第8話 ここは僕が引き受ける
黒い羽根が、ミエルの足元で潰れていた。
『死神は、まだ言っていない』
踏みつけても、文字は消えなかった。
黒い染みのように、石床へにじんでいる。
ミエルは黙っていた。
それだけで、ロイドは眉をひそめた。
「ミエル」
「……何でもない」
「何でもない顔ではない」
ミエルは羽根から足をどけた。
黒い羽根は、ぺたりと潰れたまま、またゆっくり形を戻していく。
アレンもそれを見ていた。
さっきまで勇者を外へ残そうとしていた線は消えている。
だが、別のものが出てきていた。
細い。
糸みたいに。
ミエルの足元へまとわりつく、黒い気配。
「狙いが変わったのか」
ロイドが言った。
「言わないで」
ミエルは鎌を握る手に力を込めた。
「言葉にしたら認めることになる」
その時、門の外で獣が吠えた。
落とされた門の向こう側。
黒い獣たちが、爪で木板を引っかいている。
まだ破られてはいない。
だが、長くは持たない。
門の隙間から、黒い羽根が一枚、すっと入ってきた。
ミエルが鎌を振る。
羽根は裂けた。
しかし、裂けた羽根は二枚になって落ちた。
「増えるな!」
ミエルは二枚とも踏んだ。
今度は四枚になった。
羽根は、ロイドにもアレンにも触れない。
騎士たちの足元も避けていく。
ただ、ミエルのまわりだけに降る。
「人気者はつらいね」
ミエルは言った。
声が震えていた。
「震えているぞ」
「違うよ。もう仕事したくないだけ」
羽根の一枚に、文字が浮かぶ。
『小さな死神は、今日も走った』
誰も読んでいない。
それでも、声が聞こえた。
柔らかい声だった。
怒鳴らない。
脅さない。
まるで、寝物語を語るような声だった。
『誰にも感謝されず』
ミエルの肩が跳ねる。
『誰にも理解されず』
「やめろ」
『それでも、命を守るために』
「やめろって言ってるでしょ」
羽根が舞う。
黒い文字が、空中でほどけていく。
『健気に』
「やめろ」
『働き続けた』
「誰が働き者だ!」
ミエルが叫んだ。
「僕はもう働きたくないんだああああああ!」
鎌の柄が、石床を叩く。
高い音が鳴った。
「僕は帰りたいんだ! 寝たいんだ! たまには、今日は早く帰れたなって言いたいだけなんだ!」
怒鳴っている。
けれど、声の端が少しだけ揺れていた。
ロイドは剣を抜いた。
アレンも大剣を構える。
「相手はどこだ」
「声」
ミエルは周囲を見回す。
「羽根。文字。たぶん、この場の終わり方そのもの」
「斬れるのか」
「斬れたら苦労してない!」
門が軋んだ。
黒い獣の爪が、厚い木板を削る。
閂が揺れる。
砦内の兵たちが押さえに走った。
負傷者はまだ中庭に残っている。
聖女が治療を続けている。
老兵が担架を運ぼうとして、足をもつれさせた。
若い騎士が支える。
「負傷者を奥へ!」
「盾を門へ!」
「誰も一人になるな!」
飛ぶ声に、危ない言葉はなかった。
それでも、黒い羽根は増える。
門の隙間から差し込むように、何本もの黒い線が伸びてきた。
線は人間へ向かっている。
負傷者へ。
治療中の聖女へ。
門を押さえる兵へ。
そのすべてが、途中で曲がる。
ミエルへ向かって。
「……僕に寄せてる」
ミエルが小さく言った。
ロイドが聞き返す前に、羽根に文字が浮かぶ。
『人間たちは学んだ』
『ならば、残るべき者はひとり』
ミエルの顔が歪んだ。
「僕に言わせる気か」
返事はない。
門がまた軋む。
今度は、右側の留め金が弾けた。
黒い獣の前脚が、隙間から入り込む。
兵士が槍で押し返す。
その兵士の足元に、黒い線が立つ。
ミエルが走った。
「しゃがんで!」
兵士が反射的に身を沈める。
直後、門の隙間から飛び込んだ爪が、兵士の頭があった位置を薙いだ。
ミエルの鎌が線を切る。
黒い線がほどけた。
別の場所で、聖女が叫ぶ。
「こちら、担架が足りません!」
アレンが走りかける。
「俺が――」
「違う!」
ミエルが振り向く。
「君じゃない。君に言わせるための形だよ、これ!」
アレンは歯を食いしばった。
言葉を飲む。
「……全員で運ぶ!」
「そう!」
ミエルはうなずいた。
「そういうのでいい!」
ロイドが騎士たちへ指示を飛ばす。
「二人一組。負傷者を奥へ。門から目を離すな」
「はい!」
「勇者殿、中央を開けてくれ」
「分かった」
アレンが大剣を振るう。
敵を斬るのではない。
倒れた柱を叩き割り、担架の通り道を作る。
若い騎士が聖女を支えた。
「その言い方はなしです」
「分かっています。治します」
「お願いします」
ミエルは一瞬だけ、口元を緩めた。
だからこそ、黒い羽根はミエルだけを追う.
