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八十八年目の星結び  作者: 星 羽芽


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01 帰る



「……よっこいせ」


 積み上げた学級日誌と提出ノートを抱え直しながら、私は小さく息を吐いた。

 本来なら共に日直だった生徒と二人で分担するはずだった。のだが、その相手が急遽委員会に呼ばれてしまったため、大量のノートを一人で職員室へ届ける任務を背負うことになってしまった。


 ずしりと腕へかかる重みに顔をしかめつつ、机の横を抜けようとした、その時。


依玖(いく)。帰ろうか」


 穏やかで、耳に心地よく落ちる声が頭上から降ってくる。

 教室内の空気がふっと揺れた気がした。

 実際にはもちろんそんなことはないのだろうが、少なくとも周囲の女子たちが一斉に視線を向けたのは事実である。


 私はゆっくり振り返る。

 そこに立っていた青年を見て、私はいつものように数秒ほど現実感を失った。


 顔面がどう考えても理不尽な男──そして私の婚約者である水筑汐凪(みずきせな)が、至近距離からこちらを見下ろしている。


 同じ服を着ているはずなのに、どうしてこの人はこうも神々しいのだろう、と私は毎回わりと真面目に悩んでいる。制服というものは本来、学生間の差異を均すためのものではなかっただろうか。少なくとも”神域から降りてきた高位存在感”を演出するための衣装ではなかったはずである。


「あ、すみません。日直の仕事がまだ残っていて……」


 私はどうにか意識を引き戻し、抱えていたノートの束を少し持ち上げて見せた。


「これを職員室に届けないといけないので」

「手伝うよ」


 返答が早い。

 というか食い気味だった。


「いえ、そんな……!」


 思わず恐縮して首を振る。

 彼は学生の身ながら次期斎祀として、勉学や訓練、仕事までこなしている身だ。日々の忙しさは常人の比ではない。そんな人に雑用を手伝わせるなど恐れ多いにも程がある。


「先に帰っていただいて構いませんので……!」

「そう?」


 汐凪は小さく首を傾げた。

 だが、その「そう?」はほとんど確認の意味を成していなかった。次の瞬間には私が抱えていたノートの束を半分ほどひょいと持ち上げてしまう。


「あっ」

「これでいいだろう」

「よ、良くないです……!」

「俺が一緒に帰りたいんだ」

「グゥ……ッ」


 私はしばらく呻いたあと、結局観念して残りのノートを抱え直した。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 汐凪と並んで廊下へ出れば、そこには生徒たちがそれなりの数残っていた。


「あっ、見て見て。水筑様と永露さん」

「今日も一緒に帰るんだ」


 部活動へ向かう者、友人同士で談笑する者、購買帰りらしく袋を抱えている者。そんな中を、次期斎祀とその婚約者が並んで歩いていれば、当然ながら視線は集まる。

 彼はそういう視線にも慣れきっているのか、まるで意に介した様子もない。私も婚約してから7年、割と慣れた。


「毎日送り迎えしてくれるって聞いた!」

「同じお邸に住んでるんだもんね。少女漫画か??」

「水筑様、今日も顔が良すぎん?」

「わかる」


 わかる。

 びっくりするくらい良い。毎日見ていても「今日もすごいな……」と思うくらいには良い。

 内心でしみじみと頷いていると、ひそひそと聞こえてくる声の中、一人の女子生徒が羨望混じりにこちらを見た。


「永露さん、よっぽど前世で徳積んでたんだろうなあ……」

「どんだけ善行したらあんなイケメン御曹司と婚約できるの? 世界救った?」


 私もそう思う。神獣を五柱くらい救ったのかもしれない。ありがとう、たぶん英雄だった前世の私。


 ちら、と隣を歩く汐凪を見上げる。

 整った横顔は夕日に照らされ、静かな水面みたいな青灰色の瞳が柔らかく細められていた。


「どうしたの?」

「いえ……」


 顔がいいなあ、と改めて思っただけである。


 七年前、星読みによって最適と判断されて決まった婚約。

 政略であり、義務であり、次期斎祀を支えるためのもの。

 だというのに、汐凪はいつも私に優しい。


 話しかければ必ず手を止めてこちらを見てくれるし、歩幅も自然と合わせてくれる。重い荷物を持てば何も言わずに受け取り、寒ければ外套を差し出し、体調を崩せば仕事の合間を縫って様子を見に来る。

 それらはどれも気負った様子がなく、あまりにも当たり前のように差し出されるから、時折こちらのほうが戸惑ってしまうほどだった。


 けれど、それを特別な好意だと勘違いするほど私は夢見がちではない。

 政略とはいえ婚約者。彼はその事実を誰より理解している。だからこそ婚約者を軽んじることなく、互いが気持ちよく関係を築けるよう誠実に振る舞っているだけなのだろう。誰が相手でも、彼ならきっと同じように接するはずだ。

 気遣いは細やかで、言葉は穏やかで、責任と努力を忘れず、その力を他者のために使うことを厭わない。聖人君子と書いて水筑汐凪と読むのである。

 彼の優しさに特別な意味を求めるつもりはない。ただ、どうせ結ばれた縁なら、役得くらいは素直に喜んでも罰は当たるまい。


 ──とどのつまり。


(まあ普通に、めっっっちゃタイプなんだよな……)





