06 唸る
普段あまり見ない顔だった。困っていても困った顔をしないし、面倒事に巻き込まれても大抵は涼しい顔で処理してしまうので、今みたいに分かりやすく「気が重い」という空気を漂わせているのはかなり珍しい。
「煉弥のことで」
三切れ目に手を伸ばしながら言った。全部食べる気だ、この人。
「彼の留学中の滞在先なんだけど、別邸を用意することになった」
汐凪は静かにそう告げながら卵焼きを咀嚼し、その合間にもどこか考え込むような顔をしている。
味について考えているのか、煉弥について考えているのか、あるいは両方なのか分からない。
「別邸、というと」
「うちの、だ。西の水凪邸だね」
水凪邸といえば、本邸から西に離れた場所にある由緒ある別邸で、主に要人の滞在や機密性の高い客人を迎える際に使われる場所だ。
規模こそ本邸より小さいが、防護結界も警備設計も非常に強固で格式が高い。
「元より警備上の問題で、うち以上の場所はなかった。留学前の連絡時点では本邸への滞在という話も出ていたけれど、本人がそれを断って、ホテルに落ち着くか、あちらで邸を手配する予定だったのだけど」
「翻したんですか」
「翻した」
「……ちなみに、理由は」
なんとなく嫌な予感を覚えながら尋ねると、汐凪は一瞬だけ沈黙したあと、静かに答えた。
「『依玖の近くの方が都合がいい』だそうだ」
私は無言になった。
調理場の空気がほんのり気まずくなる。おばさまも「あらあら……」みたいな顔をしているが、何も言わないあたり、大人の気遣いを感じた。
遠くで煮込み鍋がことこと鳴っている音だけがやけに平和だ。
「でも、元々私が目的なら、最初から本邸に滞在すればよかったのでは?」
私は少し考えてから、素直な疑問を口にした。
煉弥がこの国へ来た理由が私に会うためだったというのなら、わざわざ別の宿を用意する必要などなかっただろう。最初から本邸に滞在していれば接する機会はいくらでも増えただろうし、彼の目的を考えれば、その方がずっと効率的だったはずだ。
「………………………………」
けれど、汐凪はすぐには答えなかった。
真顔だが、心底言いたくないと顔に書いてある。
そしてしばらく沈黙したあと、ようやく、渋々、重たげに口を開いた。
「……当初の予定では、すぐに依玖を手に入れる算段だったらしい。そうなった時、依玖をうちから離して自分の手元に置いておくには、別の拠点があったほうが都合がいいからね」
「あ〜……。で、実際には私は煉弥様の記憶はなく、そう簡単に事が済みそうになかったので、長期戦の構え、と」
「そういうことだろうね」
汐凪は淡々と答えたが、声音には不機嫌そうな渋みが混ざっていた。
「本邸に泊まる、ということにはならなかったんですね」
「言われたよ。突っぱねたけど。「今更無理」って」
そのつっけんどんな言い方に思わず苦笑した。汐凪がこういう反応をするのは珍しい。実際にはもっと角の立たない言葉を選び、丁寧に断ったのだろうけれど。
少し話題を変えようと思い、私は別の疑問を口にする。
「そもそも、よくご留学が許されましたね。どこの国も次期斎祀を不用意に国外に出したがらないでしょう?」
「まぁ、半ば無理矢理出てきたようだからね」
「ええ……」
らしいと言えばらしいのだろうが。目的のためならば、周囲がどう考えるかなど関係なく進んでしまうところがあるのだろう。最終的に相応の成果を持ち帰ってしまう技量も器量もあって、周囲もまた納得せざるを得ない、みたいな図が浮かぶ。
汐凪がはあ、と疲れたような溜め息を吐く。
「本邸と別邸は距離がある。そう頻繁に出くわすことはないだろうけど」
そう言ってから、私を見た。穏やかな顔だった。ただし目は、少し別の色をしている。
「気をつけて」
「……はぁ。まぁ、はい」
気をつけて、というのが何に対しての注意なのかは、問わなかった。
とはいうものの、私から見ると煉弥の興味は汐凪へ向き始めているように見える。私に対しては初対面で伴侶宣言をして以降、意外と直接絡んでくることは少なくなった。
最初こそ「依玖を口説くにはまず汐凪が邪魔!」という感じだったのが、今や"汐凪に勝つ"という目的の方へ熱量が集中している印象すらある。
特段私自身が追い回されているわけではないので、そこまで切迫した危機感は正直なところ薄い。
しかし汐凪は、そんな私の反応を見ても表情を変えない。
「あまり外に出ない方がいい。しばらくの間は」
「それはまた、随分と」
「念のため、だ」
心配されているのか、面倒事を避けたいのか、あるいはその両方なのか。
ただ実際のところ、汐凪の言うように本邸と別邸はかなり距離がある。
護家の敷地には神域や祭祀場、さらに使用人宿舎から分家筋の邸まで、複数の建物があるくらいには広大で、場所によっては移動へ車を使うくらいだ。
わざわざ遭遇を警戒しなくても、普通に生活していれば顔を合わせる機会はそうないだろう。
和沙おばさまは空気を和らげるように湯気の立つお茶を差し出しながら、柔らかな声音で言った。
「まあ、ちょうど祭儀前ですし。稽古に集中するよい機会ではないですか」
「そうですね」
汐凪は頷いて、それから空になった皿にそっと視線を落とす。
「……結局、解明できましたか」
半ば冗談のつもりで尋ねると、汐凪は真顔のまま答えた。
「まだだ。もう少しサンプルが必要だと思う」
おばさまがふふ、と目を細める。
私は少し複雑な気持ちになった。
「研究対象みたいに言わないでください」
「そういう意味では言っていないよ」
そう言うと汐凪は湯呑みのお茶を飲み干し、席を立つ。
「また夕食で」
「はい」
私は小さく手を振り、汐凪も笑みを返して調理場を後にする。
しばらくは廊下を歩く足音が聞こえていたが、それもやがて遠ざかり、室内には再び落ち着いた静寂が戻ってきた。
おばさまは私たちの様子を見届けながら、どこか微笑ましいものを見るような眼差しを向ける。
「仲睦まじいこと」
「そうなんですかねぇ」
それ以上からかうこともなく、おばさまは先ほど話していた内容へ自然と話題を移した。
「例の、灯賀の斎祀さまですか」
「はい……」
その名前を聞くだけで、何とも言えない疲労感が蘇ってくる。
それなりに真っ当に修行を進めている他の習い事の先生と違い、小さな頃から不出来な面を見られている和沙おばさまにはなんでも相談できた。
煉弥のこと、最近の状況についても断片的ながら事情を伝えている。
私が遠い目をすると、おばさまはくすりと笑った。
「式海のお嬢さまも相変わらずで?」
「えぇまあ、煉弥さまが来てから視線の鋭さが増してます」
そんな風に日常の話を続けているうちに肩の力は抜けていく。
騒がしくなった日々の間に、こうして穏やかな時間を過ごせることの有り難さを改めて感じていた。