門の上部が割れた。
黒い獣の一体が、中庭へ落ちてくる。
ロイドが受ける。
アレンが横から押す。
盾兵が囲む。
獣は倒れた。
だが、倒れた獣の背中から、羽根がさらに舞った。
石床に文字が浮かぶ。
『誰かが、ここを塞がねばならない』
門の隙間が広がる。
あと少しで、群れがなだれ込む。
負傷者はまだ三人。
聖女が動けない。
老兵がひとり、担架の下で膝をついた。
ロイドが剣を構えた。
「全員で戻る」
「間に合わない」
ミエルは言った。
自分で言って、唇を噛んだ。
アレンが一歩出る。
「なら、俺が――」
「違うって言ってるでしょ!」
ミエルの声が割れた。
アレンの足元に伸びかけた黒い線を、鎌で切る。
「君の口からそれを出すための形なの!」
ロイドがミエルを見る。
「では、どうする」
ミエルは答えなかった。
また同じ形へ寄っていく。
誰かひとりを残す形へ。
ミエルの喉が鳴った。
ごくり。
小さな音だった。
けれど、ロイドには聞こえた。
アレンにも聞こえた。
ミエルは鎌を握り直す。
「ここは」
ロイドの目が細くなる。
アレンが息を呑む。
若い騎士が、何か言いかけて口を閉じた。
ミエルは歯を食いしばった。
「僕が引き受ける」
空気が止まった。
門の外の獣の声さえ、一瞬だけ遠ざかる。
ロイドが低く言った。
「いいのか。そんなことを言って」
ミエルは泣きそうな顔で怒鳴った。
「今はこう言うしかないんだから!」
足元から、黒い線が立つ。
黒い線は、もう誰の目にも見えていた。
黒い線は、ミエルの小さな足元から伸びている。
線の先は、白く抜けていた。
ミエルは振り返らない。
「いいから、君たちは先に行って!」
『よい』
語り部の声がした。
『死を嫌った死神が、命を守るために残る』
『美しい終わりだ』
「最悪」
ミエルは吐き捨てた。
「僕の終わりを、勝手に書くな」
鎌が振るわれる。
ミエルは門へ走った。
小さな体で、黒い線の中へ飛び込む。
負傷者の足元に絡んだ線を切る。
聖女の背中へ伸びた線を切る。
老兵の膝へ絡んだ線を切る。
鎌が軋む。
火花のように黒い欠片が散る。
「ミエル!」
ロイドが叫ぶ。
「僕の線はあと!」
ミエルは振り返らない。
「君たちの線が先!」
「順番がおかしい!」
声だけが、無理やり跳ねていた。
「順番にはうるさいんだよ!」
門がさらに開いた。
黒い獣がなだれ込む。
ミエルは鎌の柄を地面に突き立てた。
石床に黒い円が走る。
獣の足が止まる。
一拍。
ほんの一拍。
その間に、ロイドが負傷者を引きずる。
アレンが聖女を抱える。
若い騎士が老兵を担ぐ。
全員が奥へ下がる。
ミエルのフードが裂れた。
金色のツインテールが片方ほどける。
頬に黒い筋が走った。
鎌の刃が、ぎりぎりと鳴る。
『小さな死神は』
「黙れ」
『最後まで』
「黙れって」
『走り続けた』
「誰が最後だ!」
ミエルは鎌を振り抜いた。
黒い線がまとめて裂ける。
門の内側にいた人間たちの線が、ほどけた。
ロイドが叫ぶ。
「今だ、全員下がれ!」
「全員で戻る!」
アレンが続けた。
兵たちが動く。
負傷者が奥へ運ばれる。
聖女が転びかけ、若い騎士が支える。
老兵が息を荒げながらも、自分の足で進む。
誰も残らない。
誰も置いていかない。
そのはずだった。
ミエルも戻ろうとした。
一歩。
足が動かない。
黒い線が、ミエルの足首に絡んでいた。
細い。
けれど、重い。
鎌で切ろうとする。
刃が通らない。
「……あ」
門が落ち始めた。
今度は内側からではない。
外からでもない。
語り部の黒い線が、門の影を引き下ろしていた。
ミエルは門の外側にいる。
ロイドたちは内側にいる。
門の向こうへ、ミエルだけが残る形に。
『幕は下りる』
語り部が囁いた。
アレンが走り出そうとする。
「俺が――」
ロイドが腕を掴んだ。
「違う」
「だが、ミエルが!」
「分かっている」
ロイドは門へ走った。
ただし、一人ではない。
「全員で引き戻す!」
若い騎士たちが走る。
アレンも、聖女も、老兵も。
ミエルが目を見開いた。
「来るな!」
ロイドは聞かない。
門の隙間から手を伸ばす。
「ミエル!」
「駄目だって! それ以上こっちに来たら――」
「次は」
ロイドの手が、黒い線の向こうへ伸びる。
「俺たちが言わせない」
ミエルの口が止まった。
門が、さらに落ちる。
黒い羽根が、視界いっぱいに舞った.