 校門を出て、水筑家の迎えの車に乗って帰路に着く。

 走り出した車窓の向こうでは、夕暮れの街並みがゆっくり流れていた。

 商店街の軒先に灯りがともり始め、学生たちが連れ立って歩き、遠くには水路沿いの柳が揺れている。

 この国は水の神獣の加護を受ける土地らしく、都市のあちこちに水脈を利用した流路や水庭が整備されていて、夕刻になるとその水面が空の色を映してひどく綺麗なのだ。


 こうして見ると、この世界が崩壊と裏表にある中で発展してきたとは思えない。


 ──世界は、かつて荒れていた。

 大地は絶えず裂け、山は炎を噴き、海は牙を剥き、空は怒り狂ったように嵐を落とした。

 災禍は季節のように繰り返し訪れ、そのたびに国は崩れ、街は呑まれ、人々は為す術もなく死んでいったという。古い文献には、夜が来るたび「明日も太陽が昇るだろうか」と怯えながら眠った人々の記録が残されていた。

 明日を迎えられる保証すらなかった時代。

 人々は祈った。

 どうか平穏を、と。ただ穏やかな明日を、と。

 そして。

 その祈りに応えるようにして現れたのが、五柱の神獣だった。


 五行を宿した神獣たちはそれぞれ大陸各地へ座し、神域を築き、その力によって災禍を抑え込んだ。

 荒れ狂っていた海は静まり、裂け続けていた大地は安定し、空は四季を巡らせるようになる。

 世界はようやく、平穏を手に入れた。

 以来、人々は神獣を奉っている。

 神域を守護し、霊力を捧げ、加護を維持し続けるために。


 そして、その加護の契約を更新するための祭儀──再誓の儀。

 八十八年ごとに執り行われるそれは単なる儀式ではない。神獣との繋がりを維持し、この世界の平穏を次代へ繋ぐための、大陸規模の祭儀である。

 もし契約が失われれば、再び世界は災禍に呑まれる。


 その再誓の儀が、今まさに数ヶ月後の目前まで迫っていた。


 水を司る神獣が座す我が国、瑞潮国(ずいちょうこく)

 そして各国に存在する神域を守護する役目を持つ護家(ごけ)、その一角、水筑家。

 さらにその再誓の儀──神獣からの試練を受ける資格を有する斎祀(さいし)が、汐凪なのだ。


 そしてさらに、何をとち狂ったのか七年前、本家直属の占星術師であるおばば様が選んだ彼の婚約者が、分家の分家の枝葉の家の出である平々凡々ガールの私なのだった。


 柔らかな革張りの座席、淡い香木の香り、ほとんど揺れを感じさせない滑らかな発進。こういうところにも”名家”を感じるのだが、七年も婚約者をやっていると、最初ほどいちいち緊張しなくなったのは成長だと思いたい。


「依玖、今日の予定は?」


 車が走り出して少しした頃、汐凪がこちらへ視線を向けながら穏やかに尋ねてくる。

 制服姿のままゆったり座る、ただそれだけで妙に絵になっていて困る。窓から差し込む夕陽が長い睫毛の影を落とし、青灰色の瞳が静かな水面みたいに柔らかく細められているものだから、私は一瞬だけ「あ、顔がいい」といつもの感想を抱いてから、慌てて意識を会話へ戻した。


「お茶とお花と──お淑やかな日ですね!」


 指折り数えながら答えると、彼はふっと笑う。


「お淑やかな日」

「はい。比較的平和です。その後は夫婦舞の稽古ですね」


 汐凪の婚約者としての日々は、思っていた以上に忙しい。

 茶道、華道、舞、礼法、楽器、神事作法、古典、霊術、護身術、星読みに関する基礎知識、祭儀の補佐業務、分家各家との付き合い云々かんぬん……。

 しかも数ヶ月後には再誓の儀まで控えているため、最近は夫婦舞の練習時間も増えていた。


 本家嫡男の伴侶ともなれば求められるものは多い。しみじみと実感していると、汐凪が少しだけ眉を下げた。


「……大変じゃない? 毎日」


 静かな声だった。けれど、その声音には本気で私を案じている色が滲んでいて、思わずぱちりと瞬きをする。


「いえ、全然!」


 勢いよく答えると、彼は少しだけ目を丸くした。


「やることは多いですけど、やりがいがありますし。知らないことを覚えるのも楽しいですし、前はできなかったことができるようになるのも嬉しいので」


 何より。

 彼の隣に立つために努力できること自体が、私には案外幸せだった。


「──そう、それは、よかった」


 汐凪が目を細める。本当に安心したように、嬉しそうに。

 柔らかく緩んだ表情は普段より年相応に見えて、次期斎祀としての凛とした雰囲気が少しだけ薄れる。そういう瞬間を見るたび、私は少し得をした気分になるのだ。


「そもそも、汐凪様の方が大変じゃないですか」


 私の忙しさなど、彼に比べれば可愛いものだろう。幼い頃から次期斎祀として育てられてきた責任の重さは、たぶん私には想像しきれない。

 すると汐凪は少し肩の力を抜きながら、小さく笑った。


「まぁ……それだけ望まれてるってことだから、やりがいがあるよ」


 どこかで聞いたような言い回しだな、と思った瞬間。


「あ」

「ん?」

「今、私の真似しましたね?」


 指摘すると、彼は一瞬だけ目を丸くし、それから少し可笑しそうに笑った。


「そうかも」

「しましたよね?」

「君の言葉、わりと好きだから」

「ンィ……ッ」



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