第9話 次は俺たちが言わせない
門が落ちる。
石と鉄の軋む音が、砦の中庭に響いた。
門は落ちていく。
それだけで、十分最悪だった。
『幕は下りる』
声がした。
優しく、静かで、腹立たしいほど穏やかな声だった。
「下ろすな!」
ミエルが鎌を振る。
けれど、足が動かない。
黒い線が、ミエルの足首に絡んでいた。
細い。
けれど、重い。
鎌を当てても切れない。
刃が滑るだけだった。
「来るな!」
ミエルは門の隙間へ向かって叫んだ。
「君たちまで巻き込まれる!」
ロイドが走る。
アレンも走る。
若い騎士たちも、聖女も、老兵も。
ミエルは目を見開いた。
「来るなって言ってるでしょ! 僕のことは――」
ミエルの口が止まった。
その続きだけは、言えなかった。
ミエルは唇を噛む。
「……今のなし!」
「言うな」
ロイドが言った。
門の影をくぐりながら、手を伸ばす。
「君が言うなと言った」
「こういう時だけ素直に覚えるんだね」
「覚えたから、俺は今ここにいるんだ」
ロイドは足を止めない。
「巻き込まれに行くんじゃない。引き戻しに行く」
黒い羽根が、ロイドの周囲を舞った。
『騎士は、己の身を顧みず』
「顧みる。ここで死ぬ気はない」
ロイドは即座に言った。
「足場を確認しろ! 門の影に入るな! 縄をつなげ!」
騎士たちが動く。
腰の帯を外し、槍の柄に結び、盾の持ち手へ通す。
一本の縄ではない。
何本も結ばれた、格好悪い命綱だった。
『勇者は、死神を救うために外へ』
「外へは出ない。目の前の救える命を救うんだ」
アレンが門の内側に立った。
大剣を横にして、落ちかけた門の下へ差し込む。
腕に力が入る。
白銀の鎧が軋んだ。
「だが、手は届かせる」
『聖女は、涙ながらに祈り』
「泣きません」
聖女は杖を握り直した。
「絶対に治療します。皆を」
彼女の光が、縄を握る騎士たちの手に触れた。
黒い線で焼けた皮膚が、ゆっくりと塞がっていく。
老兵が喉を鳴らし、笑った。
「年寄りにも役を寄越せ。引く力くらいは残っとる」
「単独行動禁止だ」
若い騎士が言う。
「分かっとるわ。三人で引く」
「よし!」
ミエルは反射的に叫んだ。
それから、はっとする。
「違う! 褒めてる場合じゃない! 来るな!」
ロイドが門の隙間から、さらに手を伸ばす。
まだ届かない。
ミエルは黒い線に足を縛られ、あと一歩が踏み出せない。
「僕は死神だよ!」
ミエルは叫んだ。
「迎えに行く側なの! 迎えに来られる側じゃないの!」
「知るか」
「なんでだよ!」
「君はこの現場の担当なのだろう?」
「そうだよ!」
ミエルは涙目で怒鳴った。
「僕が担当! 僕の現場! 僕の書類! 僕の残業!」
「奇遇だな」
ロイドは、黒い線を踏み越えた。
「俺たちもここが仕事場なのだ」
ミエルが、言葉を失った。
ロイドの手が、あと少しで届く。
だが、その間に黒い羽根が滑り込んだ。
『ならば、騎士の手は届かず』
「届かせる!」
アレンが叫んだ。
門を支える大剣が、ぎしりと曲がる。
「押せ!」
騎士たちが盾で門を押し上げる。
門が、ほんの少し浮く。
隙間が広がる。
ロイドの腕が伸びた。
ミエルの指先に触れる。
届いた。
だが、黒い線がミエルの足首を強く引いた。
「っ」
ミエルの体が外へ引き戻される。
獣の群れが近い。
門の外側で、黒い牙が光った。
「離して!」
ミエルが叫ぶ。
ロイドの目が鋭くなる。
「それも駄目な言葉ではないのか」
「今は正しいでしょ!」
「間違っているな」
ロイドはミエルの手を掴んだ。
「全員で戻る」
黒い線が、わずかに震えた。
ミエルの目が揺れる。
若い騎士たちが縄を握る。
「「全員で戻る!」」
言葉が重なる。
黒い線が、少しずつ薄くなる。
聖女が杖を掲げた。
「絶対に治療します。皆を」
光が、黒い線の上を走った。
アレンが門を支えながら、ミエルを見た。
「君を置いていくために、俺は戻ったわけじゃない」
