める。それだけの準備はできているから安心なさい」
その瞳には嫉妬だけではない熱があった。
本気で努力して、本気で目指して、本気で手を伸ばしてきた人間の目だ。
だから私は、彼女を笑う気にもなれない。
「貴女には荷が重いのよ。身の丈に合わない場所に収まって、それで恥ずかしくないの」
夕暮れの廊下へ静かに落ちた言葉は、意外なほど真っ直ぐ胸へ刺さった。
多分、少しは気にしているからだ。
隣へ並ぶたび、「私でいいのかな」と考えない日はない。
それでも。
「それでも、選ばれたのは私なので」
晶佳は何かを言いかけて、やめた。
それからもう一度、真っ直ぐ私を見る。
「……そういうところよ」
やがて落ちた声は、先ほどまでよりも低かった。長い間胸の奥に沈めていたものを、確かめるように吐き出しているように聞こえる。
「あなたは、選ばれた側だから分からないでしょうね。努力して、努力して、それでも届かなかった人間の気持ちなんて」
「……そうですね」
私は、自分から何かを望んだことなんてなかった。
汐凪の婚約者という立場も、ある日突然目の前に置かれたものだ。今ある努力だって、現状に相応しいものを身につける為のもの。渇望する何かを手に入れる為のものではない。
その違いを、彼女はきっと知っているのだろう。
「貴女が選ばれたことを、私はまだ納得していない」
晶佳は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐く。そこにあったのは納得ではなく、これ以上言葉を重ねても意味がないという諦めだった。
彼女は重ねていた腕をゆっくりと解く。
「辞退するなら早めになさい。再誓の儀まで時間はないわよ」
それだけを告げると、彼女はもう用はないと言うように背を向けた。




