02 なんか来る
最後の所作を終えた私たちは、揃って一歩退き、胸の前で手を重ねながら静かに礼を交わした。
稽古場に満ちていた緊張がふっとほどけ、張り詰めていた空気が和らぐなか、私は自然と息を吐きながら向かいに立つ汐凪の姿を見上げる。
瑞潮国における再誓の儀で課される試練は夫婦舞。斎祀とそのパートナーで舞う神楽の奉納だ。
そのため瑞潮の斎祀は、他国よりもずっと早い時期に婚約者を定める慣わしがある。神前で一つの舞を完成させるため、幼い頃から共に舞を学びただ技を磨くだけではなく、言葉を交わさずとも相手を感じ取れる関係を育てていくためだった。
夫婦舞を習い始めたばかりの頃は、今となっては思い出すのも恥ずかしいほど散々だった。歩幅は合わず、一歩遅れて差し出された手は空を切り、視線を合わせるべき瞬間には互いに違う方向を向いてしまい、ひとつ修正できたと思えば今度は別の所作が崩れ……。
それも今では流れを止めることなく最後まで舞い切れるようになり、外から見れば本番に出てもおかしくない程度には様になっているはずだ。
けれど、だからこそ分かることもある。
呼吸を合わせ、気配を重ね、相手の動きを感じながら舞うからこそ生まれる微かな違和感がある。
それはほんの一瞬、指先が触れ合う直前であったり、身体を返す刹那であったり、次の動きを受け渡す瞬間であったりするのだが、確かにそこに存在していた。
観客席から見れば気づかれない程度の差なのかもしれないし、実際に指導役たちからも指摘を受けることはない。
それでも、舞の内側にいる私たちだけは誤魔化せなかった。
同じ舞を共有している当人だからこそ分かる感覚があり、身体に染みついた違和感だけは誤魔化しようがない。
あと少しなのに。
その思いが知らず表情へ滲んでいたのだろう。舞を終えて顔を上げた私を見つめた汐凪は、小さく目を細めると、肩の力を抜くように穏やかな声音で言った。
「そんな顔をしなくても、大丈夫だよ」
柔らかな言葉に思わず視線を向ければ、彼はいつもの落ち着いた笑みを浮かべたまま私を見つめ返し、不安まで受け止めるようにゆっくりと言葉を続ける。
「確かにまだ気になる瞬間はあるけれど、本番まではまだ少し時間があるから」
そう言って差し出された手は、舞の途中で幾度となく触れてきたはずなのに、稽古を終えた今こうして改めて向けられると少しだけ意味が違って見えた。
ためらいながらもその手へ自分の手を重ねると、汐凪は包み込むようにそっと握り返し、安心させるように指先へ穏やかな力を添える。
指先から伝わる温もりは不思議なほど落ち着いていて、舞の最中には見つけられなかった呼吸が、今だけは自然に重なった気がした。
「二人なら、大丈夫」
「……はい」
声音には根拠のない楽観ではなく、これまで積み重ねてきた稽古への確かな信頼が滲んでいて、私は胸の内に渦巻いていた硬さが少しずつ解けていくのを感じた。
窓から差し込む夕陽が床板を淡く照らし、その光のなかで彼の笑みを見つめながら、私は小さく息を吐く。
まだ届かないものは確かにある。それでも、一人で追いかけるのではなく、この人と二人で辿り着けばいいのだと思えた瞬間、先ほどまでどうしても消えなかった違和感よりも、その手の温もりのほうがずっと強く心に残った。
翌日の学校は生徒たちのざわめきが妙に浮ついていて、廊下を行き交う女子たちは皆どこかそわそわと落ち着かずにいた。
普段なら小テストだ課題提出だと騒いでいるはずの教室も、今日に限って話題はひとつしかない。
隣国、火の神獣を奉る灯賀国、その護家一族火能家の御曹司であり次期斎祀が留学してきた、という話だ。転入先は隣のクラスらしい。
「ねえねえ、見た!? さっき中庭にいた!」
「見た見た! めちゃくちゃ背高かった!」
「火の国って感じだったよね。なんかこう……強そう」
「顔も良かった」
「重要情報だね」
「水筑様と並んだらどうなるんだろ」
「圧がすごそう」
元より名家の子弟が少なくない学校ではあるものの、それでも隣国の次期斎祀ともなれば話は別だ。女子たちが騒ぐのも無理はない。顔も良いらしいし。
姦しい談笑を盗み聞きしながらノートを整理していると、不意に、廊下側が騒がしくなる。
何事かと思って顔を上げれば、教室の入り口付近に人だかりができていた。
きゃっ、と小さな悲鳴のような声が上がり、教室の入り口付近にいた生徒たちがさっと左右へ割れるのが窓越しに見える。
ガラ、と力強い音で開かれた扉の前に立つのはスラリとした長身の青年。
鍛えられた身体。鋭い瞳には獣じみた力強さが宿っていて、ただ立っているだけなのに周囲の空気まで押し広げるような存在感がある。
周囲が息を呑む中、その男子生徒は教室をぐるりと見渡し──そして、ぴたりと視線を止めた。
「見つけた!」
彼は太陽のようにぱっと表情を輝かせた。
周囲がざわつく。しかし彼はそんなことお構いなしに、ズカズカと教室へ入ってきた。
一直線に。
本当に一直線に。
獲物を見つけた大型肉食獣みたいな勢いで来ている。
こちらへ。
「ヒェッ」
嫌な予感がした。
というか完全に目が合っている。
彼は私の机の前まで来ると、まるで長年探し求めていた宝でも見つけたみたいな顔でこちらを見下ろし──。
「やっと会えた」
「は?」
「星が選んだオレの伴侶」
「……はぇ?」
教室が、しん、と静まり返った。