ミエルの口が、小さく開いた。
「……君たち」
『違う』
語り部の声が、初めてわずかに歪んだ。
『その役は、残るべきだった』
黒い羽根が渦を巻く。
『その死神は、門の向こうにあるべきだった』
『その幕は、下りるべきだった』
「べきべき五月蠅い!」
ミエルが叫んだ。
涙目のまま、鎌を握り直す。
「そんなに折ってほしいなら、全部叩き折ってやるから覚悟しろ!」
ロイドが一瞬だけ眉を寄せた。
「そういう“べき”ではないと思うが」
「うっさい! 気持ちの問題!」
ミエルは鎌の柄をロイドへ突き出した。
「掴んで!」
ロイドが柄を掴む。
その上から、若い騎士が掴む。
さらに老兵が掴む。
縄が結ばれる。
アレンが門を支える。
聖女が手の傷を塞ぐ。
誰も一人ではなかった。
「引け!」
ロイドが叫ぶ。
「全員で!」
騎士たちが一斉に引いた。
黒い線が鳴った。
弦のような音だった。
細く、高く、嫌な音。
ミエルの足首に食い込んだ線が、さらに黒くなる。
『小さな死神は、なおも微笑み』
「微笑んでない!」
『命を守るために』
「違う!残業したくないんだ!」
『己を差し出した』
「これ以上どこにも差し出さない!」
ミエルは鎌を振る。
自分の足元ではなく、線の先へ。
白い余白へ。
そこに、笑う仮面の影が見えた。
鎌の刃が触れる。
黒い線が、大きく震えた。
「今!」
ミエルが叫ぶ。
全員が引いた。
黒い線が裂ける。
ぱきん、と音がした。
骨でも鉄でもない音だった。
黒い線が、そこで折れた。
ミエルの体が、門の内側へ飛んだ。
黒いフードごと、勢いよく転がり込む。
ロイドの足にぶつかった。
「痛い!」
「生きているな」
「死神だけど痛いものは痛いの」
ミエルは床の上でじたばたした。
片方のツインテールはほどけ、フードは裂れ、頬には煤と黒い筋がついている。
それでも、門のこちら側にいた。
アレンが大剣を引き抜く。
門が完全に落ちた。
黒い獣の爪が、外側から叩く。
だが、今度は誰も門の向こうに残っていない。
ミエルは跳ね起きた。
「馬鹿!」
声が震えていた。
「みんなして何してるんだよ! 危ないだろ!」
ロイドが息を整えながら言う。
「全員で戻ると言った」
「僕も入ってるなんて聞いてない!」
アレンが膝をついたまま笑う。
ミエルが睨む。
「笑うな!」
それから、ほんの少しだけ口を閉じた。
「……僕は」
声が小さくなる。
「迎えに行く側なのに」
その時、空気が軋んだ。
笑いが止まる。
門の外側から、獣の声が消えた。
代わりに、紙をめくるような音がする。
一枚。
二枚。
無数の黒い羽根が、門の隙間から入り込んだ。
羽根は床に落ちない。
中庭の上で渦を巻く。
折れた黒い線。
燃え残った羽根。
散った言葉。
それらが、中庭の中央へ集まっていく。
『違う』
声がした。
今度は、優しくなかった。
『その役は、残るべきだった』
羽根の渦が、人の形を取り始める。
羽根の渦が、人の形を取り始める。
長い外套。
開いた本。
笑う仮面。
その手には、黒い羽根ペンがあった。
ミエルは鎌を構えた。
膝が少し震えていた。
それでも、前へ出た。
「べきべき言うなって言ったでしょ」
『ならば』
終幕の語り部が、仮面の奥で笑った。
『全員に、終わりを与えよう』
黒い線が広がった。
一人へではない。
ロイドへ。
アレンへ。
聖女へ。
騎士たちへ。
老兵へ。
補給官が閉じ込められている廊下へ。
砦の壁へ。
門へ。
床へ。
空へ。
中庭そのものに、黒い筋が走っていく。
ミエルの顔から、血の気が引いた。
「……全部、終わらせる気なの」
語り部は答えない。
羽根ペンが、空中に一行を書いた。
『最終幕』
ミエルは、歯を食いしばった。
「いいよ」
鎌を握る手に、力が入る。
「そんなに終わらせたいなら」
蜂蜜色の目が、仮面を睨む。
「全部、叩き折ってやる」
黒い線が、中庭いっぱいに立ち上がった。




